第5章 死地-その1
「カウンター、どうぞ」
アイスピックで氷を割っていたマスターが、営業スマイルを浮かべ、静かな動作でカウンターの席を示した。
すげーカッコイイ人だな。
マスターを見て花水木はそう思った。セミロングの髪をきっちりとまとめ、化粧は最低限。この人のために作られたとしか思えない黒スーツを隙なく着こなし、さらに言えば動きに何一つ無駄がない。事前に男装している女性だと聞いていなかったら、絶対に女性だとは思わなかっただろう。
「ふふ。マスターに一目惚れしちゃった?」
花水木がまじまじとマスターを見ていたからか、奥にいた女性が楽しそうに笑った。
え? と花水木は、耳を疑った。
その声に聞き覚えがあった。どこで聞いた、と女性に目を向け、顔を見て彼女が昼間に蕎麦屋で声をかけてきた人だと気づき、花水木は驚いた。
「マスター、ものすごいイケメンだもんね。一目惚れしちゃっても当然」
「恐縮です」
マスターが静かに笑い、花水木に視線を向けた。
「さあ、こちらへどうぞ」
マスターが示してくれたのは、奥から三つ目の席、先に来ていたボブカットの女性と一つ離れた、マスターの正面の席だった。
いつまでも突っ立っているわけにはいかず、花水木は促されるままにその席に腰を下ろした。
「ん? よしあき?」
席に着いた花水木の隣で、よしあきは直立不動の姿勢になり、緊張した面持ちをしていた。一体どうしたのか、と怪訝に思って見上げると、よしあきが一つ咳ばらいをし、一歩下がって奥の女性に一礼した。
「花水木を連れてまいりました、『つこさん。』様」
「はい、お疲れさま、よしあきくん」
……花水木の頭が真っ白になった。
何と言った?
よしあきは、今、何と言った?
信じられず、信じたくなく、花水木はよしあきを呆然と見上げた。そんな花水木に「悪いな」と肩をすくめたよしあきは、マスターが無言で差し出した看板を受け取り、花水木のそばを離れた。
本日貸切。
そう書かれた看板を扉の外にかけたよしあきは、そのまま門番のように入口近くの席に腰を下ろす。そんなよしあきに、マスターが「ごゆっくり」とビールジョッキを差し出し、よしあきはそれを受け取って満面の笑みを浮かべた。
「ふふ。今日は私のおごりだから、好きなだけ飲んでね」
「あざっす!」
『つこさん。』の言葉に嬉しそうにジョッキを掲げたよしあきを見て、真っ白だった花水木の頭に怒りが満ちていく。
「て……てめえ、てめえっ、よしあきぃっ!」
花水木は激昂し、よしあきに殴り掛かってやろうと腰を浮かせた。
──その時。
「どうぞ」
タンッ、と音を立てて、花水木の前にグラスが置かれた。
「『つこさん。』から歓迎の一杯です」
──完全に「もって」いかれた。
少し音を立ててグラスを置く、それだけのことだったのに。
花水木は、金縛りにあったように身動きできなくなった。
「……くっ」
どうにか目だけを動かしてマスターを見上げると、その口元は笑っているが目は一切笑っていなかった。目の端に、マスターが先ほどまで使っていたアイスピックが見えてゾッとした。もし花水木が妙な動きをしたら、その瞬間、そのアイスピックで串刺しにされるだろう。
まさに、蛇に睨まれた蛙だった。
「だめよ、かわかみちゃん。お客様でしょ?」
かわかみちゃん?
その名に聞き覚えがあった。やはり昼間、あの蕎麦屋でだ。あのとき『つこさん。』と一緒にいた、眼鏡をかけた女性。彼女のことを、『つこさん。』は「かわかみちゃん」と呼んでいた。
ハッとなってマスターの顔を見た。眼鏡をかけている時に感じた柔らかな雰囲気はまるでないが、間違いなくあの女性だった。
「失礼いたしました。店内で暴れられては迷惑でしたので」
「そういうことだから。気をつけてね、花水木くん。かわかみちゃん、とーっても強いのよ」
コイツ……やばい。
間咲正樹に鍛えられ、相手の力量が見えるようになったのが幸いだった。マスターの力量は、比べるのもアホらしいぐらい圧倒的に上。ひょっとしたら間咲正樹だって相手にならないかもしれない。
勝てない。どう逆立ちしたって、マスターに花水木は勝てない。何とか隙をついて逃げる、その一手しかない。
落ち着け、焦るな、と花水木は自分に言い聞かせ、臨戦態勢で姿勢を正した。
「……俺は、ハメられた、てことか」
「まあ、そうなっちゃうね」
ふふん、と『つこさん。』は楽しそうに笑った。
「お友達を責めちゃだめよ。私が無理を言って、花水木くんを連れてきてもらったんだから」
「そうかよ。で、一体俺に何の用だ?」
「お話したかったの、花水木くんと」
『つこさん。』は無邪気に笑うと、空になったグラスを指差し、「おかわり」とマスターに告げた。




