第4章 言葉-その7
間咲正樹がくれた巾着袋から扇子を取り出すと、花水木は目を閉じて立ち、呼吸を整えた。
扇子を開き、その手をゆっくりと上げる。
トン、と足で床を叩き、静かに扇子を持った手を下ろす。
たったそれだけの動きを、花水木は何度も繰り返した。
「お前に舞を教えよう」
他のことはわりといい加減なのに、舞に関してだけは由房は厳しかった。この、扇子を持って手を上げ下げする、それだけの動きを、毎日二時間、三ヶ月も続けさせられた。
これに何の意味があるのか。
単調な教えに耐えきれず、花水木が苛立ちながら疑問をぶつけたら、由房に大笑いされた。
「花が、意味など考えるものか」
「はぁっ!? 意味わかんねぇっ!」
「それでいいのだよ」
「ますますわかんねぇっ!」
「まったくお前は。そのすぐカッとなる性分をなんとかせんか。そんなことでは、永遠にここで足踏みだぞ」
そうだよなあ、と花水木はおかしくなる。
自分がいったい何を神と信じている人に拾われ、指導を受けているのか。それすら知ろうとしなかった自分が、求める答えにたどり着けるわけがない。
デジタルに、お手軽に、検索すれば出てくる「言葉の断片」に、自分が求める答えはない。
ならば何も語らぬ神、ナマコは。
何を答えとして示しているのだろうか。
「……ふう」
同じ動作を繰り返しているうちに呼吸が整い、花水木の気持ちが落ち着いた。
自分に『つこさん。』を止める資格があるのか?
その疑問への答えはない。簡単に出せるものではない。おそらく、一生問い続けその答えを求め続けるのが、花水木の贖罪なのだろう。
だから、今はそれを脇に置く。
今、花水木がすべきことはただ一つ、『つこさん。』がやっていることをやめさせ、友達の伊賀海栗を助けること、それだけだ。
「よし」
花水木は扇子を置くと、顔を洗って身支度をはじめた。化粧をし、着物を身につけ、鏡で確認。
そして草履を履くと、巾着袋を手に歩き出した。
「おっと、いけね」
ドアに手をかけたところで、キャリーバッグに入れっぱなしにしていた独鈷杵を思い出した。搭乗時の身体検査に引っかかるだろうとキャリーバッグに入れていたのだが、すっかり忘れてそのままだった。
「ま、せっかくもらったお守りだしな」
花水木はハンカチで独鈷杵を包むと、それを懐に入れ、今度こそホテルの部屋を後にした。
◇ ◇ ◇
日が暮れると街の雰囲気は変わり、にぎやかな観光地から大人が過ごす夜の街へと変わっていく。
午後七時と週末の夜にしてはまだ早い時間だから、通りには仕事帰りのビジネスマンやOL、学生に家族連れにと、たくさんの人が行き交っていた。
そんな人ごみの中を、着物姿の花水木が静かに歩いていく。
「まったく……よしあきのやつ、のんきなものだな」
せっかく来たんだから観光してくる、と行って別れたよしあきは、まだホテルにチェックインしていなかった。電話をしたら「飯食ってるから、七時に現地集合にしようぜ!」と陽気な声で答えられた。おそらく酒も入っているのだろう。
少し寂れた商店街を通り抜け、飲屋街の入口にあるビルへ。
昼間は静かだった一帯が、夜の街の顔となり、にぎやかな喧騒に包まれていた。ビルの前でよしあきを待っていると、すでに酔っている男たちが着物姿の花水木を見て「かわいいな」「きれいだな」なんて言いながら通り過ぎていく。
「はぁい、お嬢さん、お一人?」
待つこと三十分。七時ちょうどにやってきたよしあきは、予想通り赤い顔でやたらと陽気だった。
「遅えよ」
「いや時間ぴったりだから。三十分前行動のお前がおかしいから」
「ウニがピンチだ、てときに、よくのんびり観光して酒飲めるな!」
「まあまあ、そうカリカリすんな。こっちがカリカリしてたらあっちも警戒するって」
よしあきはヘラヘラ笑いながら、「それに」とスマホを取り出した。
「ほら、ウニは大丈夫だって」
スマホには、机を挟んで仲良く夕ご飯を食べている伊賀海栗と黒イ卵が映っていた。
「さっき卵ちゃんとも電話したんだけどな。ウニ、今日は元気だってよ」
「そうか」
よしあきの言葉に花水木はホッとしたが、それはそうと、とよしあきを睨む。
「お前、これ、隠しカメラそのままで来たの?」
「そりゃお前、万一に備えてな」
帰ったらちゃんと外すって、といいながら、よしあきはスマホを切り、「よし」と気合いを入れた。
「世のサラリーマンが、仕事帰りにちょっと一杯、て時間だな……行くか、花水木」
「ああ、行こう」
『お代六千円』
その看板を横目に、花水木は地下への階段を降りた。昼間は真っ暗だったが、今は扉の横の電気がついていた。
階段を降りた花水木は扉に手をかけ、一つ深呼吸をしてからそっと扉を押した。
「いらっしゃいませ」
少し抑え気味の、女性の声が出迎えてくれた。
薄暗い店内にいたのは。
カウンターの中にいる黒スーツ姿のマスターと、カウンター席の一番奥でグラスを傾けている三十前後のボブカットの女性客、その二人だけだった。




