第1章 下山-その3
伊賀海栗がヤバイ。
花水木がよしあきからそう連絡を受けたのは一ヶ月ほど前のことだった。世俗から隔絶され修行中の花水木は、「よく俺まで連絡が届いたな」と驚いたものだ。
『なんとか来れねえか? なんかヤバそうなんだよ』
師匠の許可を得てかけた電話で事情を聞き、芳しくない状況であることは感じた。しかし一度山に入ったら修行が終わるまで下りられないのが決まりである。親兄弟の死に目でも下山の許可が出ないのに、友人の様子を見に行くという理由で許可が下りるとは思えなかった。
しかし、よしあきに拝み倒されて、ダメもとで師匠の由房に相談してみたところ。
「いいぞ」
拍子抜けするほどあっさり許可された。
「い、いいんですか?」
「お前なら問題ないだろ」
「ありがとうございます!」
「その代わり、条件がある」
「ふふふ」と意味ありげに花水木を見た師匠。師匠の由房は、スパダリ体質のやたらと色気がある三十男。その流し目になにやら「ゾワッ」とするものを感じた花水木だが、その悪寒をなんとかこらえ「なんでしょう?」と尋ねた。
「下山を許可できるのは……そうだな、五日とする。期限を超過した場合、破門とする」
「わかりました」
「そして下山の際は、お前だと絶対にバレない格好で行くこと」
「変装……するということですか?」
「そうだ。変装方法はこちらで指定する」
「わかりました」
変なことを言うな、と思ったが拒否はできない。花水木は承知し、それによって下山を許可された。
「……で、指定されたのがその恰好か」
なるほどねえ、とよしあきはうなずき、今世紀最高の笑顔で親指を立てた。
「師匠、グッジョブ!」
「やかましい」
二十四時間営業のスーパーで山のように食料品を買い込むと、二人はそのまま伊賀海栗のアパートへと向かった。
「んで、ウニの様子は?」
「まあ、少しは落ち着いたけどよ……俺も仕事あるし、彼氏いる女性のアパートに毎日顔出すのもな」
「え、ウニ、彼氏できたの!?」
「おう、いい男だぜぇ」
「なら彼氏に任せろよ。俺らが行ったら問題じゃね?」
「その彼氏から頼まれたんだよ」
なんでも伊賀海栗の彼氏はよしあきが紹介した男だそうで、今は仕事で海外に長期出張中だという。
「なんだかおかしいからマメに様子を見てくれ、てな。だけどここまで一気におかしくなるとは思わなかった」
実はな、とよしあきが声を落とした。
「三日前、リストカットしかけた」
「おい!」
「ウニに泣いて頼まれたから、まだ彼氏には連絡してねえけど……お前が来てくれて、マジ助かった気分だよ」
「それ、もう親に連絡すべきじゃね?」
「まあな。でも、いろいろあるんだよ」
よしあきの口調が妙に重い。何やら複雑な事情があるらしいと花水木は感じた。
「かなりヘヴィだな。俺にどうしろっていうんだよ」
「お前に連絡したときは、ここまで深刻じゃなかったんだよ」
連絡を受けてから今日までおよそ一ヶ月。状況が変わるには十分な時間だ。
「修行中とはいえ、お前も聖職者のはしくれだろ? ちっと話を聞いてやってくれよ」
「ここまでヘヴィだと、中途半端に修行したやつが一番ダメなんだよ」
「そうなのか? あ、いや……そうかもな」
「ま、ここまで来たら仕方ねえ」
やれやれ、と花水木は買い物袋を持ち直した。
「あくまで友人として、お見舞いに行くよ。ヤバそうだったら、明日にでも彼氏か親に連絡するさ」
「だな」