第4章 言葉-その6
※作中の事件等はあくまでお話の中でのことであり、実際のユーザー様とは無関係です。
自分の絶叫で、花水木は浅い眠りから飛び起きた。
「手……俺の、手……」
べっとりと血がついているような気がした。違う、違うとタオルで何度も拭っているうちに、胃のあたりがムカムカして吐き気がこみ上げてきた。
「うっ……」
花水木はタオルで口元を押さえ、大急ぎでバスルームに飛び込んだ。
間一髪、間に合った。
「……くそっ」
胃の中の物をあらかた吐き出した花水木は、顔を洗い、歯を磨いてからバスルームを出ると、よろよろとベッドに歩み寄り、そのまま倒れ込んだ。
「はは……俺に『つこさん。』を責める資格なんて……あるのかよ……」
花水木が感想欄を炎上させた人が自殺したと知ったのは、炎上から一年も経ってからだった。
自殺の原因は、会社でのひどいパワハラだったそうだ。
感想欄が炎上したことは付随的なもの、一年も前のことだし自殺の原因ではないと判断され、花水木が受けた警察の事情聴取も、ごく形式的なものだった。
だが花水木は、その事実を知って、安堵よりも後悔を覚えた。
もしもパワハラで苦しんでいたその人が、心の安らぎを得るために小説を書いていたとしたら?
その場所を自分がぶち壊し、その人の逃げ場をなくしてしまったのだとしたら?
だとしたら、その人を殺したのは、自分ではないのか?
考えすぎだ、そんなはずはないと、思えば思うほど、花水木の自責の念が大きくなった。
俺は人を殺した。
いや、たかが小説サイトの感想で人が死ぬなんてありえない。
その二つの思いがせめぎあい、花水木の心を追い込んだ。眠れなくなり、何もかもが手につかなくなった。かろうじて卒業研究の論文はまとめて提出したが、それが限界だった。
卒業式までの何もやることがない時期、花水木は発作的に家出をした。
そこからしばらくさまよったが、記憶ははっきりしておらず──気が付けば花水木は、師匠である由房に拾われて山で修行していた。
「ちと、考えすぎだな」
花水木が自分の罪を告白したとき、由房はそう断じた。
「お前の行為が全く無関係、とは言えまい。だが、決定打にはなっておらぬよ」
「だけど、俺が……あんな書き込みをしなければ……」
「憩いの場がなくならなかったと? それがあれば自殺しなかったと? まあ、それが真実である可能性はゼロではないが」
「だったら、俺はその罪を償わないと……そうしないと、俺……」
「では、どう罪を償うのかね?」
「それを教えてほしいんじゃないですか!」
花水木が苛立ちのままに発した言葉を、由房は静かに受け止めた。その揺らがない瞳に、花水木は我に返り、慌てて由房に頭を下げた。
「すいません、俺……俺また……」
「なあに、未熟な弟子の怒りを受け止めるのも、師の務めよ」
由房は泰然と笑い、花水木に頭を上げるよう言った。
「花水木。お前が頭で考え、生み出したその物語。お前、ノートに書き記しているね?」
由房の問いに、花水木は静かにうなずいた。
「形にして吐き出せば……少しは、心が軽くなるかと、思って……」
「そして、本当かどうかわからぬ物語に縛られたか。バカ者が」
多分それが、花水木が初めて由房に叱られたことだった。
「花水木よ、お前、少々言葉に囚われすぎだ」
「え?」
「よいか、言葉を侮るな」
由房は立ち上がり、花水木の前に座ると、洗いすぎてボロボロになった花水木の手を優しく取った。
「言葉を形とし刻んだ文字は、何よりも人を縛る」
「……はい」
「そして文字ほど、人を歪めるものはない」
愛している。
そう書かれた文字を読めば、多くの人が温かく真摯な気持ちを思い浮かべるだろう。
だがこれが、「私はお金を」の後に続く言葉だったら?
一方的に想っている人が他人と仲睦まじくしている姿を見て、ストーカーがポツリと漏らしたものだったら?
「今の時代、言葉は文字となり、切り取られ、瞬時に世界を飛び交う。その切り取られた文字に人は囚われ、あっさりと歪められる」
アナログで発せられた「言葉」が、コンピュータというデジタルの世界に投じられる。その言葉が発せられた状況、文脈、真意、そんなものはお構いなしに切り取られ、貼り付けられ、本来届かなかったはずの人へダイレクトに届く。
そして、言葉は誤解され、人を歪め、炎上する。
「花水木、お前、一度言葉を捨てよ」
「え?」
「そうだな、まずはお前の名にあるものを……咲く花の美しさを、流れる水の清らかさを、根を張る木の強さを、言葉によらず表してみよ」
お前が罪を償うのは、それができてからだよ。
由房は穏やかな笑みを浮かべ、花水木のボロボロの手に一本の扇子を乗せた。




