第3章 誘導-その2
おい……なんだよ、これ。
花水木は、アパート内の惨状に言葉を失った。
きちんと棚に収まっていたはずの、何もかもが床の上に投げ出され、ふたの開いたペットボトルから中身がこぼれていた。壁際のテレビはひび割れ、壁には何かで殴りつけたあとがいくつもある。きっと、玄関に転がっていた金属バットで殴ったのだろう。
「すまねえ……」
そして、花水木に土下座するよしあきと、部屋の奥で毛布をかぶって震えている伊賀海栗がいた。
「すまねえ、花水木。俺の失敗だ。すまねえ、すまねえ……」
「……何があったんだ」
昨夜とは打って変わった様子の二人の友人に、花水木はかろうじて声をかけた。伊賀海栗は毛布をかぶったまま激しく頭を振り、嗚咽を漏らした。
「よしあき……何があった、この有様はなんなんだ!?」
「すまねえ……俺が……俺が、忘れて帰っちまった」
花水木が詰め寄ると、よしあきが声を震わせて答えた。
「忘れた? 何を?」
「……タブレット」
「なっ!?」
ネットでの誹謗中傷に追い詰められ、伊賀海栗がリストカットしかけたのは、ほんの四日前。大事には至らなかったものの、しばらくはネットから離れようと伊賀海栗はよしあきにパソコンやらスマホやらを預け、昨夜も「回復するまで当分ネット断ちだ」と約束していた。
だが、そんな伊賀海栗の部屋に、よしあきは自分のタブレットを置いて帰ってしまった。
「俺が来た時……ウニはネット見てて、それで、俺の顔見て泣き出して、暴れ出して……」
そして、この惨状になった。
よしあきは必死で伊賀海栗を止めようとしたが、バットを振り回されてはどうしようもなかったという。
「バ……バカヤロウ!」
「すまねえ、ホントに、すまねえ……」
思わず怒鳴った花水木に、よしあきはひたすら土下座で謝り続けた。
いつでもネットに繋がる環境に慣れた人間が、意思の力だけでネットを利用しないのは至難の業だ。それがわかっていたから、伊賀海栗は手持ちのパソコンやスマホをよしあきに預けたのだ。
なのに、その預かった本人がタブレットを置いて帰るなど、絶対にやってはいけないことだった。
「ウニにネットは、今一番ダメだろうが!」
「俺、ちょっと酔ってて……忘れたことに気づかなくて……」
くそっ、と花水木は思わずよしあきを殴りそうになって、慌てて思いとどまった。
よしあきがタブレットを持って来たのは、飼い犬の写真を見せて伊賀海栗を慰めよう、という気持ちからだった。その狙いはあたり、伊賀海栗はよしあきの飼い犬の写真を楽しそうに見て、「私も犬飼うか」なんて笑っていた。
「ちく……しょお……」
こんなことになるのなら、遠慮せず泊まればよかった、と花水木は後悔した。そうすれば、よしあきが忘れたタブレットを伊賀海栗が使うことはなかった。花水木が使わせなかった。
「殴ってくれ……俺のせいだ。俺が全面的に悪い……」
「いいから……顔、洗ってこい、よしあき」
「だけど、俺……どうしていいか……」
「だったら自分で殴ってこい! 俺だって自分を殴りたいんだよ!」
ちくしょう、ちくしょう、とつぶやきながら、花水木は静かに伊賀海栗に近づいた。
「ウニ」
深呼吸し、なんとか気持ちを整え、伊賀海栗の前にしゃがんで声をかけた。伊賀海栗は、ビクッ、と体を震わせ、花水木を拒絶するように激しく頭を振った。
「俺ら、部屋片付けるから。あとな……俺の兄弟子に当たる人が、信頼できる医者を紹介してくれたんだ。話だけでも……しにいかないか?」
伊賀海栗はひたすら頭を振り続けていた。無理強いはよくないか、と花水木は一旦引くことにした。
「わかった。飲み物、置いとくからな。なんなら、少し寝ろよ」
振り続けていた頭が止まり、嗚咽が漏れてくる。花水木はぐっと言葉をこらえ、静かに立ち上がって伊賀海栗から離れた。
ぱたり、と部屋とキッチンを隔てる扉を閉めると。
花水木は自分のほおを思い切り殴った。