第3章 誘導-その1
ミーティングが長引き、ランチを取るために職場を出たときには、十二時三十分を回っていた。
木曜日はイタリアン、となんとなく決めているのだが、行きつけのイタリアン・レストランはランチの数が限定されている。この時間から行っても無駄だろうと思うと余計にイタリアンが食べたくなり、さてどうしたものかと悩んだ。
「……?」
スマホの着信に気づいたのは、そんな時だった。会社からかと眉をひそめたが、メッセージの送信者を見てすぐに眉を開いた。
「ふふ」
ランチを取る店が決まった。重苦しい気分はすっかり晴れ、鼻歌を歌いながらスキップしたくなるほど軽い足取りでお目当のお店へと向かった。
職場から歩いて十分。少し寂れた商店街を通り抜け、飲み屋が並ぶ通りの入口にその店はあった。
『お代六千円』
そう書かれた看板が目印。驚いたことにそれが店名だ。さすがにこの店名は怪しすぎるのか常連客以外が寄り付かず、おかげで静かに過ごすには最高のお店だった。
「あ、すいませーん……」
カラン、と小さな鐘の音を鳴らしながら扉を開けると、メガネをかけた可愛らしい女性が振り向いた。明るい緑のギンガムチェックのワンピースの上に、フリルがついたエプロンをした女性は、発しかけた言葉を飲み込むと「いらっしゃいませ」と笑顔を浮かべてくれた。
「イタリアンのランチ、できる?」
「またそういうわがままを。お任せになりますよ?」
「パスタ以外ならオーケー」
カウンターの一番奥、その指定席に座ると、スマホを取り出してサイトにアクセスする。
「ふふ、始まってる、始まってる♪」
次々と書き込まれるメッセージに、別の人からの反論があり、それがまた別の反論を呼ぶ。ものの五分で激烈な言葉による非難の応酬となり、それがまたさらに過激な言葉を呼び寄せた。
「お待たせしました」
十分ほどでランチが出てきた。白身魚の香草パン粉焼きをメインに、フォカッチャ、レモンドレッシングをかけたサラダ、バニラアイスのドルチェまでついている。ムチャぶりだったはずなのにこのクオリティ。大したものである。
「ありがと」
「何見てるの?」
無言でスマホを見せると、カウンター内の雇われマスターは静かにそれを読み、「あらあら」と微笑を浮かべた。
「そろそろ限界じゃない?」
「そうね、残念」
「それで、どうするつもりなの? 『つこさん。』」
「どうしましょうね」
『つこさん。』と呼ばれた女性は、くくくっ、と無邪気な少年のように笑い、ランチを口に運んだ。
「おいし♪ かわかみちゃんのランチは、温かい家庭の味ね」
「それはどうも。主婦としては誇らしいわ」
「秘訣は何?」
「別に何も。『つこさん。』は、うちの息子と同じ味覚レベルだから、とても簡単ね」
「あら私、中学生男子と同じ?」
「そういうこと」
カラン、と扉が開いた。ネクタイをした若い男が二人、「まだいけますか?」と聞いてくる。
「すいませーん、今日のランチは終わっちゃいました」
『つこさん。』はカウンター内に置かれていた小さな黒板に目をやった。どうやら今日のランチは「きのこの炊き込みご飯定食」だったらしい。
「ねえ、明日の夜はお店やるの?」
「当たり前でしょ。週末の書き入れ時よ?」
この店の本業はバー。平日昼のランチは十食限定の、おまけみたいなものだ。
「そう。なら予約ね。私と……あと二人、若い子が来るから」
「かしこまりました。電気ブラン、入れておきますね」
「うん、よろしく♪」
時間がないからと食後のコーヒーは断り、『つこさん。』は席を立った。
「ああ、そうそう」
扉に手をかけたところで、『つこさん。』は「忘れるところだった」と振り返った。
「山が動いてるよ」
「そのようですね」
知ってますよ、と澄ました顔のマスターに、『つこさん。』は無邪気に笑う。
「暮伊豆に接触したことは?」
「……それは知りませんでした」
「そう、よかった。準備は万全にね」
マスターこと「かわかみれい」の笑顔から、一瞬で温もりが消える。それを見た『つこさん。』は満足そうにうなずき、カラリと軽やかに扉を開けた。
「ふふ……ああ、やっと会えるのね」
雲ひとつない空をまぶしそうに見上げ、『つこさん。』は邪気のない、まるで少年のような笑顔を浮かべた。
「楽しみだわ。たくさん語り合いましょうね、花水木くん」