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イエローブースター  作者: 綾沢 深乃
「第6章 開かれた二枚のルーズリーフ」

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「第6章 開かれた二枚のルーズリーフ」 (1)

(1)

 夕食を食べてから何もする気が起きず、すぐに電気を消してベッドに横になった。いつもならデスクで課題をやっている時間帯。だが明日は学校に行かないのが決定している。大体、今日の課題を持って帰ってきていない。

 その時点でどうしようもないのだ。

 最初の数分は習慣になっている課題をしない事に違和感があったが、やがて疲れが忘れさせてくれた。

 翌朝、いつものように制服に袖を通して、先に家を出た母と、こちらと全く会話をしようとしない父の二人をやり過ごし、いつもと同じ時間に家を出た。

正直、自分が最後にこの家を出るので、わざわざ同じ時間に出る必要はない更に今日は、制服を着る理由もないのだ。でもだからと言って、変に肩の力を抜いてしまったら、両親に気付かれる可能性がある。万が一にもそれは避けなければならない。

なので巧は出来るだけ意識して、普段と変わらない朝を過ごしていた。

永遠に隠し通せないのは重々承知している。いつかは両親にバレてしまうだろう。けれど、そのいつかまでの猶予時間が今は貴重なのだ。

 父親が出た後、通学カバンを持って家を出た。

 突き刺すような冷たい風を受けて、巧は一歩ずつ駅へと向かう。

 昨日と大して変わらない天気なのにどこかが微妙に違っていて、足場が安定しない。まるで夢の中にいるような感覚だった。

 毎日乗っている電車の普段とは違う乗車口の前に立つ。それは意図的ではなく自然とそうなってしまった。ホームの景色がいつもと違う事で初めてその事に気付く。どうやらいつもと同じ様に心掛けても、そうはいかないらしい。

「ふぅー」

 知らず知らずの内に溜まっていた緊張を細く開いた口から吐き出す。

 ドア付近に立って、目を瞑って乗り換え駅までを過ごした。乗り換え駅に到着した巧は、次の電車に乗る。

 大きな駅に降りると、巧は地下鉄へ向かおうとする足を止めた。

 周りを軽く見回して、同じ学校の制服がいないのを確認すると、駅を出て繁華街の方向へ向かった。時刻は午前八時。この時間はまだ、どの店も開店準備に追われている。後二時間もすれば、大勢の人で賑わう事になるだろう。

 横目に映るアーケード街にそう感想を抱きつつ、巧は南下する。

 アーケード街からビルが並ぶビジネス街へ。視界にサラリーマンの姿が増えていく。皆、重そうなコートを羽織り早歩きで黙々と歩いていた。

 前をだけを向いて黙々と歩く彼らに混じり、巧はブレザーにダッフルコートといった周囲とは少々浮いた格好で信号を待っていた。

 信号が赤から青へと変わり、横断歩道を渡る。途中、視界の端にあの信号のない横断歩道が映ったが、まだ約束の時間ではない。当然ながら車はなかった。

 巧は白い息を吐きつつ、緑色のドアの喫茶店へとやって来た。未だかつてこんなに早い時間に来た事がないが、夕方に来るのと変わらないその佇まいに安心した。ココはいつでも変わらないようだ。

 保っていた緊張が緩和された巧は、小さく笑って緑色のドアを開ける。

 カランコロン。

カウベルの音を響かせてドアが開き、暖かな風が巧を迎え入れた。この時間はモーニングもやっているが、店内に客の姿はない。

 カウベルに反応して、奥のテーブルを拭いていた香夏子が顔を上げる。

「いらっしゃいませ。あれ? 巧君?」

「どうも、おはようございます」

 テーブルを拭いていた香夏子は、普段の時間なら来るはずのない巧に首を傾げる。彼女は入口で立っている巧の傍まで駆け寄ってきた。

「あらあら学校はどうしたの? まさかサボり?」

「ええ。そのまさかです」

 香夏子に嘘をつく理由がない。

 巧は堂々と両親にも内緒にしていた事実を告げた。

「そっか〜。サボちゃったか。まあ、やっちゃったものはしょうがないか。ほら、入口に立ってないで、中に入りなさい」

「いいんですか?」

 追い出される可能性も考えていた巧は予想外の香夏子の反応に驚いた。彼の問いに彼女は優しく微笑む。

「いいよ。巧君がそういう事をする子じゃないのは、知ってるもん。大丈夫? ココまで大変だったでしょう?」

 どうしてこの人は、何も言っていないのにそこまで分かるのだろう。

 彼女の気遣いは何層にも壁を作っていた巧の心にスッと入り、温めていく。

 同時に両肩にあった見えない重りが蒸発して軽くなっていくのを感じた。

「ありがとうございます」

 香夏子に頭を下げる。それは廊下ですれ違った教師にする感情のないものとは違い、心を込めたものだった。

「うん。では、いつもの所へどうぞ」

 香夏子に案内されて、巧は窓際のテーブルへ向かう。

 反対側のイスに通学カバンとダッフルコートを掛けて、身軽になったところでイスに腰を下ろす。時間帯が違うだけでこのイスの座り心地も自分を裏切らない。その事にひたすら安心する。

「さて、何する?」

 いつも通りの完璧なタイミングで香夏子はお冷やを運んで来た。テーブルに置かれた水を一口飲んで巧はメニューを手に取る。

「やっぱり、いつものにしようかな」

「せっかくだからモーニングのセットにする? それなら巧君がいつも飲んでるブレンドもあるし。食べた事ないでしょ、ウチのクラブハウスサンド。美味しいぞ〜」

 普段は開かないページを開いて、クラブハウスサンドの写真を指す香夏子。今日の朝食はシリアルだったので腹具合には余裕がある。

 写真のクラブハウスサンドはとても魅力的だった。加えて、普段食べないそれは、今日という日の大切さをより強調している気がした。

 数秒、迷ってから巧は頷く。

「じゃあ、今日はこれをください」

「かしこまりました。飲み物はいつものブレンドでいい?」

「はい。それでお願いします」

「了解。じゃあ、ちょっと待っててね」

 そう言ってこちらを離れて香夏子はキッチンへと向かった。  キッチンにいる山科純一郎は香夏子の注文を受けて、冷蔵庫を開けていた。

 今は店内に自分しかいない。きっとすぐに客は来るだろう。それまでの僅かなひと時、貸切り状態の中で一つやらなければいけない事を片付けておこう。

 運ばれて来るクラブハウスサンドを楽しみにしつつ、テーブルに置いた携帯電話を手に取る。

 電話帳から、登録だけして一度もかけた事のない高校を選択した。

 通話ボタンを押す前、何故か周りを見回してしまう。それはやましい事をしていると自覚があるから。だが、今の自分は一人ではない。キッチンの奥では純一郎が調理して、カウンターを香夏子が拭いている。

 頼もしい二人がいる、この店からかけるのは家からかけるより遥かに良い。

 暖色系のライトが目に優しくて、ほっとする。

 オイルヒーターはじんわりと体を温めてくれる。

 目を瞑りこの店の環境の良さを再確認した巧は、通話ボタンを押した。

「——はい。今日一日、薬を飲んで家で大人しく寝てます」

 日頃の行いが幸いしたのか、担任の田口は巧の病欠を疑う事なく、聞き入れた。嘘をついているのはこちらだが、それでも心配の言葉一つない時点で、彼の人間性が垣間見える。

「ふぅ」

 電話を切った途端、溜まっていた緊張感が一気に体から抜けた。携帯電話が凄く重たく感じる。開いたまま二つ折りの携帯電話をテーブルに落とした。

 アンティークの壁掛け時計が指す時刻は午前八時五十分。

 まだ、今日一日は始まったばかり。

 一体、明日の今頃はどうなっているのだろうか。

 必ず訪れる未来が予想出来ず、ぼんやりと赤い窓枠から外を眺めていた。

 すると、巧の鼻にパンの香ばしい匂いとコーヒーの香りが届いた。

「お待たせしました。クラブハウスサンドとブレンドコーヒーのセットになります」

「おお。美味しそう」

 テーブルに置かれたのは、家で食べるパンに挟むだけのサンドイッチとは違う本格的なクラブハウスサンド。パンとマスタードが付き、ベーコンの立ち上る香りが巧の胃を刺激する。

「お疲れ様。学校には無事電話出来たみたいだね」

「ええ。これで名実共に完全なサボりです」

 あらためて口にすると、サボりという単語は我ながら似合わず、つい笑ってしまう。

「サボれる時はサボった方がいい。人間は機械とは違うんだから。私だって、そういう経験はあるからね」

「えっ、香夏子さんもサボった事があるんですか?」

 意外にもサボりを肯定する香夏子に思わず尋ねる。すると、彼女は「そりゃあるよ」っと笑った。

「誰だってずっと歩き続ける事は出来ない。私なんて何度もサボってるよ。サボって心のメンテナンスをして、また次の日に向かう。そうやって、少しずつ前に進んでるの」

「じゃあ、今日のサボりも結果的には前に進む事になるのかな」

「ええ。きっと大丈夫。自覚してサボった結果は割と良い方向へ進むものだから。だから今はこれを食べなさい。きっと元気が出るから」

 自分には勿体ない心強い言葉を沢山貰う。

 それは香夏子が自分より長い人生を経験しているからであり、まだ経験していないのに聞けたのは幸運である。

 目の前に置かれたお手拭きで手を拭いた巧は、クラブハウスサンドを両手で持ち、大きく口を開けてかぶりついた。ザクっと気持ち良い音と共に口の中いっぱいにパストラミビーフやマスタード、薄焼きタマゴといった様々な味が広がる。こちらの反応を窺う香夏子に巧は頷き、口に手を当てて答えた。

「美味しいです。こんな美味しいサンドイッチ生まれて初めて食べました」

「ありがとう。お父さんにも伝えておくね。きっと喜ぶわ」

 香夏子が席を離れてから、巧はあっという間に二つあったクラブハウスサンドを平らげた。急いで食べる必要はないのに、一口が止まらず次々に口へ運び、気付けば皿から綺麗に無くなっていたのだ。

 口に残ったクラブハウスサンドの風味をブレンドコーヒーで流し込む。

 丁度良い温度のブレンドコーヒーは確かな満足感を与えてくれる。

 時計を見ると、時刻は九時半を過ぎていた。今頃、学校は一時間目の古典の真っ最中。何だか凄く贅沢をしている気分になった。

 約束の時間まで、まだ約三十分以上はある。

 贅沢な気分のまま巧は、ブレンドコーヒーを楽しみながら、通学カバンから文庫本を取り出して、読書に勤しんでいた。


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