第1章 アレストス・レベリウス 前編
ザッ。ザッ。
一人の青年が、真昼の日差しが照りつける中を、砂丘の上を登っている。
水蜘蛛のようなものを履いている。
設置面を広くして砂に沈み込まないためだろう。
何を隠そう、それはあのアレストス・レベリウスであった。
惨劇から既に三年が経った。
青年に、かつての面影はなかった。
三年前と比べて筋肉質になっているなど、体格的な面での差異はもちろんだが。
何より眼つきが違った。
かつての彼からは想像もできないほど、視線が険しくなっている。
おそらく古い知り合いが見たら目を疑うことだろう。
・・・・・・・・・もっとも、そんな人間は既に皆死んでしまったのだが。
* * * * * *
アレストスは砂丘に身を伏せ、頂上から少し頭を出して、向こう側を覗き込んだ。
彼のいる場所よりも低くて遠い位置に、動物の肉が積まれていた。
アレストス自身が入手し、餌として設置したボマドの生肉である。
そう・・・・・・”奴ら”はこの肉の臭いに誘われてやってくる。
それこそがアレストスの意図であった。
アレストスは、砂丘に伏せた位置から微動だにしなかった。
ただひたすら一点を凝視し、待ち続けている。
「・・・・・・・・・・・・・・」
見れば、設置された生肉には既に、無数のラギュバが群がりはじめていた。
三つの複眼をキラキラ光らせながら、自分よりも大きな肉に噛り付いている。
だが、アレストスが待っているのはこの小さな昆虫たちではなかった。
もっと巨大な獲物である。
それこそ、ラギュバも丸ごと飲み込んでしまうような奴だ。
ソレは中々姿を現さなかったが、アレストスは別段変わった様子も見せなかった。
狙いの獲物を仕留めるには、根気が必要なのである。
と、その時。
ボフッ。
オトリの肉から少し離れた位置で、突然、物凄い砂柱が上がった。
宙に舞い上がった大量の砂が、周囲に降り注ぐ。
肉の上にも落ちてくるが、群がっているラギュバたちは食べるのに夢中で、気にも留めない。
パラパラと音を立てる砂の粒子。
そして・・・・・・・。
まだ舞い続けている砂埃を掻き分け、その巨躯が姿を現した。
砂を跳ね除け地上に出現した土竜であった。
アレストスが狙っていた獲物だ。
土竜は首をブルブル振るうとその長い前足で地を這って、目の前の生肉に近づいていった。
物ぐさなのではない。
土竜の後ろ足は退化して歩行に使われなくなっているのだ。
『フシュルルル・・・・・・・』
土竜はおもむろに顔を突っ込み、食欲の赴くままに肉を貪りはじめた。
巨大な肉食獣の登場で、肉が一気に消えていく。群がるラギュバたちと共に。
土竜は、口に入るなら何でもござれとばかりに、周囲のラギュバもろとも肉を飲み込んでいた。
バリボリ噛み砕かれる小昆虫。その破片が土竜の足元にこぼれ落ちる。
肉に群がっていたラギュバたちは、逃げるどころか、その破片にまで飛びついていった。
弱肉強食の世界が、そこにあった。
アレストスは、そんな様子をしばらく眺めていた。
のんびりしているのではない。
土竜が油断しきるのを待っているのだ。
事実、肉を喰らうにしたがって土竜の動きが僅かずつではあるが、鈍くなっていった。
それを確かめたアレストスは背中の長筒に手を伸ばし、そこから矢を一本取り出して弓につがえた。
そして、今まで伏せていた場所からゆっくりと立ち上がると、矢の照準を土竜目掛けてピタリと合わせ、弦を強く引き絞った。
狙いは、右目。
シュババッ。
空を切り裂く鋭い音と共に、砂丘の上を一本の矢が駆け下りていった。
ほとんど間を空けずにそれは土竜の右の眼球に突き立ち、その巨獣に激痛を覚えさせた。
『グギャアァァァァァ!』
土竜が激しい悲鳴をあげ、その場でひっくり返ってのた打ち回った。
暴れるに伴って長い前足や尾が砂上に何度も叩きつけられ、当然、それに巻き込まれたラギュバたちも粉々の破片になって叩き潰されていく。
流石にこれは身の危険を感じたのか。
ラギュバたちは慌てて四方八方に散ると、各々が砂中に潜って逃げていった。
アレストスは激痛にのた打ち回る土竜から目を離さぬまま、滑るように砂丘を降りていった。
その手には、既に二本目の矢が握られている。
土竜は息も荒いままに立ち上がった。
頭部の右側に続く激痛に耐え、ゆっくりと首をもたげ、正面を見据える。
そこに、人間が一人立っていた。
土竜は直感したのだろうか。
それとも、単に怒りを何かにぶつけようとしたのだろうか。
なんにせよ、その土竜は憎しみを込めた咆哮をひとつすると、目の前の人間目掛けて力任せに突っ込んでいった。
が、片目を潰されたため、距離感と方向感覚が混乱している。
アレストスは軽く左手に跳躍し、土竜の側面に出た。
正確な位置情報を捉えられない土竜は、そのまま突っ込んでいって砂丘に衝突した。
アレストスの目の前でまたもや、巨大な砂柱があがった。
その隙にアレストスは後退し、土竜から距離を置く。
土竜は、砂に突っ込んだ頭を力づくで引き抜いた。
矢傷を受けた右目が、砂でしみる。
その長い首を左右に動かすと、逃した人間の姿を探し、捉えた。
『グルルル・・・・・・・』
土竜はその長い前足を使って体の向きを変えると、狙う人間の正面に向き直った。
そして、何度も体の正面に足を着き、その力でドスドスと前進していった。
『グオオオォォォォォォォ!!』
突進してくる巨大な土竜。
その口がガッと開かれ、無数の牙が露になる。
アレストスは大して慌てもせず、手に持っていた二本目の矢を弓につがえると、
正面に向けて構えた。
アレストスの、鋭い眼光。
弦の絞られる音がする。
シュオッ。
疾走する土竜の口内に、二本目の矢が命中した。
途端に土竜がもんどりうって一回転し、走っていた勢いのまま、砂上を転がった。
アレストスは再び左手に跳躍し、転がり突っ込んでくる土竜の体をかわした。
土竜の転がった後には盛大な砂埃が舞い、辺りの視界が一時的に失せた。
しばらくして。
砂埃の収まってきた頃合を見計らって、アレストスが土竜に近づいていった。
そして。
確かめた。
土竜が腹を見せて仰向けにひっくり返り、ヒクヒク痙攣したまま動かないことを。
「・・・・・・・・・・・・ふぅ」
そのとき初めて、アレストスが声を発した。
仕留めたのである。
ただし、アレストスはそれ以上は近づこうとしなかった。
一見仕留めたようであっても、まれに生きている場合がある。
そんなものに近づいたら大怪我を負わされるからだ。
仕留めたと思っても、そのまましばらく放置し、完全に息絶えるまで待つ。
これが、アレストスが猟竜を覚える過程で学んだことだった。
アレストスは口元に手を当てると、空高く口笛を吹いた。
そして、弓を肩にかけると、自分が降りてきた砂丘を再び登り始めた。
登りきった頂上で、呼び出した相棒を座って待つ。
しばらくすると、遠くから蒼い巨体が見えてきた。
砂漠の淵を、アレストスを探して歩いてくるディアゴの姿だった。
それを目で捉えるとアレストスは立ち上がり、そちらの側へ再び砂丘を降りていった。