外伝 天王教徒の一日 一般信者 中編【東サンディスト海運会社 掃除婦 ネルフィ・グライシアの場合】
面積の広い一枚のガラス窓を背に、男が一人、部屋の中にいる。
彼の背後の窓からは広大な中央海洋の威容が見えていた。
遥か彼方に広がる水平線の手前の海上には、トラティオ湾を出入りする様々な形状・規模の船舶が見える。
部屋がそれなりに高い階に置かれているのか、それらの甲板上の様子も、ハッキリとではないが覗き見ることが出来る。
もっと手前の、港などの街並みも同様であった。行き交う人々の姿がよく見える。
そんな好条件の部屋の真ん中で仕事をしている男。
こんな部屋をオフィスに構えているぐらいだからそれなりの立場なのだろう。
だが彼が先程からしていることと言えば、手元の書類を次から次へとめくっては、ブツブツと独り言を呟きつつ右から左へ移動させるだけである。
一見すると仕事内容が何だかよく分からない。
「・・・・・・・おいおい、みんな働きすぎだろ。熱心なのは結構だが・・・・・。うわ、カスター四日連続で深夜労働か。こりゃマズい、休めって言おう」
どうやら彼は、部下の勤務状況をチェックしているらしい。
中間管理職のような立場のようである。
・・・・・・・・・・しかし、一人で随分と話せるものだ。
彼――ノーヴェリア・アミフスは相変わらずブツブツと呟き続けながら、彼の手元のリストの中で『勤務過多』と判断した部下の名前の横にチェックを入れ始めた。
こうやって部下たちの勤務時間に随時目を通しておくことにより、ノーヴェリアは彼らの怠慢もしくは過労死を防ぐ役割を担っている。
一見簡単そうにも見えるこの職務だが、そういう意味ではかなり重要なポジションとも言える。
ノーヴェリア自身もここに入社したての頃、『働きすぎ』と判断されて強制的に休暇を取らされたことが二回ほどあった。
尤もそのお陰で大っぴらに帰省することが出来、毎回息子には喜ばれたものだが。
――――と、そこまで考えて、彼の脳裏にふと息子の姿が浮かんだ。
そういえば今、ブランは一体どうしているだろうか。
* * * * * *
レパネスカ連合国の首都・グリーデン。
トラティオ湾に面し多数の港を有するこの湾岸都市は、隣国のハイアド共和国の首都・トラティオと並んで大陸でも一、二を争う近代型交易都市である。その交易範囲はサンディストのヴィクシオーラ沿岸都市のみならず、オーディム大陸のゼントレック、ファレム大陸のシキドなどとの大規模な大陸間貿易までもが日常的に行われている。
そういう意味ではこの都市は、大陸東部におけるサンディストへの玄関口と言ってもよい。
実際レパネスカ連合国の地形を考えたとき、その国内の都市の殆どは、二つの山脈に挟まれる形で西へと続いていっている。
そしてそれら全てを繋ぐ国営鉄道・タイタニア鉄道のメインターミナルが置かれているという意味でも、この都市はレパネスカにとっての玄関と言えた。
そんなグリーデンの沿岸の、港に近い土地にある、比較的大型の船舶貿易企業が東サンディスト海運会社だ。
かの『サンディスト中央戦争』が終結した直後に興され、既に40年近くの歴史を持つ。
だから国内の貿易会社の中ではそれなりに内外からの信用も厚く、現にゼントレックの首都・ゼントリスなどとも頻繁に交易していた。
東サンディスト海運会社にとって北方のゼントレックは、かなり重要な貿易相手である。
そしてこの会社の七階にオフィスを構えているのが、他でもないノーヴェリア・アミフスである。
『食料運輸部・オーディム課・課長』というのが彼の肩書きであった。
ゼントレックへなどの食料輸出入を実質的に管理しているのが、彼なのである。
その他の、魔導アイテムなどに関しては他の人間の管轄だ。
当然ながら給料などの待遇も良かったが、ノーヴェリアには心配なことがあった。
それは一人息子のブラン・アミフスについて。
「もう・・・・・・・・九年か・・・・・・・・・」
ノーヴェリアは一人呟き、それから思わずため息をつく。
職業上の待遇その他に関して今の立場に、不満は無い。
男は常に上を目指せなどと無闇やたらに叫ぶものもいるが、ノーヴェリア自身の人生観からすれば、それ以上の出世にはあまり魅力を感じなかった。
むしろ今現在の待遇は、彼からすれば充分すぎるぐらいであった。
それよりも、出世に比して自身が家に帰れなくなっていることの方が、ノーヴェリアからすると重大な問題であった。
確かにその気になればタイタニア鉄道に乗って、半日もかからずに自宅のあるタイタニウスまで戻ることも出来る。
七年前に全線開通した新鉄道だって、基本的にはその速さが売りなのだから。
だがその半日が捻り出せないほど、今のノーヴェリアは多忙なのである。
この九年間、息子の成長を間近で見ることは出来ないでいた。
彼の覚えている限り、最後に一緒に遊んだのはブランが七歳のときだったハズだ。
アレ以来、息子とはまともに話せないでいる。
別に、教育を任せてある妻のことを信用していないわけではない。
だがノーヴェリア自身経験のあることとして、男の子には、男親にしか出来ない相談というのも多いものなのである。
男女問わず性別の違う親とはどうしたって距離を置いてしまう。
自分が一緒にいれば聞いてやれる話も、それなりにあると思うのだ。
そしてそういう要素の欠如した子供というのは、性格の何かしらが歪んでしまったりする傾向があるという。
あくまでも傾向の話だが、そのことがノーヴェリアには心配でならないのだ。
もちろんこの数年間、ただの一度も息子と会わなかったわけではない。
極度に多忙で帰省できないのはノーヴェリアの側の話であって、タイタニウスから鉄道に乗れば、息子の方からグリーデンに出てくることも可能である。
現に三日前にも一度、ブランが本を買いに来ると聞いたので何とかして時間を空け、駅前まで出向いていったのである。
だがそうやって、時々顔を合わせるたびに。
息子の持つ雰囲気は変わっていってしまうのだ。自分の知らないうちに。
ノーヴェリアの記憶にあったブランはとても明るくて、賑やかで、いつも楽しそうに振舞っていたのに、この前会ったときにはまるで別人であった。
手元に本を携帯しているのは昔と変わらないが、ずっと口数は少なくなり、常に物憂げな表情を浮かべながら、まるで観察するような目で人を見てくる。
ある意味で物凄く冷ややかな眼つき。
もちろんソレは、単に大人びてきただけかもしれない。
あるいはノーヴェリア自身の罪悪感がそう感じさせているのか。
いずれにせよ少し目を離すたびに、可愛い一人息子だったブラン・アミフスは、自分のまったく知らない男へと変貌を遂げていってしまうのである。
ノーヴェリアには常に、そのことが不安材料としてあった。
「・・・・・・・・・・・・・」
そうしてノーヴェリアがぼんやりとして、作業の手を止めていると。
正面の戸を開ける音がしてやや高齢の女性が一人、静かに部屋に入ってきた。
ノーヴェリアはハッとそちらに気がついて、慌てて顔を上げる。
「―――ああ、ネルフィさん、ご苦労様です」
「どういたしまして、アミフスさん。こちらのゴミ、持っていきますね」
「ああ、はい、どうも」
「・・・・・・・・・もしかしてまた、息子さんのことですか?」
一杯になったクズカゴからゴミを回収しつつ、彼女――ネルフィ・グライシアは柔らかな笑顔で言う。
ノーヴェリアの表情から咄嗟に彼の考えていることを読み取ったのだろうか。
いつもの調子で優しく言われて、彼は再びため息を漏らした。
「そうなんですよ。まぁ、今に始まったことじゃないですけど・・・・・・」
「七歳のときから会われてないんでしたっけ?」
「ええ、ええ。僕がずっと仕事の虫でね。たまに会ったとしても、あんまり話してやれないんです。寂しいだろうなぁと思って」
そう言いながらもノーヴェリアは、かつて自分が愚痴った内容をしっかりと覚えている目の前の女性の記憶力に驚いていた。
確かにノーヴェリアは誰かと会話するたび、必ずと言っていいぐらいに一人息子と会えないことへの愚痴を言っている。
だが愚痴の一つや二つ、普通の人間なら聞き流すし、覚えていたとしても話の細部まで記憶しているなんてことは稀である。
だが目の前のネルフィ・グライシアは、それをやってしまうのだ。
自分だけではない。社内の誰よりも、遥かにたくさんの人間とすれ違う機会があるのに。
彼女はその一人ひとりから話を聞き、その愚痴に答えを返すのである。
本当によく配慮の行き届いた女性だとノーヴェリアに限らず、社内の誰もが彼女のことを評価していた。
「アミフスさんは真面目ですからねぇ」
「いやいや、そんなこと」
「その想いは伝わりますよ。大丈夫、きっと息子さんも、アミフスさんの気持ちを分かってくれているハズです」
「そうですかねぇ・・・・・・・」
そう言いつつもノーヴェリアは、彼女の言葉には一定の安心感を覚えた。
なるほど、二十年もの経験が為せる業とはこういうものなのか。
ネルフィが言ってくれるとどんな心配も確かに、何とかなりそうな気がしてしまう。
その包容力は驚くべきものがあった。
それにしても天王教徒というのは、皆こういう立派な人間なのだろうかと。
部屋を出て行くネルフィの後ろ姿を見つめながらノーヴェリアはふと、そんなことを思った。
* * * * * *
掃除道具を持って社の廊下を行くネルフィは上機嫌なままに最上階の部屋まで辿り着くと、廊下の奥で、両開きになっているドアの片方を押し開き中に入った。
そこは会議室で、部屋の中央には大きめの円卓が置いてあった。
その周囲の席上には服をびっちりと着込んだ男たちが座して、何事か話し込んでいる。
今、重役会議の真っ最中なのだ。
それでもネルフィの仕事には支障はない。
というか重役らの話は大抵の場合長くなりがちなので、終わるのを待っているよりも、その会話を邪魔しないように脇で静かに作業を進めてしまった方が良いのだ。
それに新人ならともかくネルフィの手際のよさは皆知っているから、彼女が会議中に入ってきたところで、誰もその存在を邪魔だとは感じない。
一般の社員に限らず重役らからも、ネルフィの評判は高かった。
「だからですね、社の方針として正式に、用心棒を雇うべきだと思うんですよ」
その場で立ち上がり、他の人間に力説していた重役の一人が入ってきたネルフィの存在に横目で気がついて、軽く一礼する。
円卓についていた他の重役らもそれに倣い、ネルフィの方へ軽く挨拶する。
ソレに対し彼女の方もどうもと礼を返す。
そして彼女が、お気になさらずに、といつものように言って会議が再開される。
たとえ掃除係といえども二十年近くも勤めていると、なるほど、礼を払われるまでになるらしい。
実際この場に集まった重役たちの中には、ネルフィより十歳以上も年下の者たちもいた。
社にいる絶対的な年数で言えば、彼女の方が遥かに長かったのだ。
それに社内で彼女が担っている役割を考えたとき、それは単なる掃除係程度では済んでいない。
そういう意味でも彼女は、重役らですら一目置くのに相応しい存在なのである。
「海賊対策は後手後手じゃ意味が無い・・・・ヤラれてからじゃ遅いんですから」
「確かに、転ばぬ先の杖とも言いますしなぁ」
「ウチはまだそこまで、被害が深刻化してません。今のうちに手を打っとかないと」
「一番最後にウチの船がやられたのは、何時ごろでしたっけ?」
「それなら確か、新鉄道が出来た頃だったと思いますが」
「すると、七年前か。今までよく無事だったなぁ」
話に参加していた初老の男性が感嘆して言う。
「ウチの船にはギルガニア近くの航路を避けるよう、言ってありますからね。それでも確実じゃない。お陰で最近じゃ、内外で海路離れが始まっている」
「海路より空路の方が安全、ということか?」
「オーディム製の輸送機もどんどん普及してますからね。海賊に遭って何もかも失うよりは、そっちの方がリスクが低いのは事実です」
「このままじゃ社の存続にも関わるってことか」
「それに」
ずっと立って話していたその男性が、ちょっとだけ声を潜めて言った。
「ただでさえ海賊被害の増えてる昨今、用心棒の一人も置いてない船が何の被害にも遭わなかったら、それこそ同業者から恨まれます」
「おいおい、そんなのただの逆恨みじゃないか」
「逆恨みだから怖いんですよ。理屈が無いから、まともな反論も通じない。根拠の無い噂が広まったりしたら、それこそ我々の命が危ないですよ」
「君はやたらと、不吉なことばかり言うな」
「じゃあ仮に用心棒を雇うとして、どこで探すのがいいかね?」
再び、初老の男性。それに反応して隣に座っていた中年の男が言う。
「それならハイアドが無難でしょう。軍人崩れの傭兵が山ほどいる」
「ああ、それなら私も賛成ですな。いつだったか忘れたが、少し前にギルガニアで客船を襲った海賊を、休暇中の軍人が撃退したという話を聞いたことがある」
「まぁ軍人でなくたって、魚人族退治と言えば喜んで参加するでしょうしな・・・・・。原理主義者が多いし、あの国は―――」
「おい、ちょっと!」
「・・・・・・・・・・・・・・あ、し、失礼!」
そこまで言いかけた男が、隣に座っていた別の重役にたしなめられて、慌てて口を閉ざす。
それもそのハズ・・・・・その場にネルフィがいたことをすっかり忘れていたからだ。
口を閉ざした男、バツが悪そうにちらりと横目で部屋の隅を見やる。
そちらではまだネルフィ・グライシアが掃除を続けているが、その表情は心なしか悲しげに見えた。
たちまち部屋全体に、気まずい雰囲気が流れてしまった。
相変わらず笑顔で掃除を続けるネルフィ。だがその心中は、複雑であった。
* * * * * *
天王の子として世界の役に立つには、一体どうすればよいのだろうか。
そんなことを考え始めたのは、もう三十年も昔のことであった気がする。
その当時天王教徒になったばかりだったネルフィにとって、”世界を統べる”とはどういうことなのかイマイチ分からなかった。
教義の字句解釈というものは非常に難しいものであって、ほんの一節の読み違いが信徒の行動を大きく左右したりする。
それゆえに慎重にならなければいけなかった。
彼らにとってそれは『神の意志』と同義であるため、その解釈如何で、信徒らに対してあらゆる”使命感”を抱かせる可能性が包摂されているのだ。
この『教義解釈』という奴がまた曲者であって、教える牧師によっては聖典の記述をただ繰り返すばかりの人間もいる。
教義解釈とはすなわち意味の解説であるハズだが、何故か経典の音読で満足してしまう人間がいるのは不思議なことだ。
ともかく、そうやって教義の解釈を任されたとき。
ネルフィが真っ先に考えたのは、人々の”支え”になることだった。
この世界が天王族により授けられたものであるならば、その根幹を成す人間の心を裏から支えることによって、天王に貢献することが出来ると考えたからである。
現にその当時からネルフィは、そういうことが可能な立場にあった。
確かにその地位は単なる掃除係に過ぎない。
だがそれゆえに彼女は知っていたのだ。日常的に多くの人間とすれ違う彼女だからこそ。
多くの労働者たちは行き場の無いイライラや鬱憤を、日々、その心中に溜め込んでいるものなのだと。
そして自分は、そういう不満の数々を”聞いてあげられる”立場にいるのだと。
辛さを抱えている人々の心の支えに、少しでもなれたなら。
そうした想いからネルフィは現在の役割を選択した。
たかが掃除婦。されど掃除婦。
結果的にネルフィは三十年近く同じ場所で働き続け、そこの人々から最も信頼される人間となったのだった。
彼女はそれで充分だと思っていた。
そう。だからこそ彼女には、原理主義者たちの考え方が理解できなかった。
確かに「地を統べること」は、天王教徒としての使命である。
偉大なる天王の子として。
だが何ゆえにソレを、海王族への憎悪へ繋げなくてはならないのだろう。
『世界を守り抜いていく』とはすなわち『魚人族を憎むこと』であるなどと、
何故そんな暴力的に解釈する必要があるのだろう。
何故世界の裏側で人々の支えとなるような、素朴なことではいけないのだろう。
「平和をもたらすために」と言いながら、意地でも海王族との憎しみ合いに執着しようとする意味が、ネルフィにはまったく分からなかった。
そして彼らばかりが常に「我らこそ天王の使徒」と名乗るがゆえに。
傍から見ている人々からは「天王教とはそういう集団」と見られてしまうのである。
自分のように、陰ながら役立っていこうという人間も多いのに。
どういう訳だか彼らはそれでは満足できないのである。
―――と、そこまで考えて、ネルフィはハッと思い直した。
いけない。自分がこんな状態では。
人々の苦しみや悲しみを聞いてあげるのがここでの自分の役目であるのに。
その自分がこんな暗い顔をしていたら、頼れるものも頼れない。
それでは駄目なのだ。
すぐにネルフィは自分を叱咤し、活を入れなおした。
人々の心の拠り所になるのが自分の使命。
そのことだけはコレからも今も、決して忘れる訳にはいかなかった。




