第3章 ブラン・アミフス 中編
屋内にしてはやたらと広いその場所に、
一杯になった数十もの本棚が林立し、空間を埋め尽くしている。
時々、薄暗くなった棚の間を縫って人が行き来しては、周囲の棚に目をやって目当ての書物を取り出していったりした。
そしてその多数ある本棚の足元で、大量の本を乗せた台車をゆっくり押して歩きつつ、運んでいる本の題名を確認しては逆に本棚に戻すという作業を続けている者がいた。
その人物は、この施設の関係者と分かる格好をしていた。
と、いっても地味な私服の上に腕章を装着しているといった程度のものだが。
フレームの下部分が無い眼鏡の奥で、少年の妙に真剣な目が左右に動いている。
ブランは左手に抱えた本の中の一冊を取り出すと、棚の上の、他の本を動かして作ったスペースにそれを押し込んでいた。
レパネスカ地方都市としては充分すぎるぐらいの30万冊の蔵書の、図書館での整理作業。
それがブランの普段の仕事なのである。
四歳の頃から慣れ親しんだこの場所での仕事というのは、ブランにとっては、特に精神的に楽なのであった。
「おー、ブラン。今日ははかどってるか?」
「ん? ええ、お陰さまで・・・・・」
「そうかそうか。まぁいつも通りだが、頑張ってくれよ」
作業をしていたブランに後ろから声をかけてきたその恰幅の良い男性は、満足げに微笑むと、激励代わりにブランの肩を二度ほど叩いて去っていった。
ブランは、その男性の後姿をしばらく見守っていた。
彼はこの図書館の館長である。
館員の仕事を見守り、尚且つ利用者の入館状況の確認も兼ねて、自らの足で館内を巡回していたりするのだ。
穏やかな雰囲気で人に好かれやすく、利用者にも館員にも慕われている。
小さい子供にも非常に親切である。
当のブラン自身でさえ、十二年も前に初めてここを訪れた際に知り合ってから、今まで一度も、この人物に悪感情を抱いたことが無かった。
優しい人なのだ。それでいて、言葉の中に嘘がない。
その姿は、ある意味でブランが最も憧れ、尊敬する姿でもあった。
そもそも彼がこの図書館で働くようになったのは、
ブラン自身の希望以上に、数年前に館長自らが勧めてくれた部分が大きい。
彼は、心からブランを可愛がってくれていた。
少なくともブランには”愛されている”という感覚があった。
ブランにとって彼は、本当の親以上に『親』としての意味を持つ存在であった。
だが、その本当の親ときたら――――
と、そこまで考えかけて、慌てて思いとどまった。
これ以上考えるのはやめよう、と思った。考えたところで仕方が無い。
いくら考えたところで、あの親は所詮あの親なのだ。
いい気分でいるところに余計なことを考えても仕方が無い。
仕事中にネガティブ思考を再発させると、ロクなことが無かった。
ブランは考え始めてしまう前にそれ以上進むのをやめ、さっさと元の作業に戻った。
丁度そのときだった。
「うわ、見ろよあれ、ブランじゃね?」
「本当にここで働いてたんだ。びっくりー」
「相変わらず変な顔してんなぁ。おい、ちょっと呼んでみよーぜ」
全身を流れる血がさっと冷たくなった。
それはある種の拒否反応だった。何度も繰り返し体験した恐怖への。
あの声を聞くだけで、ブランの全身が強い拒絶を示した。
振り向きたくはないし、その必要も無かった。
振り向いたりせずとも声だけで、それが誰だか分かったからだ。
望むと望まざるとに関わらず年中聞かされていれば、嫌でも覚えさせられた。
それは、仕事中には一番会いたくない相手の声だった。
「おーいブランくーん、ブランくーん」
「あれぇ、聞こえてるー? ねぇ、ちょっとーブランくぅーん」
背後から馬鹿共の、馬鹿みたいに抑揚をつけた声が追ってきた。
広くて静かな分、館内では彼らの声がより一層大きく反響して聞こえてくる。
不自然に大きくて癇に障るような声に、館内の他の利用客たちが思わずこちらを向いた。
ブランは心底死んでしまいたくなった。
一言も発さず、ただ黙々と本を調べ、棚に戻す作業を続行する。
背後から、ひひひと下品な笑い声が響いてきた。
ブランがどうにか無視しようとしているのを見て、面白がっているのだ。最低な奴らだ。
すると突然ブランの目の前にギョロ目の、不自然なニヤニヤ顔が突き出された。
「無視しないでよぉ、ブランくん。ボク傷ついちゃうなー」
「・・・・・・・・・・・・・・」
ナティ・レオラだった。
かつてブランを生贄にして喜んでいた連中の、筆頭格とも言える男。
ブランは、とことん顔を合わせないようにして、作業を続けた。
こんなクズを相手にしていたらキリが無いからだ。と、そう思うことにしていた。
何を言っても、どんな理屈も通じる見込みの無い存在。
消えてくれ、とブランは心から願った。
しかし作業をするその手は無意識のうちに、細かく震えていた。
「あーあー、なにビビってんだお前? あれか、悔しいんだろう?」
「は・・・・・・・・・?」
「とぼけんなよ。俺様が楽しそうなのが気に入らないんだろう、そうだろう。ま、仕方ないよなー。なんたって友達いないもんねぇ、お前にはー」
「おーい、ブラン。ちょっと手伝ってくれないか」
丁度その時、向こうに行ったはずの館長が戻ってきた。
ある意味最高のタイミングだった。ブランは、全力で感謝したい気分だった。
一方ナティはといえば声のした方を見て、軽く舌打ちをしていた。
ブランがちらっと背後を見ると、そちらに控えていたお仲間も旗色悪しと見えたのか、二人揃ってこそこそと入館口のほうに退却を始めていた。
ナティは一度そちらに目をやると、最後にブランの耳元に低い声で囁いた。
「けっ、調子乗ってんじゃねーぞ。仲間がいなきゃ何も出来ねぇクセに。これで終わりだと思うなよ。おめーなんかクズだ、クズ。はははは」
お前にだけは言われたくない! とブランは心の中で叫んだ。
今手元にあるならば、発掘用ハンマーで思いっきり殴りつけてやりたい気分だった。
流石に実行するわけにはいかないが、ブランは思わずそんなことを考えた。
片や、逃げていくナティの背中を見つめながら、館長がブランの元にやってきた。
それから呆れたような声で静かに言った。
「・・・・・・・・・また彼なのか?」
「ええ、またアイツですよ。性懲りも無くね。・・・・・・すみません、いつもいつも」
「謝るな、ブランは何も悪くないだろう。それよりも大丈夫か?」
「心配しないでください。慣れてますから・・・・・・・・・」
言いつつもその声は、心なしか上擦っていた。動揺が見て取れる。
慣れている、というのはある意味間違っていなかった。
何せあの嫌がらせは学生時代からずっと―――優に4年近く続いているのだ。
創世神話に憧れるブランが具体的に発掘作業を行うようになり、尚且つ未熟ながらも一定の成果を挙げるようになった頃から。
その頃から、ブランはナティ・レオラという男に目をつけられたのだった。
何をやっても、何を言っても、ブランのものだという理由だけで無条件に否定される。
何度か反論を試みたこともあったが、それらは全て徒労に終わった。
表面上はあれこれと因縁をつけてくるが、結局は理由などあって無いようなものだった。
要するにブランの存在を否定できればそれで良かったのだ。
ナティには最初から理屈が無いのだ。ならば、理屈で止められるハズも無い。
そして何より、ナティの行動の真意も大方の察しがついていた。
あのどうしようもない男が、どうしてブランに対して病的なまでに執着するのか。
その理由は分かっていたのだ。分かってはいたが・・・・・・・。
そして再び、頭の中で声がした。
(ナティを悪者にするのはいいが、お前は果たしてどうなのかねぇ。単なる事実だろ?)
「違う、あの馬鹿が劣等感を誤魔化すために・・・・・・」
(劣等感はお前じゃないのか? 他人と強調できねえもんなぁ、ワガママだから。そもそもガキの頃から、無駄に出しゃばるから嫌われんだよ。自業自得だろ)
「言い訳じゃなく、本当に・・・・・・」
(それがワガママってんだよ。お前にも責任あんだろ? いちいち騒ぐんじゃねーよ)
しかしそれでも、湧き上がる恐怖を拭い去ることは出来なかったのだ。
そう・・・・・・・・たとえ理屈の上では分かっていても。
* * * * * * *
陽が傾いたタイタニウスの坂道を、ブランは足取り重く上っていた。
その日一日、ブランはずっと気分が重たかった。
ナティが”襲撃”してきてから、ずっと頭の中の声が鳴り止まなかった。
ブランは思わず深いため息をついた。
何故自分がこんな思いをしなくてはならないのだと、本当に腹が立ち、嫌になった。
ブランが自分の言いたいことを理解してもらえるよう、出来るだけ”論理的”になる努力を始めてから、既に3年近く経っている。
始めた当初、それが自分という人間を認めさせる唯一の手段だと思っていた。
しかしその結果はどうか。
ナティも、母親も、そして天王教徒にも、ブランの理屈は通じなかった。考えてくれなかった。
彼が論理的になったところで、周りの人間はみな非論理的だったのだ。
その一方で、自分を否定する頭の中の声だけはどんどん強くなっていった。
ブランの過去に居座った、膨大な量の恐怖心と結びついて。
結局ブランが論理的になろうとしたところで、得たものなど何も無かった。
強いて言うなら他者への怒りや疑問の数が、今までより増大したぐらいのものだ。
その増大した怒りでさえ、受け止めてくれるものは誰もいない。
ブランが怒りをぶつけたい相手は、決まって逃げの一手しか打たなかった。
考えれば考えるほど嫌になってくる。
ブランは再びため息をついた。その時、背後から声をかけられた。
「おい、ブラン! 待ってくれーっ」
その声にブランが振り返って坂の下を見ると、なにやら太めのシルエットが動いている。
夕日に当てられたその影は、懸命にブランの後を追ってきていた。
顔は見えないが、ブランにはそれが誰だかすぐに分かった。
それで暗い気持ちが、少しだけ和らいだ。
親友のテトロ・ノードゥだった。
タイタニア鉄道での仕事を終えてきたのか、鉄道職員の制服を着込んでいる。
太っているのに無理して走るから、この寒いのに汗をかいて、ひぃひぃ言っている。
ブランはちょっとだけ苦笑して、声をかけた。
「おい、無理すんなよ?」
「なんのこれしき。わはは、俺様は不死身だーっ・・・・・・は・・・・・・」
「うん分かった。とりあえず、息をしろ。死ぬぞ」
「はっはっは・・・・・・どっこいしょ」
ブランが冷静に突っ込むと同時に、テトロが坂を上り終えてどっかりと腰を下ろした。
大きく息をついて、自分の手で扇いだりなんかしている。
それからブランの方を見上げて、何故かしばらく沈黙した。口を半開きにしている。
「あー・・・・・・ちょっと待った、なに言おうとしたんだっけ?」
「おい、しっかりしろ」
「あー、そうだ。明日の朝、あすこの駅前で待ち合わせだよなって言おうとしたんだ」
「そ・・・・・発掘現場はタイタニアの麓の鉱山跡。いつも通りな」
「それは良いけどブラン、待ち合わせに遅れんなよ。毎度毎度・・・・・」
「分かってるよ。でもま、いざとなったら鉄道を眺めて待っててくれ。至福の時だろ」
「そうでもないよ? 俺だってずっと見てれば飽きる」
「そうかな? 僕はずっと本読んでても飽きないけど・・・・・・・」
「いや、ソレなんか違うと思うぞ」
そんなことを言って、軽い感じで二人で談笑したりなんかしている。
一般的に見ればごく日常的な光景だが、ブランに限れば結構珍しい光景でもあった。
何せこのテトロという男、細かいことを全く気にしないのだ。
それでいて自分は決して無神経なことを言わない。
一言一句まで揚げ足を取られるような不安も無く、相手の言葉で傷つく心配も無く。
ブランにとってはある意味、話していて最も心地良い相手だった。
彼の前でだけはブランは一切気を遣わず、年相応に、というか”地”を出して振舞うことが出来た。
逆に言えば、他の人間にはそうやって振舞えないという意味でもあるのだが。
少なくともテトロの前では、ブランはつまらない事を忘れていられた。
「じゃあ、また明日なー」
テトロが別れを告げて去っていくのを、ブランは静かに手を振って見送った。
翌日の予定も確認でき、帰る前にいい相手に会えたな、とブランはそう思った。
たまに茶々を入れてくる頭の中の声も、今回は幸いにして出てこなかった。
それだけブランは、テトロに全幅の信頼を置いていた。
と、いうか信頼したい相手だ、とそう思っていた。
少なくともブランが今こうしていられるのは、テトロが力を貸してきてくれたお陰だからだ。
そういう意味でブランにとって、テトロは大きな『恩』のある存在だった。
それこそ、母親や天王教なんかよりもずっと。
そうしてテトロを見送った後、ブランは自宅への道を歩き始めた。
彼はちょっと明るい気分になっていた。その日あった嫌なことを、忘れかけていた。
そして翌日の発掘作業の予定を反芻し始めたその時。
街角を曲がり、”ある建物”のシルエットが目に入ってしまった瞬間に。
それまで上がりかけていたブランの気分が、またガクッと落ち込んでいった。
見たくもないその建物に、嫌でも目が引き寄せられる。
それは夕日に染まる天教殿だった。
高さ10ミルト以上もある本堂と、その上に吊り下げられた鐘の輪郭線。
天王教に関わるものを見るたびに、ブランは彼を取り巻く境遇を思い出させられた。
その度に、自分の宿命を思わずにはいられないのだった。
ブランがイライラしてきて、また思わずため息をついたとき。
(この恩知らずが。お前が今こうしていられるのは誰のお陰だと思ってる、え?)
それからまたずっと、頭の中の声が鳴り止まなかった。
* * * * * *
「わー・・・・・・相変わらず殺風景なところだな」
「そりゃま、岩と砂しかないからね」
翌日。よく晴れたその日、彼らはタイタニア山脈の麓にある廃鉱山を訪れていた。
ブランはこの場所でこれから、予定していた古物の探索をするつもりだった。
ここは昔から、何度も訪れているところだった。
サンディゴナとの国境まで続く峠の、道から少し外れたところに、この廃鉱はある。
かつては栄えていた時期もあったのだが、43年前に突然廃鉱になってしまった。
その原因は、専ら『サンディスト中央戦争』にある。
43年前のある日、隣国のハイアド大帝国が突然タイタニア旧鉄道を掌握。
その後レパネスカ国内都市の大半をも占領したのである。
その際ハイアド側が掲げた名目は、『レパネスカによる不当な技術専横の阻止』だった。
レパネスカがハイアドへの技術供与を拒否したことがキッカケだったが、その後国内へ侵入してきたハイアド軍は何故か当然のように略奪をも敢行した。
ここタイタニウスの鉱山も、その被害を被ったのだった。
強引に掘削させられた資源の殆どをハイアド軍が持ち去ってしまったのである。
同時期のサンディゴナでも、漁獲物に同様の被害があったという。
しかしそれにしても迷惑な話があったものであるが。
だが現在のブランにとってはある意味、それは恩恵でもあった。
資源掘削が打ち切られた後、大量の地層が露出したまま放置されたからである。
40年にわたる風化と侵食によって、崖の表面はだいぶ脆くなっていた。
もちろんその分埋蔵物も掘り出しやすくなっており、ここは初心者が発掘作業に慣れるのには最適の場所であった。
また初めて古物を発見した思い出の場所でもあり、ブランは好んでここを訪れていた。
ブランは背負った荷物を下ろすと、口をあけて、その中身を地面に並べ始めた。
ハンマー、方位磁針、保管用の袋にケース。まだ色々ある。
それからブランはちらっとテトロの方を振り向いて、確かめるように言った。
「・・・・・・・この間、確か地震があったよな?」
「あったね。10日ぐらい前だっけか、結構デカかった思うけど」
「そうか」
そう言ってブランは視線を前に戻した。
それからボソボソと「なら地盤が押し上げられた可能性が・・・・・」とか「崖が崩れるかも・・・・・いやむしろ好都合か?」とか呟いている。
ブランのそんな独り言を聞きながら、テトロは一人でヒマそうにして待っている。
いつもこんな感じなのだ。後ろからテトロがちょっと口を挟んだ。
「崖が崩れたら、俺は逃げるぞ」
「どうぞ逃げてくれ。僕はむしろ埋まってしまいたい」
テトロの言葉に対しブランは半ば本気で言った。
そうだ。これから先のことを思えば、いっそ埋まってしまったほうが楽かもしれなかった。
苦しみは一瞬か。それとも永遠か。
ブランは地面に置いたハンマーの一本を掴むと、手のひらにポンと軽くぶつける。
その重みと冷たさで、脳に刺激を送る。ブランは考え込んでいた。
タイタニウスには、5000年以上も前の古い集落の遺跡が多い。
レパネスカの元となった都市国家群の原型ではないか、というのが通説だった。
だがブランは、その節には少々疑問を持っていた。
なぜかと言えば”居住者”の墓が発見されていないからである。
遺跡の大小を問わず人が住んでいた以上、死者を埋葬する場所が必ず何処かにあるハズなのだが、タイタニウス近傍の遺跡ではそれが一切発見されていなかった。
まるで、最初から埋葬などなかったかのように。
もうひとつ言えば、この辺りでは当時の地形も問題だった。
地層の侵食跡などから判明していることだが、現在よりも標高が低かったためか、5000年前のタイタニウス近傍には海水が入り込んでいたようなのである。
その殆どは現在氷河となって西側に後退しているのだが、当時この辺りに住んでいたのが果たして”普通の人間”なのかと問われると。
実は結構な範囲で、疑問の余地が残るものなのである。
何より、ヴィクシオンに住む知的生命体は人間だけではないのだ。
だからまずはその事実関係を解明することが、ブランの当面の目標であった。
こうすると一見、『神話学者』というブランの夢とは無関係なように思える。
だがブランにとっては、これが一番の近道なのだった。
何故ならブランは、ただ神話学者になりたい訳ではないからだ。
一言で言えば、オーディム大陸の『セレオノア中央大学』に行きたいのである。
そのためにはまず何らかの実績を出し、名前を知ってもらう必要があったのだ。
オーディムに限らずヴィクシオンの最高学府と名高い場所での神話の研究。
それはある意味、学者志望なら誰しもが憧れるシチュエーションだった。
もちろんブランの希望も、”憧れ”が理由のひとつではある。
だが彼にとってソレは、実は憧れとはまったく別のもうひとつの意味を秘めていた。
異国の最高学府に行ってまで、やらねばならないこと。
言い換えれば、自分の故郷では絶対に叶わないと思っていたこと。
それは。
”一人の人間”として神話を研究することだった。
そう――それはブランがサンディストにいる限り、決して叶わない希望だった。
少なくともブランには、そう思えて仕方が無かったのだ。
そのときだった。
「おいゴミ、こんなところで何してる!」
頭上から聞こえたその声に、ブランの気分がさっと落ち込んだ。心臓がゾッとする。
まさしく、好事魔多し。というか何故こんなところにいる?
ブランは一瞬考え込んだが、すぐに結論を出した。
たぶん、後をつけてきたのだろう。暇な奴だ。すぐ横で、テトロが「うわ」と呟いた。
言われなくても、相手の声で見当はついた。ナティ・レオラだ。
ブランがちらっと視線を向けると、7ミルトほどある崖の上に立ったナティが、二人を見下ろしてニヤニヤしているのが分かった。
不自然なほど突き出たギョロ目が、実に下品な笑みを浮かべている。
どこでどうやって嗅ぎ付けたのか、ブランを追跡してここまでやってきたのだろう。
ブランが静かに腹を立てつつ黙っていると、すぐにナティが口を開いた。
「おい、なんとか言えよ。目立ちたがりのゴミ野郎! 本当は目立ちたいだけなんだろ!」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「へっ、弱虫め。大したモン見つけてねえクセに、学者気取ってんじゃねえよ!」
「(・・・・・・じゃあ、お前は何か結果出したのかよ)」
「ちょっと変わってるぐらいで、個性派気取んじゃねーぞ。お前なんかタイタニウスの恥だ!」
「(僕を否定する以外の個性が無い奴に、言われたくないっ!)」
ブランは、イライラしながら反論していた。静かに。心の中だけで。
そうだ。ナティには、何を言っても効果が無い。
いや、正確に言えば、反論するとそれだけ暴言の数が増える。
たとえば、理屈で反論すれば「なに真面目に返事しちゃってんだよ」と言い出し、かと言って感情的に怒ったりすれば「気持ち悪いんだよ」などと益々罵られる。
だが何も言わないと、今度は「悔しいんだろう」などと喚き始める。
要するに、向こうは言いたい放題でやりたい放題。
片やこちらは、ちょっとでも反論すれば諸悪の根源扱い。
考えてみれば、こんな理不尽な戦いもそうあるものではなかった。
ブランのイライラは、どんどん強くなっていった。
頭の中で反論はいくらでも浮かぶ。だが、口に出すことは許されない。
本当に、耐えられなかった。
* * * * * *
「―――いいな! 三日以内に図書館を辞めろ! さもないと抗議してやるからな!」
10分ほどして、ようやくナティは崖の上から去っていった。
その空間から疎外されていたテトロは、ようやくナティが去っていったことを確認して、ホッとした。自分のことを言われているわけではないが、流石にテトロもうんざりしていた。
あまりにもしつこく、うるさく、うっとおしかった。
ナティの標的は、あくまでもブランだった。何故かテトロの存在は無視された。
もちろん、認識されない方がよっぽど幸せなのだろうが、それにつけても今までの状況は見るに堪えなかった。
テトロは、ブランに声をかけようとした。
ブランは下を向いたまま、5分以上身動きひとつしていなかった。
テトロは沈黙を守っていたブランに話しかけようとして――――硬直した。
なんというか、異常なほど静かだ。逆に怖い。
テトロは静かに近寄った。
「おい、ブラ――――」
次の瞬間、ドン、という音と共に地面に亀裂が走った。
テトロがビクッとして立ちすくむ。一瞬、何が起こったのか分からなかった。
見ればブランの左の拳が地面にめり込んで、そこを中心に亀裂が入っている。
どうやらブランが、地面を殴りつけたらしかった。
というか、いくらなんでも有り得ないだろ、とテトロは思った。
こんな威力が出るのはおかしい。
テトロが固まって呆然としていると、息を吐き、静かにブランが顔を上げた。
目が合った。ブランが一番、呆然としていた。
それからゆっくり立ち上がると、右手に持っていたハンマーを脇に放り捨て、ため息をついた。
まるで、「やっちまった」とでも言いたげな表情だった。
テトロはそれから、静かに口を開いた。
「あの・・・・・・・今のなに?」
「気にするな、いわゆるバイオリズムって奴だ」
「いや、意味が分からんし」
そういいつつも、テトロもブランも自然と笑っていた。
テトロもそれ以上は追求しなかった。
それから二人が顔を上げると、崖の上から覗き込んでいたナティとばったり目が合った。
両者ともしばらくの間、硬直した。
それからナティがハッとして立ち上がると、慌てて逃げようとした。
その時突然、後ろから襟首を掴まれ、ナティの体は宙に浮いた。
傍から見ていたブランとテトロが、一番びっくりした。
「え? え、あ、ちょ!!」
騒いだところで、もう手遅れだった。
ナティの服を甘噛みで持ち上げた、毛皮動物カムベアスが低い鳴き声をあげた。
山間地に棲む穏やかな草食動物は、太ったギョロ目の人間を我が子のように
捕獲すると、そのままのそのそと崖の上から去っていってしまった。
一部始終を見ていたブランたちは、半ば呆然としていた。
最初に口を開いたのはテトロだった。
「あの、でも・・・・・・・・・・え、何ゆえ?」
「白い毛皮羽織ってたからねー、アイツ。子供に間違われたんだろうな」
ブランは、もはやどうでも良いといった具合に言った。
考えるのも面倒くさそうな表情だった。
とりあえず、邪魔な相手が、至極穏やかに消えてくれたことでホッとしているのだろう。
ブランはそのまま、先程放り投げたハンマーを拾いにいった。
テトロは、ナティのいた辺りを眺めてまだ呆然としていた。
ナティの抵抗してわめき散らす声が、未だに崖の向こうから響き続けていた。




