第3章 ブラン・アミフス 前編
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――うわー、泣いた泣いた、泣き虫が泣いた――
――泣くんじゃねぇよ、気持ちわりーなぁ!――
(・・・・・・やめてくれ)
――自意識過剰なんじゃねぇのぉ――
――誰も本気で褒めてねぇって気付けよ、ばーか――
――だから嫌われるんだろ――
(やめてくれ!)
――うるせーなー、いちいち騒いでんじゃねーよ!――
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ふと気がつけば、列車の座席に座り窓に寄りかかっていた。
少年はハッと目を覚ますと少しおびえた様子で周囲を見回し、それからすぐに、自分が夢を見ていたのだと知った。
少年は激しく打ちつける鼓動を抑えるかのように、その胸に手を当て、ホッと息をついた。
心臓を直接握り締めたような感覚が、未だに消えないでいる。
続いて少年は自分の視界が奇妙にぼやけていることに気がつき、すぐさま、右手の人差し指でややずり落ちていた眼鏡を押し上げた。
その視界が鮮明になる。
強引に目覚めたためか、少々頭痛がした。左の後頭部に鈍痛が来る。
しばらくして少年は、自分が左手に何かを握っていることに気がついた。
丸めて握っていたソレを広げてみると、モノクロの写真の右横に、太い書体で大きな見出しが躍っていた。
列車に乗る前にグリーデンの駅前で買った新聞だと、ようやく思い出した。
ケマイア市民、恐怖の六日間!
被害者は104名。市民を凶行に駆り立てたのは何か。
その少年――ブランは軽く悪態をついて、腹立ち紛れにその新聞を目の前に叩きつけた。
寝る前にこんな暗い記事など読むから悪夢を見るのだ。
その要領の悪さに、ブランは我ながら腹を立てていた。
赤い背もたれに命中した新聞は、空いた座席の上に丸まったまま転がっていた。
四人ほどが入れるそのボックス席には、今のところブランしか座っていなかった。
列車の走行にあわせて高速で流れ去っていく背景から、真っ赤な夕日が軽くちらつきながら差し込んできている。
光にチラつきがあるのは、鉄道の脇の障害物で、夕日が時折遮断されるからだった。
座席に寄りかかるブランの目の前では先程から、ただその光のチラつきだけがアトランダムに繰り返されていた。
その時、彼の座席の後ろの方で女の声がした。
「ご乗車ありがとうございます、まもなくタイタニウスです。お降りの方は準備を――」
車輌の添乗員の声だった。
サンディストの二大山脈間を突っ走るタイタニア鉄道では各車輌ごとに添乗員が存在し、停車ターミナルのある都市に近づくごとに、車内を回ってアナウンスする。
これは旧鉄道時代から続いているシステムだった。
遠く離れた都市間では最大で半日近くも仕事が無いことなどから、かつては『レパネスカで最も楽な仕事』などと言われた時期もあった位だが、ここ数年来はそうでもなくなってきていた。
今から丁度七年前に、タイタニア鉄道が先端技術を詰め込んだ超高速鉄道として生まれ変わったからである。もちろん『タイタニア新鉄道』のことだ。
いまや半日あれば大陸の端から端まで辿り着いてしまえるため、添乗員らの仕事は以前よりも遥かに忙しくなっていたのだった。
ブランは背中側から聞こえてくる声に耳を傾けつつ、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
その胸元には、グリーデンで買った本やら道具やらを詰め込んだ、大き目のバッグを大事そうに抱え込んでいる。
既に駅に近づきつつあるタイタニウスの街並みを見つめながらも、ブランはまだ先程見た夢のことを考え続けていた。
「・・・・・・・・・なんで、まだあんなモンに」
怯えなくてはいけないのだ、とブランはひとりごちた。
ソレは既に終わったことなのである。ブランの中では。もう何年も昔に。
けれども彼を攻撃することだけを生き甲斐としている彼らからすれば、ブランは永久に、かつての無知で情けなかった頃の姿で映っているのだろうと思った。
どうして彼らがそういう行動を取るのかはよく知っているし、反論も出来る。
だが実際は、分かっていたところでどうしようもないのだった。
その対象が”理屈が通じない相手”だったのでは。
―――と、そこまで来て、いかんいかん、とブランは思い直した。
嫌なことを思い出すと、前後の状況に関わらずすぐネガティブになる。
考え始めると止められないのが、ブランの悪い癖だった。
どうやら考えている間に、列車は駅に到着した模様だった。
窓の外のターミナルからは、夕日に代わって人工の光が車内に注ぎ込んでいる。
既に乗客の何人かは降りはじめていて、ターミナルを歩いていた。
ブランは慌てて荷物を引っつかむと、立ち上がって座席間の通路を進み始めた。
あんまりまごまごしていると、列車が出発して降り損ねてしまう。
列車の入り口に立ったブランには、外から入ってくる空気がひどく冷たく感じられた。
子供の頃から暮らしている町の気温ゆえ慣れているはずなのだが、列車の中に長時間いると、どうしても体が暖房の方に慣れてしまっていけない。
特に新鉄道に頻繁に乗るようになってからは、その傾向がより一層強まっていた。
タイタニア新鉄道の車輌には、暖房機能が完備されていた。
山脈間を走行するという事情も相俟ってか、タイタニア鉄道には昔から積雪対策が多数施されている。神魔石を利用した発熱システムもその一環だった。
そうして生成された余剰排熱の一部は、各座席の背もたれや肘掛に伝達され、乗客に心地よい旅を提供するのに一役買っていたりする。
だから寒い地方に住んでいる人間は、故郷まで帰ったは良いが座席の温もりに身を任せすぎた挙句、下車し損ねてしまうなんてことが度々あるらしかった。
”らしい”というのは、伝聞情報であってブラン本人は未確認だからである。
情報元は、ブランの親友テトロ・ノードゥだった。
テトロは自他共に認める、生粋の鉄道マニアなのだ。
彼もこのタイタニア新鉄道にて運転手をやっていた。まだ見習いだが。
「―――あの、お客様? 降りるのでしたらお急ぎになって・・・・・」
「・・・・・・・・・あ、すみません」
背後から添乗員に声をかけられて、ブランはようやく我に返った。
考え込んでいるうちに、車輌の出入り口で立ち止まってしまっていたらしい。
呼びかけられるまで気がつかなかった。
なんという迷惑な客だ、とか思いつつ、ブランはさっさとターミナルに降りた。
そのまま荷物を背負って、人ごみに混じって駅の出口へと歩き出す。
そうなのだ。
ブラン・アミフスとは基本的にはこういう人間なのだ。
そう―――――基本的には、なのだが。
そしてその日、同じ状態はその後しばらくの間しか続くことは無かった。
* * * * * *
「ただいま」
ブランは自宅に帰ってきていた。
鉄道でタイタニウスに到着し、下車してから一時間ほど後のことだった。
タイタニア・マルファス山脈の麓に広がる、南北に数千ミルトもの幅を持つ土地。
山脈間にはトラティオ湾から注ぎ込み裏海洋ディピオーラまで続く、長大な河川『グリディナ川』が流れている。
その中流域の、湖に面した土地に位置するのがタイタニウスという都市である。
現在ではグリディナ川と新旧タイタニア鉄道の架線とで、ちょうど都市全体が南北に二分される形で成立している。
そしてブランの自宅はマルファス山脈側の、駅に比較的近い地区に存在した。
ブランは小さな一軒家の廊下を進みながら、母親の姿を探した。
いつもなら一番奥の部屋にいるハズだ。
するとブランの思ったとおり、一階のリビングに机に向かって肘を突き、ペンを弄くりながら何かを考えている母――ナディア・アミフスの姿があった。
ブランのことには気がついていないようだった。
ブランは再び、今度は少しだけ大きな声を出して言った。
「ただいま」
母親は、無反応だった。返事は無い。
その様子にブランはわざとらしく大きなため息をつくと、体の向きを反転させ、二階に続く階段へと向かった。二階にブランの部屋がある。
あれだけ大きい声を出しているのに、母親は気付く素振りを見せない。
ブランのため息は半分は嫌味で、もう半分は本音からの落胆であった。
母親がブランの問いかけに反応しなくなって、もう何年にもなる。
別に耳がふさがっているわけでもあるまいに、ナディアは、ブランの挨拶とか呼びかけとか、そういったものを平気で無視するのだ。
この態度はただでさえ不安定だったブランの精神を、より一層脆弱にしていた。
ブランは階段まで辿り着くと、重い足を持ち上げてソレを上り始めた。
疲れと寂しさのためか、足はより一層重く感じられた。
ブランも、別に母親に悪気が無いのは知っていた。
自分にだって時々ある。何かに集中していると、周りが気にならなくなるのだ。
だがそれにだって限度というものがあった。
少なくともブランは、あれだけ大声を出されて気がつかないことはない。
いくら引き受けた私塾の講師の仕事が忙しいからといって、実の息子に声をかけられて無反応というのがブランには信じられなかった。
「・・・・・・・・・・フン」
ブランは部屋まで辿り着くと、鼻息も荒く、部屋の扉を開け放った。
心なしか、やたら力が篭もっているようだった。
バタン、と凄い音がして扉が反対側の壁にぶつかる。
そしてそのまま部屋に入るとブランはドアノブを引っつかみ、またも強い力で、叩きつける様にその戸を閉めたのだった。
部屋に入ったブランは、しばらくして、その部屋が妙に寒いことに気がついた。
見れば、窓が開けっ放しになっていた。出掛けに閉め忘れたのだろう。
窓の向こう側には夕日で真っ赤に染め上げられた、タイタニア山脈の威容が見えた。
流石に『ヴィクシオンの屋根』と言われるだけのことはある。
その手前には、ブランが乗ってきたタイタニア鉄道の停車駅と、そこから東西へ向かって伸びている灰色の架線が見えた。
全面ガラス張りの停車駅は近くで見るとやたら巨大な建造物に思えるが、こうして山脈の大きさと比べてしまうと、いやにちっぽけに感じる。
屋根のガラスが、夕日を反射して輝いているのが見て取れた。
その光景はずっと見ていても飽きないぐらい美しかったが、流石に寒さに堪えきれなくなったのか、ブランは慌ててその窓を閉めてしまった。そしてすぐに天井に顔を向けると、手探りでそちらの何かを探し始めた。
しばらくして突然、それまで殆ど真っ暗だった部屋の中が白い光で満たされ、部屋の隅々まで見渡せるようになった。
それは部屋の天井から吊り下げられた、照明用の神魔石の灯かりであった。
製造過程で大量の魔力を充電されており、普段は透明な結晶体だが、表面のボタンに人間が触れることによって灯火するという仕組みである。
たった一個でも、節約すれば1~2年は持つという代物だった。
技術はオーディムのアークローヴで開発されたものだが、その製品自体は、レパネスカ連合国による純国産品だった。
この神魔石に限らず、レパネスカは他国から入ってきた技術を改良し、次世代の工業品を生み出すという点において、非常に長けていた。
かつて鉄道技術によって国家を成立させたという歴史が、その背景にはあった。
「さて・・・・・・・・・そろそろ、読むか」
そう言ってブランは足元にあったバッグを取り上げると、中身を引っ張り出して、目の前の机の上に次々と放った。それは全て、本だった。
いや、それだけではない。神魔石の灯かりに照らし出された部屋の隅から隅まで、よく見れば、そこら一面が積み重なった本で埋め尽くされているのだ。
新旧を問わず、また厚いものから薄いものまであるが、優に400冊はあった。
そしてそれらは全て、ブラン個人の所有する書物であった。
ブランが机の上に放った書籍のタイトルが、頭上の神魔石から発せられる光でくっきりと浮かび上がった。
『―”天王言行録”を読み解く。神話に隠された45の謎―』
『―海王族とは何者か。我々の知らない彼らの素顔―』
『―神魔晶の招待とは!? 古代神話にその根を探る―』
これだけではなかった。ブランの部屋に積み重なった本という本。
神魔石の光に照らされてハッキリと見えるそれらのタイトルは、いずれも創世神話に関わる研究本や、伝説の魔具を集成したものだった。
その中に時々、初心者用の発掘マニュアル本とか、海王族に関する研究論文なんかが挟まっていたりする。
物語なども結構置いてあったが、多数ある中では割と奥のほうに押し込まれていた。
この状態を見ても分かるとおり、
ブランはヴィクシオン創世神話に強い関心を持っていた。
いや・・・・・・・・関心がある、という程度の言い方では生易しいかもしれない。
ブランが目指しているのは正しく、古代のミステリーを解き明かすことそのもの。
単なる趣味の領域ではない・・・・・それ自体を、自身の生涯の稼業としたいのだ。
つまるところ、ブランは神話学者を目指しているのである。
ブランは机に座った。そして一冊目の本を読み始めようとしたその時、突然、部屋の外から彼を呼ぶ声がした。母親のナディアだった。
「ちょっとブラン、帰ってたの? 帰ったなら、声ぐらいかけなさいよね」
「はいはーい。ただいまー」
半ば投げやりになって、ブランは返事をした。
そのまま聞いていると、ブツブツ呟きながら母親が階段を下りていくのが聞こえた。
その音を聞きながらブランは内心、言えた義理か、と呟いていた。
彼の母親は、そういう人間だった。
ブランのことを平気で無視しておきながら、一方で自分は何も悪くないかのように言う。
そもそも平時の行動パターンを知り尽くしているブランからすれば、先程はアレ以上は、母に対して声をかけようがなかった。
「声をかけろ」などと言っているクセに、呼んだら呼んだでちっとも気がつかない。
かと言って大声で呼んだら、今度は「うるさいな。聞こえてるわよ」などと怒り出す。
それもたった一度のことではない。毎回そうなのだ。
これに限らず、ナディアは決して自分の非を認めようとはしなかった。
勘違いで怒っておいてその後ひとことも謝らない、なんてザラだった。
悪気は無いのだろう。それはきっと性格的な問題なのだ。
だがそうと分かってはいても、自己を省みる様子の無い母が、ブランには許せなかった。
それは、ただ無視されることだけが理由ではなかった。
ブランは軽く舌打ちした。考えるほどに、腹が立つばかりだった。
ブランは襲ってくるイライラを押さえつけると、半ば強引に読書に取り掛かった。
少々時間を食ったが、集中さえしてしまえば、もうこっちのものだった。
* * * * * *
その日の深夜。家の外はあたり一面、真っ暗闇だった。
外から見ると、二階にあるブランの部屋の窓からだけ、淡い光が漏れている。
ブランはまだ起きて、本を読み続けていた。
天井から降り注ぐ灯かりの下、ブランは真剣な表情で本のページをめくっていた。
椅子の上に片足を乗せ、机に半分身を乗り出して読んでいる。
彼が本を読むときは、いつもそうだった。文字通り、のめり込んで読む。
決して早い読書ではなかった。しかしその分、脳へのインプットは非常に正確だった。
しばらくして、ブランがホッと一息ついて、机から離れた。
読んでいた本を、音を立てて閉じる。
椅子の背もたれに寄りかかって、ブランは大きく伸びをし、欠伸をした。
どうやら読み終わった様子である。
ちなみに最後まで読んでいたのは、海王族に関しての研究本であった。
ブランはそれから窓の外を見て、既に深夜に達していることに気がついた。
大分、眠気が酷い。早く寝ないと翌日に響いてしまう。
だが仕方ないのだ。一度持続した集中力は、途中で途切らせるより、そのまま最後まで押し切ってしまった方が気分が良い。
睡眠を多少削ってでも、オチを先延ばしにするぐらいだったら読むほうがマシだった。
物語でも論文でも、ブランは基本的にはそうしていた。
ブランは背もたれに寄りかかったまま、ちょっと考え込んだ。
考えが次から次へと、取りとめもなく溢れてくる。
だが本を読むなど、新しい情報を仕入れた直後は、いつもこうだった。
一度取り込んだ知識は、整理して、自分の頭の中で充分噛み砕いてから使う。
そうでなければ、到底理解したなどとは言えなかった。
ブランは考え込みながらも、椅子からさっと飛び降りた。
読み終わってからベッドの上に放置された数冊の本をかき集めると、きれいに積み重ねて自分の机の上に置く。
それからブランは部屋の戸をあけて廊下に出ると、階段へ向かった。
とりあえず風呂に行くつもりだった。
ところが階段を降りていたその時、同じ階段を下から上がってくる音がした。
暗闇の中から、ブランの母親が姿を現した。
ナディアはブランを見て、何故か合点がいったような声を発した。
「ああ、良かった。丁度ブランに渡そうと思ってたのよ」
「・・・・・・・・・・・え、なに?」
「ほら。これよ、これ。シルフィアさんから預かったの」
悪い予感がした。渡されるものの、大方の予想がブランにはついていたからだ。
それはある意味で、ブランのネガティブ思考に最悪のスイッチであった。
不審げな表情をしているブランに対し、ナディアはその手に持っていた手紙を渡した。
受け取って、裏返してみて、ブランは最悪の予想が当たっていたと知った。
御招待 ―天王の子の集い―
「ちょっと行って来なさいよ。最近元気ないみたいだし」
「・・・・・・・・・・・・いや、別にあれは」
そう言いつつ、ブランは内心イラついていた。
母親としてはブランのことを気遣ったつもりかもしれないが、これでは逆効果だ。
ブランは、何があっても天王教からの誘いだけは受けたくなかった。
教徒からの、ではない。あくまでも教からの、だ。
『天王教』という思想集団をブランはあまり快く思っていないのだ。
ブランは渡された招待状を、母親の手に突っ返した。
「いいよ、いらない。行かないって言っといて」
「ちょっと何よ・・・・・・・どうして行かないのよ。せっかくアンタのために」
「何度も言うようだけどさ、ボクは天王教徒になる気はないんだから」
「・・・・・・・・・・あんたねぇ、散々お世話になっといてそれは無いでしょ?」
「なんで、世話になったからって言いなりになる? ボクはボクの考えがあるんだ」
「子供のクセに、生意気言ってんじゃないの。大体、そんな見下げたような――」
その言葉に、ブランの中の何かがピクッと反応した。
ああそうだ、どうせ見下げたような態度だろう。だが何か間違ったことを言ったか?
ブランの中では、そんな風に反論が返っていた。
だが口に出すことは叶わなかった。
母親がその場で、聞き飽きたような言葉だけで構成された、どうでもいい説教をくどくどと始めたからだった。
その説教の中には、歴史上の天王教徒でどんなに素晴らしい人物がいたか、とか、ナディアが彼女の友人の天王教徒にどれだけ助けられたか、とかも含まれていた。
だがブランからすれば、そんなことはどうでも良かった。
歴史上に天王教徒の偉人が何人いようが、ブラン自身の問題とは全く無関係だ。
しかし反論はしなかった。これまでも似たようなものだった。
何を言ったところで、ナディアの示す反応は同じなのだ。
”生意気を言うな”
ブランの論理は、そのたった一言で考察もされずに斬り捨てられるのだった。
「とにかく、一度行きなさいよ。せめて顔ぐらい出しなさい」
信仰心も無いのに形だけ参加してどうするんだ、とブランは思った。
ブランからすれば、宗教とはそんな軽いものではない。
恩返しなどという曖昧な理由で強制されるものではないのだ。
叱ったつもりになったナディアが階段を下りていくのを、見送りながらブランは思った。
ナディアが去った後も、ブランの怒りは収まらなかった。
ブランがどう考えているか。
そのことを『子供である』という理由だけで考えてもくれない母。
その理屈にならない理屈は、ブラン自身には選べるハズも無かった『恩』によって無条件に擁護されてしまうのだ。
ナディアのような態度は古今東西、見飽きたものだった。
もしブランが本気で腹を立てればどうなるかは分かりきっていた。
”そんな子に育てた覚えは無い”
ワザとらしい涙と共に、そういう台詞が返ってくるのが関の山だった。
それで全て済むと思っているのだ。
考えれば考えるほど、腹が立った。ブランは立ち止まったまま、動かない。
これまで幾度と無く傷付けられた心のひび割れから、激しい呪詛の言葉が吹き出してくる。
不意にブランの内側から、何かとてつもない衝動が湧き上がってきた。
思わずブランはその左腕を、壁に向かって振るった。
* * * * * *
その瞬間。ブランはハッと我に返った。
気がつけば、左の拳が木材と石材で出来ているハズの壁にめり込んでいた。
ブランは階段の真ん中で、自分の左手を見ながら呆然と佇んでいる。
こんな力が出るわけが無い。
そう思いつつ、ブランはめり込んだ左手を、慌てて胸元に引き寄せた。
拳を叩きつけたその場所に、手のひらより少しだけ大きめのヒビが入り、命中した位置の周囲が拳の形に軽くへこんでいる。
小さな音を立てて、砕けた建材の一部が階段の上へとこぼれ落ちていった。
今に始まったことではなかった。
もう少し前から、正確に言えばブランが自分自身の言葉に論理性を覚え、尚且つその言葉が一切の効力を持たない状況が重なり続けたとき。
その頃から、不意にこういう力を発揮してしまうことがあった。
力が発せられるときは、ほとんど衝動的なものだった。
人が回りに誰もいないとき、どうにもならない不満が高まり続けたとき。
気がつけばこういうことになっている場合があるのだ。
ブランは何となくだが、その力の正体に察しがついていた。だが誰にも言えなかった。
言いたくなかった。
もっと言えば、確信を持って弱みを見せられる相手がいなかった。
自分が弱みを見せてきた相手は、皆・・・・・・・・・。
その時。
(くっだらねーなぁ。お前がワガママなだけだろ?)
ブランの頭の中に声が響き始めた。
それは数週間近く眠っていた、ある種の発作的なものだった。
ブランは、全身の鳥肌が立つのを感じた。それは激しい恐怖だった。
ブランは思わず呟いた。
「ちがう・・・・・・・・・・」
(違わねぇよ。誰にも認められないのはあの連中が宗教的だからじゃない。
お前の理屈が、ガキの論理だからだよ。いい加減、さっさと大人になれ)
「ちがう・・・・・・母さんが、母さんが聞いてもくれないから・・・・・」
(言い訳すんのか? 相変わらず幼稚な奴だ)
「ちがう、ボクは間違ってない。間違ったことなんて言ってない・・・・・」
(自分で自分が分かるワケねぇだろ? 調子に乗んな。傲慢なんだよ、お前は)
それから一晩中、その声はブランの頭の中で響き続けた。
ブランはその晩、一睡も出来なかった。




