序章 三年前の悲劇・前編
ブルルルッ。
蒼い巨体を揺らし、一匹の家畜 《ヴォーンツ》が立ち上がった。
そのヴォーンツは前足で何度か地面を擦った。
削られた土が後ろに飛ぶ。
海面にきらきらと反射する朝日。
ヴォーンツはしばらくそちらを眺めた後、ゆっくりと海岸沿いの丘の上を歩き始めた。
* * * * * *
ここは、小さな農村。
あちらこちらに農家や畑が散在している。
そのいくつかの農家の目の前を、先程のヴォーンツがのんびり通り過ぎていく。
ちなみにその体躯は、それらの農家よりもやや大きい。
ヴォーンツはきょろきょろと辺りを見回した。
何かを探しているのか?
ふと、その動きが止まる。
どうやら目当ての”何か”を見つけたらしく、やはりゆっくりと、そちらへ歩んでいった。
* * * * * *
部屋の中に朝日が差し込む。
布団に包まっている一人の男が、ちょっと眩しそうに薄目を開けた。
「・・・・・・・・ん」
朝だと気が付いたらしい。
まだ少し眠いのか、布団を頭の上までずり上げる。
ガチャガチャッ。
突然、部屋の雨戸が音を立てた。
男は布団を跳ね除け、上半身を起こした。
もう一度音がした。
風の仕業ではない。
差し込む日光が遮られているのか、室内は少し暗くなっている。
男は億劫そうに布団の中から立ち上がると、軽く伸びをして雨戸へ向かった。
寝ぼけた目で、雨戸の淵に手をかける。
開かない。
「ん・・・・・・・?」
男はちょっと目が覚めてきて、再び雨戸を引っ張った。
やはり、開かない。
今度こそ男は本気になって、雨戸の淵を軽く拳で叩くと、横に引っ張った。
かなり年月の経っている家だ。
建てつけが、悪い。
雨戸を開けた途端、外に見えたのは朝日ではなく、巨大な動物の顔だった。
ムモォー。
肌の蒼いその生き物は、満足そうに鳴いた。先程のヴォーンツだ。
「なんだ・・・・・・お前か・・・・。」
男は知っているのか、そのヴォーンツの鼻面をちょっと撫でてやった。
「別に起こしに来なくても良かったのに。・・・・・ってかお前、ちゃんと海岸沿いを歩いたんだろうな?」
当然だと言いたいのか、ヴォーンツはちょっと強く鼻息を吐く。
「なら良いけど・・・・・。気をつけろよ。お前がぶつかったら、家崩れちゃうんだから。」
男はまたも眠そうに、欠伸をした。
そして部屋の戸を開けると、伸びをしながら土間へと出て行った。
* * * * * *
日の光が照り付ける。
男はヴォーンツの体の上によじ登っていた。
その胴体に、縄と木で出来た農具らしき物を取り付けている。
器具の前後が離れていて、後部に木製の歯がついているようだ。
「よーし・・・・・・いけっ。」
そういって男 《アレストス・レベリウス》は地面の上に飛び降りると、
ヴォーンツの後足を軽く二度叩いて合図を出した。
合図を受けたヴォーンツが一声鳴き、農具を引いてゆっくりと歩き始めた。
アレストスは、後ろからその農具の取っ手を握って支え、ヴォーンツに合わせて歩いている。
農具の歯の部分がヴォーンツに引っ張られ、柔らかい土を綺麗にひっくり返している。
つまり、ヴォーンツの力を利用して畑を耕しているのだ。
牛馬耕・・・・・もとい”ヴォーンツ耕”である。
畑の端まで行くと、ヴォーンツの体の向きを反対にしてもう一度歩かせる。
反対の端まで行ったらもう一度繰り返す。
しばらくそうやって、何度か往復するうちに、畑中を耕し終わってしまった。
かなり効率が良い。
「ご苦労さん。」
ヴォーンツにねぎらいの言葉をかけると、アレストスはその体から農具を取り外しにかかった。
使い終わった道具を片付けると、今度はアレストス自身が畑の合間を歩きはじめた。
そうして一定間隔ごとに立ち止まり、手に抱えた小さな苗を植えていく。
ひとつずつ、ひとつずつ、作物の子供達が地に植わっていく。
そしてそれを、仕事の終わったヴォーンツが地面に寝転がり、のんびりと眺めている。
* * * * * *
この村はサンディゴナ国内では例外的に、農耕で生計を立てている。
乾燥と塩分に非常に強い作物 《ブレッダ》が存在し、それが食用になるからである。
先祖は元々漁村を作るつもりだったが、自生するブレッダを偶然発見し栽培に成功したことがキッカケで、農村となったそうだ。
アレストスの家系も代々、ブレッダ農家である。
彼の父も、祖父も、曾祖父までも。
不作に備え、漁業や狩猟を副業的に行っている村人もいたが、アレストスはそちらの方面には手を出していなかった。ブレッダ栽培だけで充分生活出来ている上、彼自身は、農耕と漁業を同時に覚えるような器用な芸当が出来ないからだ。
第一アレストスは、弓術が驚くほど下手だった。
狩猟に手を出せるような人間でもない。
それらの事情も相俟って、ブレッダ耕作に従事せざるを得なかったのである。
幸いにして、彼の母はやりくり上手である。
彼の家庭には、仮にブレッダが不作となっても生活を続けられるぐらいの貯蓄があった。
無論その貯蓄は、アレストスが収穫する大量のブレッダを売り上げることで成り立っているわけだが。
それというのも、
「よしディアゴ、今日の仕事はこれで終わりだ。帰ろうぜ。」
主人の声に反応し、寝そべっていたヴォーンツがうれしそうに起き上がる。
* * * * * *
アレストスが連れている、”ディアゴ”という名のヴォーンツのお陰である。
アレストスが六歳のとき、浜辺でヴォーンツの幼生を拾った。
オーディム大陸から漂流してきたのか、どこかの牧場から逃げてきたのか。
その後、父と母が何度も繰り返し調べたが、結局分からず終いだった。
次第にアレストスは、蒼くて小さなその動物を可愛がるようになった。
いつまで経っても元の持ち主が見つからないので、彼の両親も捜索を諦め、そのヴォーンツを飼うことにした。
巨大に成長するというヴォーンツに当初は不安を抱いていた両親だったが、結果としてその決断は正解だったわけだ。何しろ、成長したディアゴが耕作を手伝うようになったため、彼の餌代を差し引いても余裕が出るぐらいになったのである。
* * * * * *
すっかり日の傾いた浜辺を、アレストスがディアゴの背に乗って進んでいる。
アレストスが海の方を眺めていると、はるか彼方に積乱雲が見えた。
六年に一度の大嵐、”海王の城”が近づいているのだ。
沖合いで漁をしている村人が言うには、海上では既に何度か、風雨が吹いているとのことだった。
アクリウス海峡に吹く大嵐”海王の城”。
ひとたび吹けば、乾燥している付近一帯にも大量の水分がもたらされる。
但し、それ相応の備えをしておかなければ、甚大な被害を受ける可能性もあったが。
「・・・・・・・今年はお前を、どこに隠れさせれば良いんだろうなぁ・・・・?」
アレストスは、自分を乗せているヴォーンツに向かって呟いた。
ディアゴが分からないといった風に首をかしげる。
ディアゴを飼い始めてから既に二度、海王の城が襲来していた。
それまでは、嵐が来れば家か物置の中に退避させておけば良かった。
しかし今では家よりも大きいのである。
体重が重いから風に飛ばされるような事態はあり得ないが、流石に風雨に晒させるわけにもいかなかった。
「ま・・・・・・何とかなるよな。」
そう言ってアレストスは、通りすがった村人に手を振った。
その時だった。
突然、ディアゴが正面に向かって鳴いた。
「ん。どうした?」
アレストスが顔を上げると、その視線の先に人が立っていた。
それは弓を担いだ少女だった。
少女が、アレストスに向かって手を振った。
「よっ、アレストス♪」
少女は笑顔だった。
「ミラ・・・・・・・・」
ミラ・ウィレオがそこに立っていた。