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侍と蜥蜴  作者: へび
9/11

死に損ないの生きる意味

 なるべく音を立てないようにして鉄格子を開き、男とカタリナが入ってくる。寸の間彼等の姿に面食らった春之助はカタリナが自分のことを見ながらぼろぼろ泣いているのを見て目を逸らした。別に泣かれたくて過去を話したわけではない。ホムラにだけ話そうと思っていたのであって、カタリナ達に聞かせるつもりはなかったのだ。要するに、過去を知られて春之助はちょっと恥ずかしかった。

「うっくっ…うぅ…ずずっ」

「鼻はかめ。女がなんという顔をしている」

 涙と鼻水でかなりどろどろである。春之助のツッコミに頷いたカタリナは男からハンカチを受け取って涙を拭い鼻をかんだ。

「すみません…あ、あまりにあんまりな人生で…」

「本当、すみません。謝って済むことじゃないですけど、すみません!」

 小声で言う男が春之助に深く深く頭を下げる。春之助は暗闇でその顔がよくわからなかったが、カタリナと同じように僅かな灯りの下に出てきた男の顔をみて目を丸くした。

「マート・ラン・シナーか」

「はい。カタリナから聞きました。お兄さんは僕をバチカナエに連れて帰るためにこの村に来たんだと」

「そうだ。知っているかもしれないが、イスラナ教の者からの依頼だ」

「お話を聞かせて頂いた限り、キトク教を憎んでいてもおかしくないのに…」

 その口ぶりから察するに、自分がキトク教とイスラナ教の間でどういった存在として扱われているのかは承知しているらしい。憎んでいるはずの相手に利となることを、私情抜きでやってくれたことにまずは感謝させてくださいと言ったマートに、春之助は首を横に振った。

「受けた仕事に余計な私情は挟まない。それに拙者が貴殿の救出任務を受けたのは、貴殿の父がバチカナエで貴殿を待っていると聞いたからだ」

 自分がもう会えない家族。それを持つ人間が、大切な家族に会えないことに悲しんでいる。己と同じ哀しみを味わう人間が居ることが素直に「嫌だ」と思える春之助は、だからこの仕事を受けたのだ。

「えっと、僕は捨て子ですから…もしかして、ハンス神父の容態が悪くなっているのですか!?」

「すぐに死ぬ、というわけではないが危ないらしい」

 ハンス神父とはアグドゥバから聞かされたマートの育ての親である。幼い頃に教会の前に捨てられていたマートを拾って大切に育て、腐敗する教会の教えから身を挺して守り続けた人物で、マートにとって彼は父親同然の存在だった。それなりに大きな権力と発言力を持っていた彼だが、現在は歳を取って引退し、バチカナエの大きな病院に入院している。

マートが現在ノルヴェスという辺境の村に来ているのはこの入院によってハンス神父とマートが切り離されたからだった。聖書の教えを忠実に守ろうというマートの勢力をよく思わない人間が、ハンス神父という後ろ盾の居ない間に「一度親から離れて見聞を広めてみては」と言って離したのだ。後ろ盾が実質無くなった今、マート一人が願って研修を終わらせてバチカナエに戻る事は、金銭的な問題や、上司の司祭達がいるために不可能になっていた。

育ての親が危ない、と聞いてマートは弱い光の中ではっきりそうとわかるほど顔色を変えた。柔和で女子供に受けそうな顔を真っ青にし、唇を震わせている。すぐにでも戻りたい、とその表情は言っていたが、何故かマートははっきりそうとは言わなかった。

「ハンス神父に会いたくはないのか?」

「会いたいですよ!でも…」

「でも?」

「マートはノルヴェスのことを心配しているんです」

 カタリナが説明を買って出てくれた。カタリナ曰く、この教会の司祭達によりこの村のみんなは宗教的に洗脳され、彼等に日々貢ぎ、生きるだけで罪を犯す人間のその罪を償うために、毎日免罪符を購入しなければならないと思わされているとのことだった。そんな馬鹿な、と春之助は言おうとしたが、カタリナの表情でどうやらそれが真実とわかりまた天井を仰いだ。

「今はマートが必死になって村のみんなと司祭達の間に立っているからこれくらいで済んでいるんです。私はあの儀式を見ちゃったっていうのと、免罪符買ったりあいつらに貢いだりしていなかったというのもたぶん処刑されそうになった理由の一部です」

 もしもマートが居なくなれば、司祭を抑える人間は居なくなる。そうしたら村はどうなる?それを考え、マートは行動できなくなっていたのであった。

 春之助はもう死ぬつもりであったから、村の事情を聞くまでの僅かな時間、マートには適当に事情を話して逃げろと諭そうと思っていた。しかしそうも言ってられない状況に、難しい顔をして唸った。唸る間にマートが手枷の鍵を外して自由にしてくれる。冷たい金属に触れていて感覚が麻痺した手首を摩りながら、何故か彼等がさっきまで喋っていたホムラを特に気にせず話し続けるのに内心首を傾げた。それはどうやらホムラも同じようで、困惑顔で悩むマートとカタリナを交互に見ている。けれど彼等はホムラの視線に気づいて彼を見ても、それ以上の行動を取ろうとはしない。

(喋る蜥蜴はこの地方では珍しくないということか?)

 そんな馬鹿なとは思ったが、ちょいちょいと指先で呼んでホムラを懐に収める。その動きを見せても二人は特に何も言わなかったので、春之助はとりあえずホムラが喋ることを二人は気にしないのだ、と結論づけた。理由は勿論気になるが、今はそれ以上に優先すべきことがある。

「所でカタリナ、お前は何故ここにいる」

 ぐるんと首を回して問う。必死に逃がした人間がのこのこ戻ってきたのだ。多少の不機嫌も混ぜて問うと、カタリナはあっさりと答えた。

「そりゃあ勿論ハルノスケさんが心配だったからよ」

「ここにいればまた殺されるかもしれんのだぞ」

「春之助さんが殺されそうになってたじゃない。見つからないようにマートを探してハルノスケさんのことを教えたのは私よ?」

「先ほども言ったが、俺はもうこれ以上生きるつもりはない」

 さらりと放たれた春之助の言葉を聞き、マートの手の中から鍵が滑り落ちて石にぶつかりガシャンと大きな音を立てた。

「なっ…」

「な?」

「何をっ仰るんですかぁっ!」

 小声で、しかし勢いよくマートが春之助に叫ぶ。神に仕える者として、命を粗末にする考えには生理的に反発してしまうのかもしれない。けれど、春之助がそういう理由を思い出したのか、マートはそれ以上何か言うことはできず、顔を赤くして唇を震わせた。カタリナも同じような顔をしている。

「先ほど俺の話を聞いていたのではないのか?忘れたならもう一度言おう。俺はもう、なんだかわからないものに追いかけられるのに疲れたのだ」

 善意で行動しているはずが、いつの間にか命を狙われることになる。それを人は運命と呼ぶから、春之助の命を狙っているのはおそらく運命そのものなのだろう。運命自身にそうかと問うたわけではないので十割そうだという確証は持てないが。

「疲れたから休みたい。そう思うのは罪か?罰されなければならない思考か?」

 そんなわけはないだろう。思い出せば身の内から己の身を串刺しにしてくる過去の記憶にも疲れた。もう痛む度に我慢するのに疲れたのだ。親の願いと我慢して生き続けることにも疲れたのだ。そして休む方法は、こういう疲労や痛みから逃れる方法は、春之助は一つしか知らない。

「でも…でも…!」

 言いつのろうとして、やっぱりマートは何も言えない。カタリナも何も言えない。

 そうだろう、何も言えないだろう。春之助は心の中で呟いて、もう一度石の壁に身を預けようとして、しかし懐から這い出てきたホムラに喉を伝って顔に這い上がられ、鼻先を思いきり囓られて飛び上がった。

「いッ!?」

 殴られるのとは違う鋭い痛みだった。思わず喉の奥から飛び出した裏返った声でマートとカタリナが春之助を凝視する。春之助は鼻にかじりついていたホムラの胴を摘んで引きはがし、目の前にぶら下げて怒った。血が垂れる感触はないので甘噛みだったらしいが、それでも唐突で痛いものは痛い。

「突然何をする!」

「あのさぁ」

 だが、ホムラはどうやら春之助以上に怒っているらしかった。先ほどとは違う、砂漠を照らす太陽の熱気のような怒気が小さな体から滲み出ている。笑うにしても怒るにしても、回りくどくないやり方で感情を伝える者という印象を持っていたホムラに静かな声で怒気を向けられ、春之助は思わず続ける言葉を飲み込んだ。

「春之助はさ、さっきから生きるのに疲れたって言ってるよな。そりゃそんな人生だったら生きるのに疲れるって思うのは当然だと思うよ。同じ状況だったら俺だってそう思う。

でもさぁ、生きるってそういうもんだろ。疲れるもんだろ。違うのか?」

小さな双眸がはっきりと春之助の目を見つめ、怒っているのに言い聞かせるような、不思議な雰囲気でホムラは言葉を続けた。

「生きてて疲れるのは当然だ。でも人はみんな生き続ける。それは生きていれば疲れることもあるけど癒されることもあるからじゃないのか。笑顔になれる時があるからじゃないのか。俺はお前とちょっとの間しか一緒に生活してないけど、それでも俺はお前と一緒に旅して楽しかったと思うよ。その間、お前は生きるのに疲れたなんて思ったか?」

「い…いや…特にそうとは…」

「だろ?俺もそうだ。ずっとあの石の中に閉じ込められてた間も。その前の、ずっと山の中で生活してた時も。生きるのに疲れたって思ったことはあっても、そのうち疲れも取れるようないいことがあるって思って生きてたんだよ。それでさ、俺はお前に出会ったんだよ」

 聞いて見る以外何もできなかった自分。死ぬ事も許されない赤い空間の中から、唐突に解き放ってくれた異邦の人。解き放ってくれただけじゃなく、自分のことを抱きかかえて、温かい懐に入れて己の住処に運んでくれた。好奇心故だとはわかったけど、自分の隣で寝かせてくれた。それがどれほど嬉しいことだったか。それをどれだけ自分が待ち望んでいたか。

 希望の日はいつかやってくる。その言葉だけで必死に耐えて、枯れかけた心を抱えていた自分の前に唐突に現れた春之助の存在に、どれだけ自分が癒されたか。春之助はわかっていないとホムラは言った。

「俺はお前に癒された。俺の勝手な思い込みかもしれないけれど、春之助もそうじゃないのか?」

 最初の夜眠るとき。春之助の眉間の皺は深いままだった。けれど数日一緒に寝ている間に、その皺は段々と浅くなっていた。自分では気づいていなかったかもしれないが、春之助の雰囲気は穏やかなものになっていた。それは、春之助もまたホムラの存在に癒されていたということではないのか。

「なぁ。春之助は俺が嫌いか?一緒に居て、俺のことを無理だって思ったか?」

「いや…思い返せば、そう、だな」

 ホムラが居て、少なくとも喋る相手を手に入れた。時々の会話が楽しくなかったかと言えば嘘になる。笑顔を浮かべられた記憶はないが、自分を包む世界を呪う気持ちは、そういえばホムラと出会ってからなんだか薄くなっていたような気がする、と春之助は気づいた。

「お前と話していて、気が休まる、というのか。なんだかそんな感覚はあった」

「だろ?その時、生きるの疲れたとか思っちゃいないだろ?」

「ああ。それよりも、お前が何を食べるかとか、何が食べられないかとか、考えていたな…」

「それ、面倒くさかったか?嫌だったか?」

「少々面倒だとは思ったが、嫌ではなかった」

 嫌ではないどころか、小さな同行者のためにあれこれ考えるのを『楽しい』と感じていた。言われて初めて気づいたその感覚に、春之助はここ数日の間で一番驚いた。その時は確かに世界を呪ってはいなかった。今を生きるのが楽しいとさえ、言葉にはせずとも思っていた。両親を亡くした哀しみはあれど、それは過去として己の中でちゃんと整理をつけられていた。

 ぽつぽつとそれを言葉にして言った春之助に、ホムラは満足そうに頷いた。思いを言葉にしていくうちに、頑なだった春之助の殻がぺりぺりと音を立てて落ちていく。殻の下にあったのは、十年以上癒されることなく封じられていた、当時十七歳だった人間が受けるにはあまりに大きすぎる傷だった。傷を負った優しく柔らかい心だった。

「それが生き続けるってことなんだよ。疲れることもあるけれど、それだけじゃなくて癒されることもある。両方あって、山も谷もあって人生なんだ。

俺は俺を自由にしてくれて、受け入れてくれた春之助が大好きだ。一緒にもっと旅をしたい。だから」

だから。

「一緒に生きよう、春之助」

 一人じゃ疲れることだって、二人、いや一人と一匹ならきっと越えられる。一人では勝てない目に見えない敵にだって、一緒になら戦える。

 春之助と同じくただ善意であっただけなのに虐げられたホムラの言葉に、春之助はまるで少年のような表情で素直にこくりと頷いた。

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