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侍と蜥蜴  作者: へび
8/11

春の子の冬

 春之助が生まれた国は、世界最大の大陸の東の端から荒海を超えたさらに東にある小国『日ノ国』である。周囲を複雑な海流を持つ海に囲まれ、外界からの情報が伝達される速度は世界の中でもかなり遅い方である。しかしだからといって遅れた文明なのかと問われればそうではない。外界との接触が少ない故に平和に繁栄した国は、元々穏やかで何よりも他人との強調を重んじる国民性と相まって、世界で一番人口の多い都市を有する小さな大国となっていた。

 春之助はそんな栄えた国の中で、海に面し、特に雪の多い藩『松後藩』で、よく晴れた冬の日に竜田という武士の家に生まれた。元々体が弱かった母は多くの苦労の末に子を授かり、難産だったために二度と子を産めぬ体となった。仲睦まじく愛し合う両親は、一粒種となってしまった春之助をそれはそれは大切に育てた。将来竜田の家を背負う立派な武士となれるよう、父は武士としての心構えや剣術などの闘いの術を。母は弱い者たちを慈しみ、守るために剣を振るうことを春之助に教えてくれた。好奇心故でか多少の問題や苦労はあったものの、春之助は割と穏やかに成長し、元服を済ませて『春之助』の名をもらい、きりりとした表情が麗しく、礼儀正しく実力のある立派な武士になった。痛かったり悲しかったりすれば並みの武士程には涙を我慢し、楽しかったり嬉しかったりすれば人並みに笑う。ごく普通の人間に育った。

「お前が生まれた日は、冬なのに温かくてねぇ。春を感じさせる子だから、お前の元服後の名は、生まれたその日に春之助としようと決めたのよ」

 そう言って、元服する頃には床についている時間の方が長くなった母は、乾燥しがちな白い手を春之助の頬に添えて微笑んだ。色の白さだけは母譲りの春之助は、その弱くも強い手の感触をまだ覚えている。

「武士の刀は本来戦うためではなく、守るためにある。特に我らが継ぐのはその中でも『護りの剣』だ。ゆめゆめそれを忘れるな。人を守り、人の道を守れ」

 磨き上げられた道場で木刀を持って相対した父は、春之助そっくりの顔に汗を滲ませ教えてくれた。道場の入り口にかけられた『菊花護剣流』の看板の筆跡を、春之助は目を閉じれば今でも思い出すことができる。

 穏やかな日々だった。たまにある護衛の任務のために仕事の合間に皇族に付き添って各地を巡り、民の平和のために見回りをしたり、武家の宿命である贈り物の調達や家計のやりくりに時たま頭を抱えながら生きていく。そしてそのまま穏やかに年をとり、いつか生涯の伴侶を得て、そうして次の世を継ぐ者たちを育てながら死んでいく。そんな退屈で、でも穏やかな一生を送るものだと、諸事を学びながら日々成長していく春之助は思っていた。

 しかしその漠然とした未来予想は、春之助が数えで十七の時に無残に打ち砕かれてしまった。

 とある天気の悪い冬の日。刺すような寒さの中を猛烈に吹きすさぶ吹雪の中、春之助の家に領民の一人が飛び込んできた。

「竜田様大変でさぁ!港に変なもんが流れついとる!」

 雪だるまのような雪の塊になった男の言葉に春之助の家族は顔を見合わせ、その時は丁度母の具合が特に悪かったので父ではなく春之助が毛皮を被って男に連れられ港に向かった。

「変なものとは何ですか」

「襤褸い船みたいなもんだあ。でもほとんど形ねぇでな。竜骨にひび入って横がぱっかり割れとった」

「こんな天気の時に船を出す愚か者はこの地には居ないと思いますが…」

 海はいつでも甘く見てはいけない場所だが、特に冬の海は漁に出ることすら控えた方がよいというのは、松後藩の海沿いの地では常識を通り越して自然の摂理のようなものである。海で自害しようという酔狂で追い詰められた人間でもいたのかと春之助は呟いたが、雪女が咽び泣く声に例えられる、唸るような風の中、先導する男は春之助の言葉にいいやと首を振った。

「村のもんはみんな居たぁ。誰も海なんか行っとらん」

「ならば海中の難破船がこの嵐で持ち上がってきましたか」

「そりゃないで。人が乗ってたでな。でンも見たことのねぇ格好しとるから、とりあえず竜田様呼んだってことよ」

「なるほど」

 ならばよそ者が流れ着いたのか。春之助の予想は半分当たった。しかし、話を聞いて予想していた以上に破損し原型がわからないほどになっていた船から助け出された人間は、春之助が予想していたよりもはるか遠くの『よそ』からやってきた人間だった。

「これは…!」

 海の傍に立てられた共同使用の漁師小屋の中で、囲炉裏の傍に寝かされている人間の髪の色は、まるで太陽の光をそのまま集めたような金色だった。肌は春之助や春之助の母以上の白さで、鼻は驚くほど高くて変な形をしている。濡れているからと気絶していることをいいことに剥かれた服は、この時の春之助が知る術もなかったが、ホムラが居た村に過去やってきたキトク教の司祭達が来ていたのとよく似た黒い服だった。

 つまり、松後藩に流れ着いたのは外国の人間だった。唯一国交が認められているのは海を隔てて隣国の『中ツ国』と、遥か西にある『阿蘭国』のみである。しかもその二国とて日ノ国の中でも北に位置する松後藩からは遥か遠くにある南の藩の出島への上陸しか許可されていない。理由は、この二国以外の国々は隙あらば日ノ国にキトク教を持ち込もうとしてくるからである。日ノ国の政事を任される、江戸にいる、仕立ての良い服を着て大層な白壁の屋敷に住む武士達は、皆こぞってキトク教を恐れ、その流入を躍起になって止めていた。だから、そういった武士達の部下の部下の部下の部下である武士の春之助の常識は、この、気絶して青い顔をして横たわっている人間を、即刻お上に引き渡せと言ってきた。

(けれど、そんなことをしたらこの人はどうなる?)

 おそらく何を言う前に法に則り斬首刑に処されるだろう。地理的には考え辛いが、もしかするとこの人間は、外国から外国に渡ろうとして、しかし道を間違ってここに流れ着いただけの人間かもしれないのに。何の法を破る目的もないかもしれないのに。

 それははたして正しいことなのか?十七の春之助は考え、否と答えを出した。ここでこの人間を手放せば、悪人か善人かわからぬままに殺されるかもしれない。それは人の道にのっとったことではない。そう結論づけ、領民に指示を出し、人間を己の家に運ばせて介抱した。父も母も春之助の判断に驚きはしたが、踏み絵やらなんやらでキトク教を狂ったように弾圧するお上の姿勢に心の底から賛同はしていなかった両親は春之助の判断を尊重し、ともにこの人間を介抱した。長く平和な時代を生き、穏やかな人格を持つ竜田家の人間は性善説信者だったのだ。

 そうして数日後に目を覚ましたこの男。この男が、春之助が願ったような遭難者であり、竜田家の人間が望むような性善な人間であれば、彼らの人生が狂うことはなかったはずだった。春之助は今も日ノ国で穏やかに生き、病弱な母と偉大な父の後を継いで竜田家を立てていたはずだった。

 しかし運命とは無情なものである。流れ着いたその金髪の男は、目が覚めるとすぐに村の人々にこの国では御法度のキトク教を布教し始めた。これが知れたらあなたはもちろん助けた自分達もお上に睨まれてしまうからやめてくれと頼んでも、その人間は色素の薄い安っぽい瑪瑙のような目をずれた使命感で燃えあがらせて逆に竜田家の人々に説教してきた。

「私はいまだに間違った神に支配されている人々を救うため、命をかけて海を渡ってきたのです。私の行動は神が与えてくださった神聖な使命故の行動です。助けて下さったあなた達は私の味方ではないのですか。何故ともに神の御言葉を広めてくれないのですか!」

 そう言って、彼は朝起きるとすぐに領民の元へゆき、彼の信望する神の教えを説いてまわった。幸いなことに彼の活動範囲は竜田の力が及ぶ範囲から外れておらず、民は皆事情を知り、かつその男の教えの矛盾をさらりとつけるほどには頭がよかった。男は毎日誰かかしら捕まえて話をし、夜になると厚かましくも竜田の家に戻って食事と寝る場所を当たり前のように要求した。春之助の父がやんわりと断れば別の村に行くと言った。助けた者として責任を持たねばならない、それにこの男の噂が外に漏れるのもまずい考えた父は、結局男が居座ることを許すしかなかった。

 男を引き入れてしまった春之助はというと、毎日の執務をこなしつつ、可能な限り男の行動を止めようと奔走していた。お前と同じ状況だったら、俺も仏心を出して助けたさ。だから気にするなと父は言ったが、その言葉は多少の慰めにはなっても春之助の罪悪感を消せはしなかった。

 そして男の噂はそのうちに領地の外に漏れ、江戸のお上の耳に入り、秘密裏に派遣された幕府抱えの忍が男の事を確認した。竜田家は禁制のものを国の中に引き入れ、それをお上に報告しなかった罪で取り潰しとされ、竜田家の人間は皆切腹せよと言い渡された。その一報が入った時に漸く男は己が話を聞かずに布教を続けたことで竜田家の人間にどれだけ迷惑がかかるのか悟ったようだったが、後の祭りだった。

 優しさから出た心で人を助けて、何故に死んで詫びねばならぬのだ。並みの人ならばそう考えるだろう。だが竜田家は民を守り、国を守る使命を帯びた武家だ。守る側でありながら、勝手な思考で幕府の考えに背き国を危険に曝した。その罪を償えと、幕府から来た人間が男を捕まえ、介錯役の人間が竜田家の三人に切腹用の小刀を渡す。作法を聞いても切腹など見たことのなかった春之助は、己の行動で次々に失われていくものに呆然としながら小刀を受け取った。

己はこれからこれで腹を切って死なねばならぬのか。

確かに武家は民を守るために法を守らねばならぬだろう。だが、その法には、己の国を守るためなら目の前で倒れた人間を見捨てろとまで書いてあったか。それは、武家としてよりもまず人として優先すべき人の道に反する選択ではないのか。

「先に私が手本を示しましょう」

 そんなことを考えていたからか。はっと気付いた時には、病弱で、近頃は床から体を起こすことにすら難儀していたはずの母がぴしりと背筋を伸ばし、己の腹に銀の刃を向けていた。

「は、母上っ」

「お黙りなさい、春之助」

 納得いかない状況の中、反射的に母の行動を止めようとして膝立ちになり、しかし介錯役の誰よりも先に母が春之助の行動を止めた。ぴたりと己の腹に向けられた小刀は小揺るぎもしない。

「人の道と武家の道。それらはいつも同じですが、時には外れることもあるのです」

 春之助の行動で張り詰めた空気の中、凛とした母の声が部屋に響く。

「あなたは確かに私達の教えを守った。人の道に恥じぬ優しい子に育ってくれた」

 春之助とは似ていない、彼女の垂れ気味の優しげな目に潤みはない。口元には笑みさえ浮かんでいる。何故この状況で笑えるのかと、介錯のために来た何人かの侍は気圧されて無意識のうちに数歩後ずさった。

「私はそれがたまらなくうれしい。だから」

 血色の薄い唇がきゅっと結ばれ、垂れ目の奥に光が弾ける。

「来世でまた、私の子に、生まれてきてください」

 言うと同時に、春之助の母は己の腹に柄の際まで一気に小刀を突き刺した。痛みと衝撃で目を見開き、それでも作法に則ってそのまま刀を横に引く。生きたまま己の腹を捌く痛みで額から汗を、口から血を、傷口から血と内臓を零れさせ。白装束を目の覚めるような血の色に染めていきながら、母は最期の一言を血に濡れた唇のまま己の隣でじっと妻の切腹を見守っていた伴侶に向けた。

「先に、行って、待っております」

「…わかった」

 重々しくも確かに言われた言葉に、春之助の母は嬉しそうに笑った。

そしてその笑みを浮かべたまま、彼女の首は床の上に鈍い音を立てて転がった。

 遅れて体がゆっくりと横に倒れ、斬られた首の断面から、腹から噴き出すよりももっと勢いのある血が噴き出して辺りを紅く染める。飛び散った生ぬるい血が頬につくのを感触として春之助は感じたが、目の前で母の首が飛ばされるという光景に、その思考は完全に硬直した。

「はっ…」

 ははうえ、と言おうとして、しかし唇から洩れるのはかすれる吐息だけ。そんな春之助の隣で、介錯役が懐紙で刀を拭うのを確認した父が手を伸ばして母の首の瞼を閉じさせ、戻す手で刀を握り、腹に切っ先を向けた。

「お、おかしい…狂っている…!」

 両脇を屈強な侍に抱えられたまま、目の前で行われた切腹にそう漏らしたのは全ての原因となった男である。異国の白肌からは血の気が引き、青白くなっていた。

「あなたが道を極めようとした結果がこれです。よく見ておいてください」

 父は母と同じように凛とした声で男に言った。春之助の両親が唯一幕府の人間に求めたのが、この男に強制的に切腹を見学させることだった。何故と問われて、彼は数刻前、笑って答えた。

「己のやらかしたことで私達が死ぬという現実を、しっかり覚えていてほしいからですよ」

 神の教えを説いて、結果的に人の命を間接的に奪ってしまう。その現実に死ぬ間際まで苦しめと。その事実を目に焼き付けて生きれと。春之助の父は男に罪悪感という呪いを背負わせたいから見せつけてほしい、と役人達に頼んだのだった。幕府の人間はその願いを下卑た笑いをもって受け入れた。国に悪しき思いを向ける人間を一人でも不幸にしたい。己の命をもって呪いたい。気味が悪い程静かに切腹を受け入れた者が見せた俗っぽい表情に、役人達は安心したのだった。

「このしきたりは狂っている!」

「黙れ!」

 ガッ!と音を立てて男の頭を片方の侍が殴る。それで男は黙らせられ、春之助の父は煩い男の方をちらりと見て、それから春之助を見た。

「お前は己の道を、人の道を生きた。それを誇りこそすれ、恥じる必要など無い。胸を張れ。お前は我が家の誉れだ」

「う、うそを…気休めの嘘を…言わないでください…!」

 刀を持ったままの春之助の目が潤み、視界の中の父の笑みがぼやける。その瞬間、父は眉をあげ、春之助を叱った。

「愚か者。泣くでない。お前は武士だろう」

「は、はいっ」

 その声で慌てて袖で目元をぬぐい、キッと眉を上げ父の手元を見つめる。最後に切腹の作法をちゃんと学び、武士として恥ずかしくない切腹をしよう。その決意が滲み出る我が子の顔を、父が刹那愛おしそうに見つめ。

「来世で会おう」

 短く言い、腹に当てた刀の切っ先を少し引き。勢いをつけ、妻と同じように刀を腹に突き刺した。

「ぐっ…」

 ぐわ、と。皺が刻まれた顔の中、黒い目が真円の如く見開かれる。苦悶の声を漏らしそうになるのを唇を噛んで我慢しながら刺した刀を横に引き、開いた傷口から内臓を引きずり出す。白装束が噴き出す血で赤色に染まり、ぐらり、と父の体が傾ぎそうになる。その上で、介錯役の刀が振り上げられ、振り下ろされた。銀の光に、その場にいた全ての人間の目が吸い寄せられる。父の首に刀が吸い込まれ。すぱりと切れ、首が飛んだ。

 その瞬間。

「はぁっ!」

 全ての意識を春之助の父が己の身をもって集めた瞬間を狙って、侍達に捕まっていた男が己を拘束する人間を一瞬で軽々と投げ飛ばした。

「なっ!?」

「はっ!?」

 驚きの声とともに人間二人が宙を飛び、襖を突き破って転がっていく。突然の行動に、刀を振り下ろしたばかりの介錯役も、その補佐も、他にいた役人達も、そして春之助も、皆一瞬呆けた顔をした。その瞬間を狙って男は春之助を抱え上げ、その場から走り出した。

「ま…待てぇ!!」

 数秒遅れて介錯役の人間が声を上げる。その声で、突然の状況に固まっていた者たちは皆己の思考を取り戻し、刀を取って走り出した。

 冬の荒波を超えて鎖国している国にたどり着いた男である。男を止める際に刀を使わなかったとはいえ、彼を押しとどめたのは菊花護剣流免許皆伝の春之助とその父である。彼らの制止を振り切って布教を続けたほど力のある男なのだ。外国の人間らしくその場にいた誰よりも屈強な体つきをしていた男は軽々と春之助の家を飛び出し、港に向かって走り出した。

「な、何をする!離せ!離せぇ!!」

 男の肩の上で春之助が呆気にとられたのは数十秒だけ。すぐに声を上げてぽかぽかと男の背を殴ったが、藁でも詰めていたのか男の背中は軽く春之助の拳を跳ね返した。刀を突き立てようともしたが、抱え上げられた瞬間に持っていた小刀を落としてしまったのか、春之助は手の中に何も持っていなかった。

「離せ!俺に恥をかかせる気か!」

 切腹する武士の覚悟を踏みにじる男の行動に、春之助は真っ赤になって憤った。

「そうだよ。けどこれは私の考えじゃない。君の両親が私に言ったんだ。切腹の瞬間に役人達の注目を集めるから、その瞬間に息子を連れて逃げてくれって。息子を助けて、生かしてくれって。もしも己のやったことに罪悪感があるのなら、私達の最後望みを叶えておくれって」

「!!」

 米俵を担ぐように抱えられているので、春之助に男の顔は見えない。けれどその背中は嘘をついているようには見えなかった。けれど、父と母が、武家が何より嫌う恥を晒して生きろと言うとも思えない。

 春之助は抱えられたまま考えようとして、しかし、何かまともな思考をする前に我慢していたものが頬を伝うのを感じた。恐ろしい程の速さで雪原を駆ける男の背では曝した素肌に触れる風は痛いほど冷たい。泣くなと言われた春之助は、喉の奥の痛みも、目の奥の痛みも、胸の奥の痛みも、全ての痛みを冷たさばかりの風のせいにして、遠くなっていく生家がぼやけて見えなるのも構わず見つめ、全ての痛みを声に乗せて解き放った。

「父上ぇ!母上ぇえ――――!!!」

 雪深い故郷を包む、身を切るような寒さの中。

引きちぎられるような苦しみの声が駆け抜けて、消えていった。




「その後港につけていた船に乗り、俺とその男は荒波を超えて祖国を離れた。父は最期の最後で役人をだましたわけだな。頭のいい人だった。どうやら両親は村の人間にも話を通していたらしく、村の誰かが両親から受け取った家宝の刀と俺の服などを詰めた旅支度を船の中に隠していた。

それからは特に語る事はない。生きるために言葉を覚え仕事を探し食いつないだ。あいつとは大陸について早々に別れたな。今何をしているか、生きているかもわからん」

 語り終えると春之助は石の壁に頭を預け、天井に目を向けた。語る間に思い出した父母の顔が目の前にちらついてくる。十年以上前の話なのに、昨日のことのように胸が痛む。ちらちく顔はどれも笑顔だったが、そのうちに胴と離れた首の顔が目の前に浮かんできて、春之助はがしがしと頭を掻いた。

 話を聞いたホムラはといと、春之助が訥々と語った過去をはじめは真面目な顔をして聞いていたが、途中キトク教の名前が出てからはっとした顔になり、話し終えると奇妙なものを見るような目で春之助を見つめていた。

「どうした」

「いや…お前も、キトク教に振り回されたんだなーって…」

「父と母と、それに帰る場所を奪われた。俺はそう思っている。

 だがそれは俺のせいだ。あの時あの男を拾わなければ、俺はこうはなっていなかった。父も母も生きていたんだ」

 頭を掻いた手を、関節が白くなる程握りしめる。声と仕草に春之助は怒りと悔しさを滲ませた。しかしすぐに感情を解き、手の力を抜いてぱたりと膝の上に落とした。

「ハルノスケ?」

「だから…だからもういい。俺は疲れた」

 どこまで行っても、まるでそれこそ何かの呪いのように、罪を犯す意識はないのに何故か何かが命を奪おうとしてくる。

目に見えない運命とでも言うべき敵から十年以上逃げてきた。生きてほしい、ともう二度と会えぬ両親が願った。最後の最後で役人を騙し、武家の矜持を捨ててまで己を生かしてくれた。だから気が狂いそうな状況になっても己を殺しはしなかった。

 けれどもうそれも限界だ。手首に嵌められた枷を見た瞬間、春之助は己の人生を縛る運命の姿をそこに見た。心の中にあった生きたいという気持ちどころか、死にたくないという気持ちまでその幻影のせいで枯れてしまった。

「なっ…だ、だめだ!死ぬとか言っちゃだめだろ!ご両親の気持ちを蔑ろにするつもりか!?」

「もう十二分に生きた。生きることに疲れた。逃げるのに疲れた」

 俺はそろそろ休みたい。そう、ホムラが初めて聞くような弱い声で言った春之助に、ホムラは何か言い返そうとして、しかし言葉が見つからず器用に四足で地団太を踏んだ。ただばたばたしているだけのように見えるが、表情を見る限りホムラの仕草は地団駄で間違い無いだろう。

「まだ二十代だろ!?まだ全然若いだろ!そんなじじくさいこと言ってどーすんだよ!馬鹿!」

「大人にすらなれずに死ぬ者もいる。そんな者たちと比べたら十分生きたと言えよう」

「よそはよそ!うちはうち!比べるんじゃありません!」

「自分の価値観で俺の人生を『短い』と判ずるお前に言われたくはないな」

「屁理屈こねんなァ!」

 びょん、と飛び上がり、回し蹴りの要領で撓らせた紅い尻尾で春之助の頬をべちりと叩く。平手打ちというよりは風に煽られた髪が頬を叩いたという程度の衝撃だったが、とりあえずホムラはビンタをしたつもりらしい顔つきでまた春之助の胡坐の中に着地した。そしてさらに何かを言おうと小さな牙の並ぶ口を開いた。

「なんと…なんと…僕達の同胞が、そんなことを…」

「…ホムラ?」

「いや俺じゃねぇよ」

 ホムラが口を開いた瞬間にかぶせるようにして発された誰かの声に、春之助が思わずホムラと一緒に牢の外を見る。恐れと申し訳なさを滴らせた言葉を言ったのは、いつの間にか鉄格子の外にいた、一人の若い男だった。

 そしてその後ろには、別の村に逃げたはずのカタリナが目から涙をぼろぼろ流しながら立っていた。

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