人の心に巣喰う者
私があれを見たのは、今から二週間ほど前の事でした。朝に日曜礼拝行ったんですけど、その時にうっかり聖書を教会に落としてきてしまって。無いとなんだか落ち着かないから、夜のうちに取りに行ったんです。そうしたら、礼拝の部屋の向こう側に僅かに光りが見えて。なんだろう、って思って光を探して奥に行ったら、随分前に司祭達が古くなって危険だから入っちゃいけない、って言っていた部屋の中から光が漏れているのに気づいたんです。その中から変な声もしていました。
お祈りの言葉にしては変だなぁって思ったから、そうっとちょっとだけ扉を開きました。そしたら、部屋の真ん中に大きな赤い円とか複雑な模様とかがたくさん描かれてて、あいつらがその円の外に立ってぶつぶつ言ってました。それで、円の中心から、内臓の塊みたいなのがぶしゃぶしゃって溢れ出していたんです!あれは、それこそ絶対悪魔ですよ!
見た瞬間に気持ち悪くなって逃げだそうとしたら、ランプを落として気づかれて。それで一生懸命逃げて逃げて逃げて、曾祖母が言っていた山の祠に逃げ込んで。曾祖母が、『大昔、山の祠には血と供物を捧げると村の民を助けてくれる神様が居た』って言ってたから藁にも縋る思いでそれをやったんですけど、神様は現れてくれなくて。それで追いかけてきたやつらに捕まって。でもあいつらは見られちゃいけないものを見られたからってここで私を殺すわけにはいかないって言ったんです。なんでかって?一応聖職者ですからね。人を殺すのは御法度ってことなんでしょう。あんな姿になって何を言っているんだか。
それで、ならば人じゃないってことにして死なせてしまおうってなったらしくって。私は縛られて水の中に突き落とされたんです。浮いてきたら悪魔の加護がある悪魔崇拝者だ、沈んだら人間だったんだ…って。もう、アホかって思いました。それでももちろん死にたくないし、それよりもとにかく苦しいから死にものぐるいで立ち泳ぎして浮いてきましたよ。それで崇拝者だって言われて、あの場所で殺されそうになっていたんです。
カタリナが語る間、春之助は身振り手振りを交えて説明するカタリナをじっと見つめて話を聞いていた。
「ふむ。つまり、あの者達は聖職に就く身でありながら道を外れた。そういうことか」
「たぶんそうだと思います。あと、お兄さんが探してる『ある人物』ってたぶん教会の人の中で一番まともな人の事だと思いますよ。あの五人の中で一番安っぽい外套を着ていた人です」
「…その者の名は、マート・ラン・シナーで合っているか」
「はい」
さらりと返ってきた答えに、春之助は天井を仰いで呟いた。
「なんと。これほどまでに難しい仕事だったとは…」
いや、アグドゥバが想定していたのはマートを渡したくない司祭達の、『人間の能力を超えない範囲での』抵抗だろう。人間を超えた力を持ち、それを使っていたなんて彼が知るはずがない。仮に知っていたら、仕事の対価をケチらないアグドゥバならもっと報酬をはずんだはずだ。そうだと言い切れる程度には春之助とアグドゥバとの付き合いは長かった。
だから、付き合いが長いから。商人の顔をしてまで春之助に無理に頼んできたアグドゥバの仕事を、今ここで難しすぎるからと放り出すことはできなかった。天井を仰いだまま一瞬目を閉じ、勢いを付けて姿勢を戻す。炎の灯りが映り込む黒い瞳は覚悟を決めたというように、凜として炎に向けられた。
「仕方ない。村に戻って攫うか」
「攫う!?」
「攫うしかなかろう。異形に身を捕らわれた者達が『必要だから返してくれ』と言って身内の爆弾をそう易々と渡すとは思えぬ」
「まぁそうでしょーね」
「となるとお前をどうするかが問題だが…」
ううん、と唸って考えること数十秒。春之助が出した答えは単純明快だった。
「よし。途中まで馬に乗って戻り、途中でお前に馬をやろう。ハルヴァーという町は知っているか?」
「知っています。夏にはあの村まで降りて毛を売っていますから」
「ならば都合がいい。ノルヴェスとハルヴァーの中間地点まで相乗りで戻り、そこからお前はハルヴァーに向かえ。そこで人生をやり直せ。着の身着のままとはなるが、命を無くすよりはよかろう」
命あっての物種という言葉がある。金子の融通は難しいが、着るもの位なら少し与えることはできる。若くて体力のある娘だ、仕事の口はそれなりにあるだろう。火の様子を見ながら、まるで本でも読み上げるように淡々と言う春之助に、カタリナは一瞬目を見開き、そして戸惑いの色を浮かべて眉をハの字にして問うた。
「どうして…」
「ん?」
「どうしてそこまでしてくれるんですか?初対面の相手になんでそこまで優しいんですか?」
「初対面の相手に外道になる意味が無いからだ」
まるでとんちのような答えである。カタリナはそうか、と納得しかけて答えになっていないことに気がつき抗議しようとしたが、何か言う前に春之助は毛布を取り出してカタリナに放った。
「もう夜だ。明日は早めに行動するから、寝ろ」
そう言って、自分は着替えの残りを被って早々に横になる。カタリナに背を向けて寝転がったので、カタリナにはそれが会話を打ち切るための方便だとわかったが、彼女には春之助はそれ以上つつかれるのを嫌がって背を向けたように感じられたので、それ以上の追及はやめた。
命の恩人の機嫌を、己の好奇心を満たすためだけに突くなどという無粋なことをするほど、カタリナは子どもではなかった。
[newpage]
翌日。昨日話した通り、別の村に向かう道までカタリナとともに山を下った春之助は、そこでカタリナに馬を託してノルヴェスへの道を引き返した。肩に背負った袋の中身はカタリナに分けたために減ったので、体への負担は軽い。袂から懐に映ってきたホムラが温石代わりに腹を温めているので、雪の中を進んでいてもそこまで寒さを感じもしない。
「そういえば、昨日は逃げる途中から一言も話さなかったな」
昨日つけた馬の足跡を辿りつつ、春之助がふと懐のホムラに話しかける。ホムラは合わせの隙間から外に出て、肩に登って答えた。
「約束したろ。他の人間の前では喋らないって。ごたごたしてる時にちょっと喋っちゃったけど、あの子はそれどころじゃなかったみたいだし。たぶん俺が喋ったことにも気づいてないだろ」
「律儀に守るとは。真面目な奴だ」
「一緒にいる奴が真面目だからな」
さくさくと、雪を踏みながらたわいもない会話をする。腹の代わりに肩が暖まるのを感じながら、春之助は途中で村への道から大きく外れる進路を取り、太陽の出ている時間の殆どを歩くことに費やして村に戻った。一本道は村唯一の入口に繋がっており、そこから村の中心を挟んで入口と反対側の、入口から一番遠い山の斜面にキトク教の教会が建っている。村を回り込むようにして山の方から教会に入り込み、そこで目的の人物を確保しようというのが春之助の立てた作戦だった。
村の側で迎える、二度目の夜。雪に覆われた山の中、黒っぽい着物を着て歩く。幸いなことに山を覆う木木の殆どが針葉樹林であったために、春之助の姿は上手い具合に木木に紛れた。春之助の視力では遠くに見える村の中を歩く人々が持つ松明やランプなどの灯りが胡麻のような大きさに見える程度だったが、それでも人がたくさん村の中を行き来している事ぐらいはわかる。ざわつく村が平穏という状態からは遠いということもよくわかった。
「回り道は正解だったな」
「だな」
少し開けた山の斜面に作られた教会は、村から入口までの道と建物のそこそこ周り以外は手つかずの針葉樹に覆われていた。そのうちの一本に上り、葉と雪に紛れながら建物の背後から観察すると、建築材料の劣化具合から大分昔に建てられた建物だということはわかった。だが、だからといって貧相になっているかと問われればとてもそうとは言えない。堅牢そうな煉瓦作りで、高い所には複雑な模様の美しい窓がはめ込まれている。建物の裏にある、普通の部屋の窓は木の戸の外にはめ殺しの鉄格子まで取り付けられていた。鉄格子は建物と比べると真新しく感じた。大分後に付け足されたものなのだろう。
「まるで綺麗な牢獄だな」
「俺が村に居た時はこんな建物じゃなかったけど」
「何年前の話か知らんが、おそらく建て替えられたのだろう」
あちこちから観察し、侵入経路を考える。建物の隅に見つけた裏口は厳重に施錠されていたので、春之助は一階の窓の一つから侵入することにした。腰の刀を音もなく抜き放ち、はらはらと舞い降りる雪片のような軽やかさで刀を振ること二回。上下を切られた鉄格子はそのままぽろりと地面に落ち、小さな音を立てて雪の中に吸い込まれた。窓を覆う木の戸もちゃんと施錠されていたので、鍵のありそうなあたりに見当をつけ、刀を三度振って切れ込みを入れて穴を開ける。建物の中に落ちかけた木の破片を片手を突っ込んで捕まえて引き出し、扉を開けるとそのままするりと中に入り込む。こうして春之助はひとまず建物の中への侵入を完了させた。時間にして八秒ほどのことである。驚くほどの早業であった。
「どこで覚えたんだ、そんな手口」
「ここではない場所で」
肩から懐に戻ったホムラが呆れの色を滲ませた小声で問う。それに短く答えた春之助は猫のような動きで辺りを素早く見渡した。
侵入した部屋は教会の一室で、どうやら物置きのようだった。雑巾や箒などの掃除用具から、何に使うのかよくわからないものなど色々な品物が雑然と置いてある。手に持ったままだった木の破片を閉じた扉に丁寧に嵌めて戻し、服についた雪を極力落とした春之助は警戒しながら扉を開け、部屋の外に出た。目指すはカタリナから聞き出したマート・ラン・シナーの自室である。二階の隅にある、と聞いていたので階段を上がってその部屋に向かおうとした途中、昨日見た司祭達の一人と遭遇しそうになったが、寸前で近くの部屋の中に飛び込んだので遭遇を回避できた。
だが、難しい仕事とはそう上手くはいかないものだ。向かった先の部屋には目的の人物ではなく、何故か昨日唯一言葉を交わした司祭がいた。閉ざされた扉の向こうで誰かと話しているらしく、木の扉から声が漏れ聞こえてくる。
(面倒なことだ)
その内容もそこそこ気にはなったが、春之助は精神力で好奇心を押さえ込み、その扉の前から離れた。
いや、離れようとした。だが、離れる前に、何の前触れもなく、突然木製の扉をぶち破ってきた見覚えのある内臓に襲いかかられた。
「何っ!?」
「やはり来ましたか」
ベッド、机、本棚が一つずつ置かれただけの簡素な部屋の中で笑うのは、昨日と同じように腹から内臓を引き出して空中に漂わせている司祭である。紙を引き裂くように破壊されたとはいえ彼と春之助を隔てて居たのは木の扉だ。何故わかった、と問おうとして、春之助は天井の装飾を這うようにして伸びる赤黒い内臓の一本が、己の背後にある甲冑の置物の影から己の方を伺っているのを見つけた。他のものと違ってそれの先には司祭の目と同じ色の目がついており、ぎょろりと目を剥いて春之助を凝視していた。
(これのせいかっ)
つまり、春之助の訪問を予想して、己の目を監視のために伸ばしていたということだ。人の気配を感じられる春之助でも、目玉の気配まではわからない。相手の方が一歩先を行っていた。
罠にはまったのだ、と言葉にして認識する前に、再度数十本の内臓が撓って体に叩きつけられる。春之助はほぼ反射でその全てを避けようとしたが、五日を超える強行軍の影響と、ここに来て一番神経を使ったこと、しかし裏をかかれて罠にはまったこと、それにちくちくと昔のことを突かれる精神的な負荷で調子を崩していたのだろう。左手に飛ぼうとした瞬間、ずるりと足を滑らせて体勢を崩した。
「ハルノスケ!」
しまった、という言葉が声ではなく表情となって現れる。眉間の皺だけはいつも変わらず有り続ける春之助の、黒い両目が最後に見たのは、己の脳天に叩きつけられる特別太い内臓の一本。そして頭の奥で弾けた白っぽい虹色の光だった。
「ハルノスケ!ハルノスケっ起きろこのやろっ!」
ぺちぺちぺちぺち。何かが頬を叩いてくる。平手打ちにしては弱く痛いと感じるほどではないが、かなりしつこい。気絶していた春之助が一番最初に感じたのはそんな中途半端な何かだった。
暗い闇の海から意識がぷかりと顔を出す。煩わしい何かを払いのけようとして手を振るうと同時に目を開くと、ずきん、と頭が強く痛んで春之助は思わずうめいた。
「うぅっ…」
「ハルノスケっ!」
途端に声が元気になる。大きくなった呼び声が頭に響き、春之助は思わず声の元を見もせずにたたきつぶそうとして、しかしそうする前に聞きなれない金属音で腕の動きを止められた。
はて、と思い目を向ければ。己の手首には鉄の輪がはめられているではないか。遠い記憶が瞬くように甦るとともに寸の間それに面喰った春之助は、意識を失う前にあったことを直後の一瞬で思い出し、思いっきり顔をしかめた。
(油断した…)
油断とは言えないかもしれない。春之助は確かにちゃんと警戒していた。誰が侵入先の施設にいる人間が、第三の目を持って部屋の外を監視しているなどと思いつくだろうか?だが確かに春之助は相手に遅れを取ったのだ。言い訳することはできない、と春之助は頭を振った。途端に頭がまた痛む。
「馬鹿やめろっ頭かち割る勢いでぶん殴られたんだぞ。ていうかお前、あれで割られないとかどんだけ石頭なんだよ」
「月代を作る面倒を嫌ったことが幸いしたらしい」
それで髪が多少の緩衝材になって脳みそを晒すのを避けられたようだ。頭の怪我は放っておくと大変なことになる、とは言うが、そんなことを今気にしている暇はない。この状況が既に大変である。あまり頭を揺らさないようにして辺りを見れば、そこはどうやら地下牢のような場所だった。上下と背後と両脇が石の壁で覆われ、目の前には鉄格子がある。手首につけられてる鉄の輪は両方の手にあって、太い鎖を使って壁につなげられていた。多少手を動かす余裕はあるものの、鉄格子の傍に這い寄れるほどの長さはない。もちろん持っていた荷物も無ければ腰にさしていた刀もなかった。
「全て奪われたか…しかしお前はどうしてここにいる」
懐に入れていた懐紙の類も奪われているから、捕まった時にそこにまで手を突っ込まれたのだろう。そんな状況になってまで傍にいたのかという疑問も含めてホムラを見ると、ホムラはちょっと鼻を鳴らした後、春之助の前で四肢を突っ張って鼻先を高くして言った。
「一度隠れてから戻ってきたんだ。ここまで一緒に来たのに、今更お前のことほっとけるわけないだろ」
「…物好きな奴だな」
確かに、鉄格子の隙間はホムラなら楽に通り抜けられる幅だろう。
「それで隠れてる間にあいつらの話聞いたけど、あのカタリナって子を逃したから、今度はお前を見せしめに処刑するって言ってたぞ。やっぱり村のみんなが処刑に賛成派ってわけじゃないらしい。つか、賛成派は少ないっぽい」
「そうか。刀があれば逃げられるが…正直、無ければどうしようもない」
だから。春之助は胡坐をかいた膝の上に飛び乗ってきたホムラの体をつまみあげ、外に向けて床に下ろした。
「ハルノスケ?」
春之助の行動に、ホムラが戸惑いの声とともに振り向く。春之助はホムラの視線を不思議なくらい静かな瞳で受け止めた。
「お前だけでも逃げろ。あの者たちはもう、人ではない何かだ。一度目は敗走し、二度目は捕まった。おそらく、何か行動しても俺に三度目はないだろう。
お前まで俺の行動に巻き込むわけにはいかん。お前だけでも逃げろ」
淡々と言われた言葉は、ホムラにとっては寝耳に水だったのだろう。金の目を見開いて口を金魚のようにぱくぱくさせた後、彼は憤りを表わすように二本脚と尻尾で上体を起こして怒鳴ろうとして、しかし見つめた先の春之助の目を見て言葉を失った。
牢につながれた春之助は、今ここにいるホムラではなく、まるで遠くを見るような眼をしていた。殴られる前までは確かに仕事をしようという意思の光が見えていたのに、今はそれが一片も残さず消えている。短時間でがらりと変わった雰囲気にホムラは大いに戸惑った。
そしてゆっくりと前足を下ろし、牢から出るのではなく、ホムラまた春之助の膝の上に駆けのぼった。なんだかよくわからないけれど、そうしないといけない。謎の使命感につき動かされた行動に、登られた側の春之助は一瞬面喰った顔をした。
「ハルノスケ」
「戻るな。逃げろ」
「その前に教えろ」
膝の上から春之助を見上げ、じいっと見つめる。いくら今は春之助が片手で握りつぶせそうな程小さかろうと、元は炎を吹き、自然に対抗して人間を守った神なのだ。その威厳の残り香を感じさせるような小指の先ほどもない金の双眸に見つめられ、今度は春之助が続けようとした言葉を飲み込むことになった。
「何故急にやる気を無くした。お前と数日一緒にいたから雰囲気でわかるが、お前、俺と同じような面倒くさい過去を抱えているだろう」
「俺は…」
「言え。どうせここで死ぬってんなら俺に言っちまえ。じゃないと俺はてこでもここから動かないぞ」
仮に事情を話されたからといって動くかどうかはわからないが。それは都合よく心の中で言うだけにして、我慢比べでもするようにホムラは強い意志を持って春之助の黒い瞳を見つめた。見つめ続けた。
「………はぁ」
春之助は春之助で言いたくはなかったらしい。だが、数秒とも数分とも数十分ともつかない時間見つめあい先に根負けしたのは春之助の方だった。ホムラと出会ってから吐いたため息の中で一番深いため息を吐き、しょうがない、と前置きしてから舌で唇を湿らせる。
「一人くらい、いや一匹ぐらい知っていてもいいだろう」
そう言って瞑目し、そのまま語りだしたのは。
誰にも話したことのない、悪夢のような過去の話だった。