闇が巣喰う村
老女に手を引かれて村の中心に向かいながら、春之助は耳で人々のざわめきを、鼻で雪に混じる木と動物の香りを、肌でただならぬ気配を敏感に感じ取った。真白に少しだけ灰色の絵の具を足らしたような影のある曇天が空を覆い、巨大な生物の腹の中にいるかの如き圧迫感を与えてきている。この息苦しさはこの村の中心にありそうな何かに対しただならぬと感じる理由の一部なのかもしれない。
「宿屋の主人よ、何があるというのだ」
「あれですよ」
老女の手が春之助の手を離れ、進行方向の先を指す。転ばぬように足下を注視していた春之助は老女の動きに顔を上げ、使い込まれた革に覆われた手の人差し指の先を見た。
最初に視界に入ったのは、老女が被っているのと同じような毛皮の群だった。茶色と焦げ茶と黒が入り交じって、凸凹した毛皮の波を作っている。人だかりだ。小さな村でも村人がたくさん集まれば広場を埋める程の人だかりができるらしい。
次に見たのは、人混みの丁度真ん中辺りに立っている一本の木だった。大きくて太い木材を一本立てた、と言った方が正確かもしれない。その木の途中には小さな看板が取り付けられ、何か文字のようなものが黒い色で書かれていた。春之助はその文字を読もうとして、癖になった眉間の皺をさらに深めて目を細めた。
そして、文字を読んだ瞬間目を見開いた。
「あれは…!」
視線の先の、荒い木肌に書いてあったのは『悪魔崇拝者、背信者』の二つの言葉だった。
此の状況で木の板にその二つの単語が書かれてる。
その事が示す事象の名を、春之助は一つしか知らない。
「くっ!」
途端に血相を変えて人混みに飛び込んだ春之助が人を押しのけかき分けて木の柱の側まで行くと、果たして、そこには春之助の予想通りのものがあった。
村の広場の地面を覆う石畳みの上にあるのは、木の柱を支えるようにして作られている舞台。木材で出来ていて、高さは太ももくらいだ。木材の長さが微妙に合っていなかったり、釘の先が飛び出したりしていて作りはとても雑である。長く使うことを想定していないからだろう。
舞台の上には枯れた枝や薪がたくさん積み上げられていた。その上に、枝や薪を踏みつけるようにして存在しているのは青白い肌の素足だ。青白く見えるのは、この寒空の下素肌を晒して霜焼け状態を通り超して凍傷になりかけているからだろう。本当は雪国の人間らしく、真白の肌だと考えられる。
そして更にその上を見上げると、そこには粗末な服一枚だけを身に纏った人間がいた。歳の頃は、おそらく十代後半だろう。性別は女。娘だ。黒っぽい茶色の髪は艶が全く無く、まるで細い枯れ枝の集まりのように娘の青ざめた顔にかかっている。さらに、年相応に柔らかな肉のついているはずの体は木の柱に頑丈に縛り付けられていた。そうして頭を胸につくほどがっくりと垂れている。春之助の突入でざわめきを増した人々の声で彼女の立てる音は聞こえなかったが、麻の服一枚しか纏っていないらしい体の、胸の部分が微かに動いているのを見て、春之助は彼女はまだ生きていると判断した。
娘は木の柱に縛り付けられている。その足下にあるのは可燃物。頭上に掲げられた屈辱的な看板が示す言葉。その組み合わせが示すもの名は、春之助の有する知識の中では『火刑』、しかも『悪魔崇拝者の火刑』以外なかった。
数百年程前にキトク教圏内で大流行し、何万もの人の命を奪った悪しき刑罰。それが『悪魔崇拝者の火刑』である。悪魔とはキトク教で最も忌み嫌われるものの一つであり、それを崇拝する者は存在しているだけで周囲に害悪をもたらす災いそのものだとされている。故に見つけ次第処刑されるのだ。しかし悪魔崇拝者かそうでないかの判断方法は極めて馬鹿げており、長い歴史の中であまりにも簡単に多くの人間が悪魔崇拝者と認定され殺された。例えば、手足を縛って水の中に落とし、沈んだら人間、浮いてきたら悪魔の加護がその身に宿る悪しき者だ、というものだ。今の世の人間から見れば、無実であろうとなかろうとどの道助からない狂った判じ方だと子どもでもわかる。しかし昔の人間は何故かそれが理解出来ず、そのため多くの無実の人間達が殺された。その数は数万とも、数十万とも言われている。
だがそれは馬鹿げていると漸く認めたキトク教上層部によって、『悪魔崇拝者の火刑』は百年程前にやっと永久禁止とされたはずだ。だから今、前時代的な処刑の光景を己の眼で見ることなど無いはずだ。なのに、春之助の目の前には常識として知っている知識とは食い違う現実が疑いようもなく展開されていた。
「何だこれは!」
矛盾した現実を前に、春之助は思わず振り返り、怒声をもって民衆に問いかけた。何だ何だと娘から春之助に関心を移していた村人達は、見慣れない人間が向けてきた怒気に息を飲んですくみ上がった。殺意に似た、突き刺すような怒りを、外気に触れる触れないにかかわらず全身の肌で感じたのだろう。近くにいた人間も、遠くでつま先立ちや飛び跳ねたりなどしていた人間も、皆等しく圧倒され、無意識のうちに数歩後ずさった。
だからだろう。春之助の問いに答えたのは、怒気に怯えた村人ではなかった。
「悪魔崇拝者の処刑ですよ」
静かな言葉が人混みを抜け、春之助の耳に届く。ねっとりと絡みつくような声色に思わずぞわりと首筋に鳥肌が立つのを感じながら声のした方向に向くと、音に遅れて数人の人間が村人達の間を割って登場してきた。数は五人。皆男だ。そのうちの四人は村人の着ているものとは明らかに質の違う毛並の美しい毛皮で出来た外套を纏っている。様子からしてかなり裕福な暮らしをしているのだろう。しかし、最後尾にいる残りの一人は四人の最後尾で村人と同じような毛皮の上着を着て、己の行動を恥じるように小さくなりながら歩いてきていた。
「何だと…」
「見たことが無いのでしょう。驚くのも無理はありません」
五人の先頭に立っていた男が鷹揚な口調で春之助に語りかける。片手に豪華な飾り付けをされた本を持ち、もう片方の手に十字架を持っている彼はたるんだ皮膚の隙間から見える目を細めて憐れむように言った。しかし春之助は眉間の皺をぐっと深めた。警戒の度合いを高く引き上げ、男を射殺さんばかりに睨みつけ、向けられた憐れみの感情を拒絶した。その理由は、贅肉のせいで弛んだ皮膚の隙間から目が覗くという男の風貌が醜すぎて本能的に警戒心を抱いたからだけではない。
(大丈夫か、ホムラ)
左の袂の中にいる小さな同行者が微かに震えているのを感じたからだった。共にいた時間が少ない彼等にとって、言わずとも伝わる情報の量などたかが知れている。それでも春之助は、ホムラの様子と彼の過去話から、現れた男たちがホムラをこの村から追放した者たちと同じ種類の人間であると悟った。
(つまり、ホムラを追放したのはキトク教だったということか)
ここに来た目的を考えれば、普通に考えれば、こんなことには構わずにさっさと目的の人物を捜して村から離れるのが一番利口で安全な行動だろう。この村の慣習に、儀式に、犠牲となるであろう娘に、春之助は髪の毛一本分も関係がない。むしろこの儀式のためにキトク教の関係者がこの場に集まっているというのなら、この隙に目的の人物を掴まえてさっさとバチカナエまで運ぶのが一番だろう。春之助の理性と常識はそう言ってこれ以上このことに関わりを持つのを辞めろと諭したが、春之助はその言葉を無視した。
無視しなければならない理由が、関わりを持たねばならない理由が、春之助にはあったからだ。
「もちろん見たことはない。百年も前に廃れたはずの悪習を、今生きる者が知るはずがなかろう」
春之助は右手の力を抜いてひそかに構えの体勢を取りながら緩く頷き、口の端を引き上げ、皮肉をこめた言葉を放った。しかし放たれた言葉は男の贅肉の上で跳ね、地に落ちた。腐って溶けかけた果実の皮のように垂れる皮膚の襞の中に埋もれる目は小揺るぎもしない。醜い相貌の中にある奇妙に真っ直ぐな視線に見つめられ、春之助の背中に悪寒が走った。
「酷く見えようとも、必要があればやらねばならぬ事もあるのです」
「必要だと?では問おう。この娘は一体何をした」
生きて炎に焼かれなければならないほどの罪とはなんだ。春之助の故郷の日ノ国にも火刑はあったが、それは大罪である放火の罪にしか適用されない。しかしこの村には見渡す限り火に焼けた建物など一軒もない。縛られた娘が放火などしていないのは明白だった。
「女の上に書いてあるでしょう。悪魔を崇拝したのですよ」
「拙者が聞いているのはそう判断した理由だ」
行動を問うてあり方を答えられても、それを答えとして受け入れることはできない。今度は春之助が男の言葉を跳ね飛ばすと、男はやれやれとでも言うように肩をすくめ、何も言わずとも後ろにいた男が差し出した羊皮紙を受け取って広げ、朗々と読み上げた。
「この女は遥か昔に司祭によって封じられた悪魔を信仰し、この村の民を惑わそうとした。北の雪崩山に残る悪魔の跡に夜毎参り、さまざまな供物と己の血を捧げ、この地にまた禍をなすことを望んだのだ」
「!」
その悪魔の跡とは、考えるまでもなくホムラが居た場所の事だろう。ホムラが居ないのにそれを信仰するというのはどういうことだ。春之助が疑問を抱いたその時、春之助の後ろで、気絶していた娘が意識を取り戻し目を開いた。
「ん…」
青くなった唇の端からうめき声が漏れ、髪と同じ色の睫に囲まれた目が開かれる。彼女の目蓋の下にあったのは髪よりも少し明るい茶色の瞳だった。焦点の合ってない瞳がゆるゆると揺れ、辺りを見る。娘の異変を感じた春之助が娘の方を振り向くと、丁度下を見る娘の視線と春之助の視線が交わった。
憐れな姿にされるまでに為された拷問によって力を奪われた、抜け殻のような茶色の瞳。それを春之助がじいと見る。睨み付けると言った方が正しい気すらする強烈な眼光は、瞳という、遮布の無い窓を通して娘の心の奥を垣間見た。
そして春之助は直感した。この娘の心には悪しき思いなど欠片もないことを。
この娘は、読み上げられた罪状のようなことを為す人間ではないことを。つまりは無実であることを。百余年より前に命を落とした数多の人間達と同じように、
無実であるのに命を奪われる所であったということを。
「っ」
そこまで考えた瞬間、春之助はじりっと地面を踏みしめて、全身をバネにして跳躍した。大仰な芝居の役者のように派手に舞台の上に飛び乗り、そのまま脇差しを抜いて娘を捕らえる縄を斬る。すると戒めるものの無くなった娘の体はすとんと春之助の胸の中に倒れてきた。
「何をする!」
「見た通りのことだ!」
そのまま娘の体をぐいと引き寄せ、左腕でしっかりと抱きしめながら舞台から飛び降りる。ぎらりと光る脇差しを仕舞わずに構えてみせれば、集まった村人達は悲鳴を上げて一人残らず逃げ出した。キトク教の五人のうちの、ただ一人粗末な格好をしていた男も顔を青くして村人達と一緒に逃げる方向に駆けだした。
「おお…悪魔を奉じる者の味方をするというのですか。神の定めた法に逆らうというのですか」
憐憫を多大に含んだ声で男が春之助に言葉をかける。芝居がかったその言い方に虫酸が走り、春之助はぐっと顔を顰めて男から距離を取った。見た瞬間に本能的に抱いた警戒心といい、鳥肌といい、目の前の人間は普通の存在ではない。充分に警戒せよ、と第六感が告げるこちらの警報を無視する理由は、春之助には無い。
「拙者は無実の民を殺せと教える神は信じぬ」
「あ、あの」
「死にたくなれば黙っていろ」
胸に抱えた娘が目を白黒させて一番近くの春之助に勇気を出して声をかけてきた。だが春之助はピシャリと言葉を止めた。娘は意識を取り戻したばかりのために状況を飲み込む頭の準備もできていないのか、娘は数秒口をはくはくと動かした後黙ってその口を閉じた。
「よし」
それを見て、一つ頷き黒服達と向かい合う。ぶくぶくと太った人間が四人しか、広場には残っていない。油断するのではなく、冷静に状況を分析し、そうして春之助は「これなら行ける」と判断した。
だが、春之助はもう少しだけ用心深く考えるべきだった。
この村が、閉鎖的であるとはいえ、何故百年以上前に禁止されたはずの悪習を容認していたのか。
何故、神に仕える身であるはずの黒服達に、鳥肌が立つほどの悪寒を感じたのか。
何故、このような状況になっても彼らは悠長に構えているのか。
何が彼らをそうさせているのか。
考えるべきを考えなかったことの結末の種類は、それほど多くはない。
「残念ですねぇ」
春之助が、肥えた人間の作る包囲網を突破しようと腰を低くして走り出す体勢になる。弾丸が発射されるように駆け出せば、いくら足元が悪かろうと鍛えた春之助の身体能力であればこれくらいの包囲ならばすぐに突破できる、
はずだった。
「本当に、残念です」
春之助が駆け出そうとした、まさにその時。芝居がかった声が広場の中で大きく響き、雪のにおいの混じる大気全てを震わせた。一人の人間が腹から声を出しただけで出せるような音量ではない。走りだそうとした体勢のまま顔に驚きを浮かべた春之助の目の前で、春之助を囲む太った人間達四人の外套が波打つように揺れた。風で裾がはためいたというものではなく、中にある液体が波打つ表面を表すかのような揺れだ。その様を見て、春之助は水の入った柔らかい革袋をたぷりたぷりと振った時の革袋の表面を思い出した。
けれど目の前にいるのは水の入った革袋ではなく、人間だ。何故人間が着ている外套の表面がそんな揺れ方をする?
「あれは…」
「逃げてっ!」
見慣れぬ事態に困惑し動きを止めた春之助の腕の中で娘が叫んだ瞬間、四人の外套の合わせの奥から赤黒く細長い内臓のようなものが噴き出すようにして飛び出してきた。
十年を超える歳月、世界のあちこちをさすらうようにして旅してきた春之助は、並みの人間よりも物事を知っている。ある地方でまやかしといわれているものはある地方では立派な学問であり、魔女を忌み嫌う種族がいる遠くの町では魔女ではない者が差別される町があったりすることを知っている。
けれど、そんな春之助でも、腹から内臓をはやして笑みを浮かべる人間なんて見たことも聞いたこともなかった。震えていたホムラもいつの間にか袂の縁から顔を出しており、目の前の状況に金色の目を限界まで見開いて硬直していた。
「っ!?」
「お兄さん、逃げてっ!とにかく走って!!」
「逃がすわけにはいきませんねぇ」
腹から溢れた内臓のうち、何本かの先からぽたりぽたりと何かが滴り落ちる。それはどうやら強酸のようで、鉄板の上で肉が焼かれるような音を立てながら、落ちた先の石畳に丸い穴をあけていった。あれに触れれば春之助の肉体など一瞬で溶かされ煙となって消えてしまうだろう。具体的な死の光景にまで思考が至った春之助は、そこまで考えてようやく硬直という呪縛を本能で打ち破った。
「神の代理人である私達に反逆する異教徒よ、御身を神の御許に送ってあげましょう」
「拙者はお前達の神など信じぬと申したであろう!」
答えた瞬間、握っていた脇差を腰の鞘に戻し、春之助は今度こそ駆けだした。鳥肌が立つような音を立てて内臓を引き出した司祭たちの姿は、もはや内臓か彼らか、どちらが本体かわからない有様になっていた。細長い内臓の一本が春之助の頭を吹き飛ばそうと結構な速度で横に払われるのを屈んで避け、僅かに隙間の大きかった二人の間をすり抜ける。春之助の脚力を見誤ったのか、払われるもの、たたきつけられるもの、薙がれるもの、その全てを交わしながら広場から脱出した春之助は、彼らが自分を追う足音を聞きながら腕の中の娘に聞いた。
「おい娘。この村にあれから逃れられるような安全な場所はないのか」
「あったら私は捕まっていないわよ」
「確かに」
春之助ではなく、袖口のホムラが相槌を打ったため、娘はきょとん、という音の似合う表情を浮かべて首をかしげた。そんな娘の反応を敢えて無視しつつ、春之助は袖の上から娘にはわからないようにホムラの頭辺りをぺしりと叩いた。
(逃げるにも、雪山の中をこの格好で行かせるわけにはいかないな)
逃げながら確認した建物の全てが固く扉を閉ざしていて、入れそうもない。あの黒服達の腹の事を知っているのか知らないのかはわからないが、とにかくこの事態には関わりたくない人間ばかりなのだなと察した春之助が、走りながら人気の少ない道を探して馬を預けた宿に行くと、そこも固く扉を閉ざしていた。馬屋も扉を閉ざされていて中にいる馬を出せそうにない。
「鍵などかけるな!」
悪態をつき、拳程度では壊れそうもない頑丈な木製の扉を殴る。打音に驚いたのか、小屋の奥の方でひひんと馬の嘶く音が聞こえた。それに混じってこつこつと石畳を歩く四人分の足音が遠くの方から聞こえてくる。
「き、きたぁ…」
途端に青ざめる娘にちらりと目をやった春之助は、一瞬目を閉じて息を吐いた後、抱えていた娘を下ろした。次いでに袂の中に片手を入れ、中にいたホムラも捕まえて娘の頭にぽんと乗せる。
「危ないから下がっていろ」
言って、脇差ではない方の刀を抜く。春之助の故郷の単位で三尺、つまり九十セン以上チもある長い刀は鏡の如く一つの曇りもない刀身に木製の扉を映した。刃の冷たい煌めきを受け、頑丈そうだという印象を抱いたはずの木の扉が、途端にただの枯れ木の集まりのように頼りない印象になる。その事を不思議だと傍観者の一人と一匹が思った刹那、春之助は抜いた刀で木の扉に切りつけた。すると、木の板は柔らかい果実を切ったかのような見事な切り口を晒してすぱりと切られ、鋭利な木片となってばらばらと地面に落ちた。
「えっ」
「なっ」
一般的に、実践で使う剣というものは見た目ほど鋭利なものではない。鋭利ということはそのまま刃こぼれしやすいということであり、それは戦いにはとても邪魔な要素だからだ。多少の切れ味を犠牲にしても頑丈な剣を作り、引いて斬るというよりは突いて刺すとか、棍棒の如く叩き潰すという戦い方を主とする西の世界ではその考え方は顕著なようで、だから娘もホムラも目の前で起こったことに唖然として固まってしまった。しかも春之助は、よく見れば木よりも固い錠前ごと斬っていた。
「お兄さんの剣すっごい…」
「こんな鋭い剣は初めてみたぞ…さすが摩訶不思議な東の世界産…」
これが標準の切れ味ではないのだが、一人と一匹がそれを知れるはずもなく。彼らの感嘆の言葉に相槌を打つ前に小屋に飛び込み手綱を引いて馬を連れ出した春之助は、娘を鞍の前の方に乗せると着ていた外套を娘の肩にかけた。
「着ていろ」
「ありがとうございます…」
一瞬の躊躇いの後、もそもそと娘が袖を通す。遠慮の気持ちがある以上に寒かったのだろう。娘が上着を着る間に春之助はひらりと馬に飛び乗り、ホムラは娘から春之助の肩の上に飛び移って腕を伝いもそもそと袂の中に戻った。
「よし」
ホムラの戻りをしっかり確認し、春之助が一つ声を出して頷く。そうして娘の両脇から腕を伸ばして手綱を取り、春之助は馬を北に走らせた。
逃げ場に困った春之助が逃げる方向として選んだのは、村の外ではなく雪山の方だった。馬を駆って分厚い雪の中を行く。足跡を追われればいつか捕まってしまうのではないか、と娘とホムラは内心思ったが、春之助は真顔でとんでもない道を歩ませるためにそのうちそんなことを考えている余裕は無くなった。
馬の胴より少し狭いくらいの崖沿いの道を歩かせたり、山の大きな谷を越えさせたりしているのだから当たり前である。遥か下をちろちろと小川のような川が流れる渓谷を助走をつけて飛び越えさせた時などは、娘もホムラも肝を冷やした。
そして火が暮れる間際となった夜。道中で少しずつ枯れ枝を集めていた春之助は手ごろな洞窟を見つけるとそこに馬を誘導し、奥に獣の類が居ないこと、ねぐらにされた痕跡なども無いことを確認して皆を入れ、枯れ枝を手早く整えて火をつけて娘を傍に寄らせた。
「あ、ありがとうございます…」
答えて娘が火の傍に寄り、ほう、と息を吐く。外套をそのまま尻の下まで引っ張って座るだけではまだ寒かろうと、春之助は着替えの中から褌以外の汚れていない着物を出して娘の体に着せていった。だがその間ずっと笑みの一つも浮かべずに、平素のしかめ面をしているので、娘が手際のいい春之助に惚れるような空気にもならない。なんとも微妙な雰囲気の中、娘が服だるまになり、かつ火のおかげでそれなりに温まってきた所で春之助は漸く己も火の前に腰を下ろした。
「気分はどうだ」
「おかげさまでよくなりました。巻き込んでしまって申し訳ありません。でも、助けてくれてありがとうございます」
雪深い土地に居たからなのか、娘が寒さに強いのか。あんな格好をしていたというのに娘の手足の先は凍傷になってはおらず、少し深刻かもしれない霜焼け程度で済んでいた。
受け答えをはっきりし、春之助の分けた携帯食料を食べた後には目に強い意志の光を灯し直した娘である。落ち着いた途端言葉を正したほどには行儀のよい娘である。そんな娘があられもない姿になって気絶して木の柱にくくりつけられるような状況を許してしまっていたのだから、何かしらの拷問を受けたのは確かだろう。その拷問で受けた傷も、手持ちのもので治せる程度のものならば治療しようといった春之助に、娘は首を横に振って断った。
「そこまでお世話になる訳にはいきません。それに、運のいいことに傷の類は無いのです」
「そうか」
本人がそう言うならそうなのだろう。確かに傷が残らない類の拷問でもある。春之助はそれ以上の追求はせず、木の枝で組んだ枠に吊るした鉄の入れ物の中に雪を足し、溶かし沸かして湯に変えて茶を淹れて娘に差し出した。携帯食料というものは保存期間を延長させるために出来る限り水分を抜いたものが多い。娘は手品のような手際の良さで目の前に現れた茶に一寸驚いたものの、色の戻ってきた両手で受け取って口をつけ、こくりと音を立てて飲み込んだ。
「暖かい…」
着物を着こんで外から温めるのとは違う温度に、思わずといった様子で娘が呟く。その拍子にぽろりと目の端からこぼれた雫からそれとなく目をそらしつつ、春之助は娘に諸事に使える布を差し出した。春之助は己の使いやすいように手ぬぐいの形に仕立てているが、使う場面を言葉を知る者がみたら「随分大きなハンカチだな」と笑ったことだろう。
「落ち着いたか」
「はい」
笑う者の居ない洞窟の中では娘が素直に布を受け取り、目元を拭って春之助に返した。目を閉じて数回呼吸し、心を落ち着けていく。じっとその様を観察し、やはりこの娘はただ安寧に生きていただけの娘ではないと確信した春之助は、娘がまた目を開いた瞬間に口を開いた。
「拙者が親切だけでここまでしたのではない事ぐらいはわかるか」
「もちろん。今の時期に外からこんな戦い慣れした方が来るなんてこと、今までありませんでしたから。しかも外国人が来るなんて…」
「一応身分としては氷水晶の商人ということになっている。最も今となってはそんなもの、毛ほどの意味も無いだろうがな」
言って、春之助も己の分の茶を口にする。娘は確かにと頷いて、では何を聞きたいかと問うた。
「私の知る範囲でしたら、何でも答えます。さあどうぞ」
「ならば先ずは名を答えよ」
間髪入れずに放たれた言葉に娘がちょっと目を開く。そこで漸く自己紹介がまだだったことに気づいたのか、苦笑しながら名を答えた。
「失礼しました。私はカタリナ・レインウォーターと言います。ノルヴェスで羊飼いをやっていました」
「拙者は竜田春之助。用心棒をやっている」
「え…?でも、お一人…ですよね?」
春之助の答えに戸惑いを浮かべ、カタリナは辺りを見渡した。
「この村に来たのは用心棒としてではない。この村にいるある人物をバチカナエまで連れてこいという仕事を請け負ったから来たのだ」
「バチカナエ…ああ、あの怪物の総本山ですね」
そう言って、娘は親の仇を見るような目を空中に向けた。ごつごつした岩肌をさらす天井を彼女の目が睨み付ける。そこに彼女が見て居るのは、目に見えるものではないのだろう。
「怪物、とな…」
「あれは人じゃないでしょう!」
声を荒げてカタリナが叫ぶ。春之助の元で大人しくしていたホムラは袂の中で春之助に聞こえる程度の小さな声量で「まぁそうさなぁ」と呟いた。
「確かに。次に拙者が知りたいのはそのことについてだ」
話してくれるか。
春之助が言うと、カタリナは興奮を抑えるように深く息を吐いて、それからぽつぽつと語り出した。




