蜥蜴モドキ
夜明け前は夜という時間の中で一番気温が低い時間だ。それは砂漠とて例外ではなく、むしろ昼夜の気温差がはっきりしているこの地では、その気温の低さは人の命すら奪いかねない冷気となってオアシスの街を覆う。主な活動時間である夜が終わり、休む時間の朝が、その後の昼がやってくる。住宅のある辺りからゆっくりと広がっていく静けさは、麻布に水が染みこむようにじわじわと街を静謐に飲み込んでいく。
もちろん春之助の周辺も例外ではない。長い睫を下ろし、目を閉じて静かな寝息を立てる春之助は寒さのせいでか無意識のうちに体を縮め、マントの中で体を小さくしていた。春之助が休んでいる所は栄えている一帯からは少し遠い場所にあるため、騒がしさは春之助の耳にまで届かない。つまり春之助は寝ていた。何も知らない通行人が何かの弾みで視界に収めたら、死んでいると勘違いして大騒ぎしてしまいそうなほど微動だにせず寝ていた。
見事なまでの熟睡である。いや、熟睡しているように見える。
「…いたぞ」
その時を狙ったのだろう。数時間前に春之助に有り金全てを取り上げられた男達が、それぞれ物騒な得物を手に砂を踏みつけながら木木の間からゆらりと現れた。酒で濁った目の中に俯いて静かに呼吸する春之助を収め、そのうちの一人がにたりと笑って握っていた三日月刀を振り上げる。春之助の刀よりもさらに見事に湾曲した刃物である三日月刀は、白む直前の夜空で光を集めてきらりと光り、その名の通り三日月のようになって春之助を照らした。
「余所もんが好き勝手やりやがって…!」
分厚い唇が怒りに歪み、怨嗟の言葉が滴り落ちる。触れれば肌が爛れて肉が焼けそうな熱を帯びた言葉が、冷たい地面に落ちてじゅぅうと辺りを焦がした瞬間、男は刀を春之助の頭めがけて振り下ろした。
だが。
「なぁっ!?」
「寝込みを襲うか。想像以上の愚か者達だ」
振り下ろした三日月刀は春之助の頭を真っ二つにする前に音もなく抜かれた脇差に弾かれ、瞬きの間に膝をつき腰を浮かせていた春之助の足下で地面に突き刺さっていた。対して春之助の脇差は至近距離でぴたりと男の左目に刃の切っ先を向けていた。達人の勝負は一瞬でつくとは言うが、素人と達人の勝負もまた一瞬でつくのである。
「去ね」
春之助の周囲を固めるのは、夜闇に紛れてわかりにくいが八人ほど。そのうち一人に刃を向けている。当たり前だが、腕が二本しかない春之助にとってこの状況は不利である。
しかし、そんな一般的な判断は、場を満たす春之助の覇気の前では意味などない。
いくら数が多くとも、一頭の龍の前では蛇など無力同然なのだ。
「もう一度言う。去ね」
ぎらり、と。わずかな光を集め、刃よりも鋭く光る黒の双眸が男の目を貫く。周囲の者達はその視線だけで得物を出す前に腰を抜かし、はじめはそろそろと、そしてすぐにわっと駆け足で逃げていった。しかし春之助に刀を振り下ろした男だけは至近距離で春之助の雰囲気に飲まれてしまったのか、周囲の男達の逃げる声に刺激され、発狂したとしか思えない悲鳴を上げた。
「ぎゃぁあああ!!」
「チッ」
さらに、恐怖に狂うままに懐にあったらしい何かを至近距離から春之助の顔に投げてきた。咄嗟に春之助が脇差を引いたからよかったようなものの、もしも腕を動かさなかったら自ら左目を刀に突っ込ませることになっていただろう。
「愚かな…」
春之助が流れるような動作でそれを脇差ではじき飛ばすと、それはカキンという硬質な音を立て、水辺に生えた背の低い草の中に消えていった。投擲武器にすらならなかった何かを見やることなく、抜いた脇差を腰に収めて地面にあった荷物を肩に掛ける。男の方に歩み寄り、数時間前アグドゥバにしたのと同じように首根っこを掴む。醜い太り方をしている男は重かったが、そんなことはお構いなしに春之助は掴んだ襟元を持ち上げ、体に背負うようにして、その男を逃げていく男達の群の中に投げ飛ばした。
「どぁっ!?」
「忘れ物だ!」
男の下敷きになり、何人かが潰れる。だがすぐに体勢を立て直し、投げた拍子に気絶した男を抱えて男達は建物の多い方向に逃げていった。
殺さなかったのでまた恨みと怒りのままに闇討ちをしかけてくる可能性は無きにしもあらずだが、その時はまた返り討ちにすればいい。その時のやり方が陰湿すぎたら、今度こそ首を刎ねれば問題はない。どんな国でも殺人は御法度だったが、自分の身を守るために襲ってくる暴漢から身を守るためなら仕方ないというのはこの時代の旅人たちの共通認識であった。
そして春之助は、それなりの年月やってきた用心棒の仕事の中で、襲ってくる者達の命を奪ったことがあった。殺めることに、罪悪感はあっても躊躇いはない。
(次はない。もう二度と馬鹿な真似はするな)
男達の後ろ姿に心の中だけで呟いた春之助は、彼等の姿が完全に消えたのを確認した後、背を預けていた木の根元に刺さったままの三日月刀を引き抜いた。手の中で観察してみれば、柄も鍔も実用というよりは装飾のためにごてごてと飾り付けられていた。戦いというよりは権力や財力を示すためのものと見た方が良いだろう。しかし、だからといって刃の部分がおざなりになっているわけではない。刃の根本から切っ先までは一応同一直線上にあるから歪んでいるわけではないし、触れてみれば金属自体もそれなりに良いものを使っているようである。
「………」
しかし手入れが杜撰なのか、刃自体は曇っており春之助の顔を確認することもできなかった。あの男は刀をただの道具としか見て居ない輩だったのか、と顔を顰めた春之助は、木から離れた砂地にその三日月刀を突き刺した。
同じ場所に刺そうとすれば、寄りかかっていた木の根を傷つけるかもしれない。かといって持っていく気はないし、そのまま置いておいたら何も知らない子どもが引っかかって怪我をする可能性がある。これでよかろう、と春之助は数歩下がって柄が地面から生えたような状態の三日月刀を確認した。
そして、そのままその場を離れようとした。
だが。
「………」
朝から寝込みを襲われ、不快指数の高さをそのまま眉間の皺の深さにしたような機嫌の悪い顔つきのまま、春之助はついと草むらの方を見た。そのまま数歩も歩かぬうちに足を止める。視線の先の草むらは、先ほどはじき飛ばした何かが飛んで行った草むらである。ぼちゃん、という水に落ちる音はしなかったので、その何かが水に落ちたとは考えにくい。
だとしたら、案外近くに落ちたのか。はじき飛ばした時の重さと勢いからそれは考えにくいのだが、と思考した春之助は、収めた脇差に左手を添え、草の中に足を踏み入れた。いつの間にか夜が終わりを迎え、東の空が白みだしている。あと半刻もすれば街ごと殺人的な熱気に包まれるだろう。その前にこの違和感の正体を確かめておこう、とゆっくりと草をかき分けるようにして足を下ろした瞬間。かちゃりという音とともに草履の下に砂と土以外の何かを感じ、春之助は足をどけてその何かを手に取った。
(金具…か?)
手の中にあるそれは細い金色の鎖を使った首飾りのようだった。中心にある装飾品は、置き去りにされた三日月刀の柄と同じようにごてごてと飾り立てられている。成金趣味という言葉をそのまま形にしたような首飾りだ。一見女物のようだが、春之助の故郷とは違いこちらの国々では男も多くの装飾品を身につける。手に持った重さからこれはそのための男性用の首飾りだなと判断した春之助は、確認するだけ無駄だったか、と捨てようとして、ん?ともう一度手の中の首飾りを見た。
上弦の月の形をしたくすんだ金色の金属、おそらく真鍮を土台として大小様々な宝石がモザイク画のように埋め込まれている。その中心に、鶏の卵よりも少し小さいくらいの空間がぽっかりと空いていた。そのせいで、首飾り全体が、なんだか間抜けな印象になっている。
(中心の宝石が刀に当たって外れて重さが減ったから飛距離も減ったのか…いや。宝石の硬度は見た目よりも低いものが多い。もしかすると砕けたのやもしれぬ)
ならば空中で砕けたとも考えられる。しかし、それこそ石の砕ける特徴的な破砕音など全く聞こえなかった。だとしたら、己の剣撃に耐える何かがあったということになるのではないか。
だとしたらそれは何だ。もはや違和感の解決ではなく、好奇心の赴くままに春之助はもう一度草むらに目を落とした。
刀の腕は超一流。頭も決して悪くはなく、顔とて表情がいつも怖いだけで造形だけ見ればかなりの美形と密かに言われる春之助の欠点は、この好奇心の強さであった。平素は鍛えた精神力で好奇心を警戒心に変えて御している春之助には、油断すると好奇心のままに余計なことにまで首を突っ込んでしまう悪い癖があった。そしてその好奇心は殆どの場合、痛い目を見せるという形で春之助を成長させてきた。
赤子の頃、眠っている猫にちょっかいを出して引っかかれた。二歳の始めに毒蛇に噛まれて生死の境を彷徨い、五歳の頃には増水した川を見に行って溺れかけた。そんな春之助が、此度の好奇心で見つけたものはとは何か。
「赤…いや、深紅色の…何だ、これは」
それは緑の草の下に散らばった不透明で赤い破片だった。しかし宝石が割れたにしてはおかしい形状をしている。確かに色味はルビーやガーネット等の宝石を彷彿とさせる赤色だが、形だけ見れば卵の欠片のような薄さなのだ。地面に散らばった破片の一つを手に取れば、湾曲した内側は何かの粘液のようなもので濡れていた。水よりも粘度があり、それこそ生物的な匂いがする。
思わず独り言を呟いてしまったのは、それほど驚いたからだ。破片の形状や散らばり方から察するに、首飾りの真ん中にあったのは卵であると春之助は判断した。しかしどこの世界に宝石のような殻を持つ卵があるというのだろうか?あちこち旅をし見聞を広げてきた春之助でもそんなものは見たことがない。
割れた殻の中に居たものは何か。もしも卵の黄身のようなものだったら地面に弾けて見るも無惨な姿になっているだろう。だがそれでもいい。中にいたものが何だったのか知りたい。見たい。もしも無害そうなものならば触れてみたい。先刻の賭事より何倍も高鳴る胸を懸命に押さえつつ辺りの草をかき分けて欠片を探す春之助の顔を、やっと昇った太陽が照らした瞬間。いつの間にか膝を付いて草むらを泳ぐようにしてかき分けていた春之助の目前に、ついに『中身』が姿を見せた。
「ピィ」
高い声で鳴いたそれは、卵の黄身などではなかった。
鳴き声が出せるほど体ができあがっていた。
「……と…」
土の上で、己を守っていた殻を食んでいたそれが春之助の顔を見つめ返す。殻と同じ深紅色の体に、今春之助を照らしている朝日を煮詰めて固めたような金色の目を持つそれは。
「と…かげ……か?」
四つ足で、朝日を照り返す滑らかな鱗に覆われている、表情の変化が無いに等しい小型の爬虫類であった。しかし、宝石のような深紅色の蜥蜴など春之助の知識の中には存在しない。見たことも聞いたこともない。
「……お前は、何なんだ」
春之助は思わず真正面から蜥蜴を見つめ、真顔で問うた。動物に話しかけるなど春之助の性格からは考えられない行動だ。もしもアグドゥバが今の春之助を見れば、明日は槍が、いや騎兵隊ごと数多の武具が刃先を下に向けて降ってるのではないかと騒ぎ立てただろう。
そんな春之助を、深紅の蜥蜴はきょとんとした顔で見つめ返すのみだった。
見たことのない不思議な生物を、好奇心を解放してしまった春之助が見過ごせるわけもなく。また、水辺とはいえこのまま放置すれば数時間もすれば生まれたての生物が黒焼きもどきになるのは火を見るよりも明らかだったため、春之助は首に巻いていた布を外し、それで蜥蜴もどきをくるむようにして抱き上げた。頭から尻尾の先まで、長さは大体春之助の中指くらいか。数秒前まで人肌に触れていた布は蜥蜴もどきには心地よい温度だったらしく、金色の目を少し細めて布の中に落ち着いた。
これから街は灼熱の大気に包まれ本格的な休みの時間に入る。その間は娯楽施設のどこかに体を置いて次の用心棒の仕事先を探そうと休みながら考えていた春之助だったが、懐の生命にそんな行動がよいはずがない。地面に落ちていた殻のうち比較的大きな欠片を拾って蜥蜴もどきに与えながら、春之助は背に腹はかえられぬと内心で呟き、アグドゥバの屋敷に向かった。
アグドゥバの屋敷は、砂を無理に固めたような庶民の家とは違い西洋貴族の屋敷を思わせる形をしている。砂漠の世界に似合わぬ赤く緻密な煉瓦造りの洋風建築が周囲との調和を拒んでいるようで、春之助はどうしてもこの屋敷が好きになれなかった。ちなみにもしも口に出してアグドゥバに言えば笑いながら「自分みたいで?」等と言われそうなので言う気は毛頭無い。
「たのもう」
重厚な扉の前に立ち、扉にかけられた金属を叩く。こんこんと音を響かせるとすぐに使用人が現れた。
「何か御用で…あ、タツタ様でしたか」
出迎えてくれたのは屋敷の使用人の一人だった。この屋敷の使用人の殆どはこの街の住人である。つまり砂漠の、褐色肌の者達である。それが建物に合わせて西洋風の格好をしているものだから、春之助は見る度いつもむず痒い思いをしていた。砂漠の民は砂漠の格好が一番似合う。無理に黒と白のスーツを着せる雇い主の趣味を疑うのは仕方ないことだろう。へらへら笑うアグドゥバの趣味は成金達の中では比較的落ち着いたもので好感が持てる。だが時々出るこういった感性が、春之助は少し苦手だった。
「ああ。アグドゥバは寝ているか?」
「ええ、ぐっすりと。先ほどは春之助様に大変お世話になりまして…」
「口上はいい」
頭を下げて礼を言う使用人を手で制す。春之助の動きにつられるように懐に入れた布の中でもぞりと蜥蜴もどきが動くのを感じながら、それとなく片手で押さえる。蜥蜴もどきは少しの間不満そうにまたもぞもぞしたが、すぐ大人しくなった。
「は…ではご用件は何で御座いましょうか」
「宿が無いので部屋を借りたい」
「あれ? でもさっきは…」
「あー…」
実は、春之助はアグドゥバを送った時に一度泊まらないかと誘われていたのだ。その時は宿を取るからと断ったのだが、春之助は先ほどまで星空を屋根にして寝ていたのだ。なんと言ってごまかそうか、と春之助が視線を逸らしたのは一瞬。しかしその一瞬は、長年屋敷で働いてきた使用人が春之助の袴に残る砂や汚れを見て野宿をしていたのを見抜くのに充分な時間だった。
「もしかして…野宿していたのですか!?」
「そうだ」
「何をお考えなのですかタツタ様!砂漠の夜は冷えるのですよ!?体を壊しでもしたら…」
「心配でもするか」
「私どもの主が心配で暴走してタツタ様にご迷惑をかけるでしょう」
「うっ」
しれっとした顔で使用人が放った言葉に、春之助は思わず顔を顰めた。使用人や用心棒という、本来彼とは全然違う身分の者を友人のように扱うのはアグドゥバの特長の一つである。そういった部分が人に好かれて使用人達も良く働くのだが、時にはその人の良さが煩わしく感じられることがある。それは体調の悪い時などであり、そんな時にアグドゥバにいつもの雰囲気で構われたら自分は不快な気分の根本を絶つという目的で彼の腕を折るかもしれない。そう考えられる程度には、春之助は己の力というものを良く知っていた。人の体の構造を知り、方法を知り、躊躇いの無い人間にとって、骨を折るというのはものの弾みでやってしまえる程度には簡単なことなのだ。
「それは不味いな…」
「でしょう。さ、お入りください」
「アグドゥバに確認を取らなくてもいいのか?」
「取らずとも、起きた時にお伝えすれば充分です。アグドゥバ様はタツタ様を大変気に入っていらっしゃる。頼られたと知れば二日酔いも吹き飛ばす勢いで喜びましょう」
砂漠の砂に磨かれた褐色肌に、笑い皺を刻ませて穏やかに言われれば、確かにそうかもしれないと思えるから善人の笑顔というものは凄い。さぁさと言われて背中を押された春之助は、そのまま客室の一つに案内された。
「旅の疲れもそのままでしょう。湯を用意致しますので少々お待ちください」
「忝ない」
「いえいえ」
愛想笑いではない本当の笑顔を浮かべ、使用人が下がる。案内された部屋は建物の外見と同じく洋風で、木の床と天井、抽象的な植物像が連続した幾何学的な壁紙で構成された空間になっていた。その中に寝台と簡素ながら磨き上げられた木の椅子と机が置いてある。さらに、天井には土地に似合わぬ建物の内部を過ごしやすくするための氷水晶が無数にとりつけられていた。
氷水晶とは砂漠地帯から遠く離れた氷山地帯で産出される魔法の鉱石の一種である。冷やしたわけでもないのに冷気を発するのが最大の特徴だ。それをここまで運ぶだけで一体いくらかかったのか、そうまでしてこの町に西洋風の建物を建てたかったのかと、春之助は天井で淡く光る水色の鉱石を見ながら呆れてしまった。
この部屋で唯一建物の外をうかがえるのは入り口から見える窓である。木枠の窓辺に飾られた花瓶には、おそらくここに客人が来て泊まるとなった時に歓迎の意を込めて花でも飾るのだろう。春之助は急な客であるために今は何も挿されていなかったが、もてなしを求めている訳ではないのでそんなことは気にならない。春之助が気になるのはむしろこの屋敷の使用人の女達から向けられる多くの視線だった。
(これだから女のいる所は好かん)
一つ睨めば誰もが怯えるこの相貌を、何故か女達は睨まない限りよく好むらしい。昨日の客引きの女達は気がつけば面倒くさがって睨んで退けたが、世話になる屋敷の人間を睨むわけにはいかない。そういう訳で努めて眉間の皺を消していたら、何を勘違いしたのか、白っぽいひらひらのついた作業用の洋服を身に纏った女達がこぞって物陰から熱っぽい視線を自分に向けてきたのだ。ああまたかと思って無視して部屋に入ったは良いが、春之助が少し気配を探れば簡単に廊下の端でそわそわしている数人の女の気配を感じられた。
用心棒を始めた頃は己が女に好かれるなど何かの冗談かと思ったが、その後直ぐに町娘に愛の告白などされて仰天した記憶は生々しく春之助の中に残っている。衝撃的過ぎて一生忘れられる気がしない。面識の無い娘にいきなり「好きです!」と言われれば誰だって驚くのも無理はないだろう。当時の年齢と己の腕を考えれば、「隙だらけです!」と言われた方がまだ理解できた。
「面倒なものだ…」
「ピィ?」
「お前もある意味面倒だ」
懐で鳴いた蜥蜴もどきを出し、寝台の上に布を広げる。蜥蜴もどきは頭を振って金色の目を部屋のあちこちに向け、辺りの臭いを嗅ぐような動きを見せた後漸く春之助の顔を見上げた。
「ピィ」
何?とでも言いたげな高い声である。爬虫類の言葉で問われても応える言葉などわかるわけがない。故に春之助はとりあえず寝台に腰掛け蜥蜴もどきをもう一度観察することにした。誰かに委ねるにしても自然に返すにしても、とにかくまずはこれが何なのか知らなければならない。そう思ったはいいものの、手を差し出せば何の疑いもなく手の上に上り春之助の手の上で満足そうにひっくりがえる蜥蜴もどきがなんなのかなど春之助にはわからない。知らないものは考えたってわかるわけがないのだ。春之助はそう結論づけると蜥蜴もどきの正体を考えるのをやめた。即決だった。
「お前…」
行く当てはあるのか。思わず蜥蜴もどきに尋ねようとして、最後まで言い切る前に春之助はばかばかしいと首を振って言葉を飲み込んだ。生まれたばかりの相手に聞くことではないし、だいたい聞いたところで返答があるわけでもない。もどきとはいえ蜥蜴の見た目をしている以上、どう頑張っても目の前の生物が人の言葉を喋れるわけがないのだ。
「ピィ」
己は何をやっているのだ、と頭を振る間にも蜥蜴もどきは手首を経て腕を上り、さらに肩にまで上がって春之助の頬を鼻先らしき頭の先でつついてきた。それを指で押さえつつ、もう片方の手で荷物の中の着替えを探しながら春之助は心の中で呟いた。
そういえば、そもそも爬虫類は鳴くものなのか、と。
問題はそこではない、と突っ込むお節介な存在は、残念ながら春之助の側にはいなかった。
暫くすると完全に夜が明け、春之助は暑くなる直前に簡単に湯浴みを済ませて部屋に戻ってきた。ついでに持っていた着替えを全て洗濯してしまったので今着ているのは使用人達と同じ簡素なシャツとズボンである。春之助は極東の人間であるために元々肌が白い。その白さのおかげで洋装は使用人達よりは似合っているように見えたが、本人はとても不満そうだった。
「やはりこの格好は慣れぬ…!」
手早く髪を乾かし髷を結った後、鏡の中の自分の姿を見て春之助は顔を顰めた。髷を結わずに長い黒髪をそのままにしておけば結構似合っているのだが、髷は武士にとって刀と並ぶ誇りの象徴のようなものである。結わないなどという選択肢は春之助の中に存在していなかった。故に結った結果、春之助はなんともちぐはぐな格好になっていた。
「ピィピィ」
「笑うな。いや、笑っているのか?」
「ピィピィ」
蜥蜴もどきは短い手足をばたつかせて寝台の上で騒いでいる。それがまるでおかしさに耐えきれずに机を叩いて大笑いする様に見えた春之助は、蜥蜴もどきは笑っているのだと判断した。
「お前が生まれたてでなければ窓の外に放り出したものを…」
そうは言ってももちろんやらないが。春之助は青筋の立ちかけた額を気を落ち着かせるように手で覆い、深く息を吐いてから扉と窓にかけた鍵を確認し寝台に潜り込んだ。先に寝台にいた蜥蜴もどきは春之助の行動に抗議するようにまたピィピィ鳴いたが、春之助はふんと鼻を鳴らすとその首根っこを捕まえ、己の枕の隣にぽとりと落とすようにして置いた。
「寝る。黙れ。お前も寝ろ」
「ピ」
「よし」
春之助の言葉に、蜥蜴もどきはまるで敬礼するように短い右腕を挙げて返事をした。春之助はそんな蜥蜴もどきに満足そうに頷き、片手で真っ赤な頭を撫でながら目を閉じ、目蓋の裏の闇の中で待っていた眠気に意識を委ねた。
ぎしり。
「ん…」
寝入ってからどれほどの時間が経っただろうか。木の軋む音が耳に触れ、春之助は布団の中で目を開いた。枕元に置いていた刀を手に起き上がり、音のした方を向く。寝起きでずれていた焦点が合い視界が鮮明になると、春之助は己の視界の先にあるのが扉だと認識した。
(誰か来たのか)
「タツタ様」
(何だ、使用人か)
扉の向こうから聞こえてきたのは使用人の娘の声だった。気配は一つ。一人だ。
「何用か」
「お召し物が乾きました故お持ち致しました」
「忝ない。暫し待たれよ」
そう言って袂を直そうとして、そういえば西洋の服を着ていたのだなと思い出す。体の線に沿った細かな作りをした服は皺ができても体が見苦しく露出することはなかった。待てと言った手前何となく皺に手を当てて伸ばしてみるが、それで伸びるようなものではない。ふと見た窓の外は、布で窓を隠していても布越しに強すぎる日光の存在を伝えていた。しかしその日光は予想していたよりも弱くなっていた。おそらく今は夕方だろう。
(久方ぶりに良く寝たな…)
「ご都合が悪いのでしたら、また後ほど伺いましょうか?」
「いや、もう大丈夫だ」
春之助は最後に一つ髷が乱れていないのを確認し、寝台から降りて扉に手を掛けた。降りる時にちらりと見た蜥蜴もどきは寝台の上で腹を見せて寝ていた。気を許しすぎである。
脇差を左手に扉を開けると、綺麗に畳まれた己の服を籠に入れた使用人が立っていた。春之助よりも身長が低いのか、白い布で作った使用人用の不思議な形の髪止めが視界の下に見えた。
「ご苦労」
「ひぁっ」
「忝ない」
「い、いえっでは!」
使用人の娘から籠ごと服を受け取り、礼をする。娘はさぁっと頬を朱に染めると一礼し、失礼にならない限界の速度で廊下を駆けていった。その姿は、まるで肉食獣に睨まれた小動物が、己の身を守るために全力で逃げていくようだった。
(……目つきが悪かったか?)
目覚めがよくないと目つきが悪くなり、表情が平素よりも恐ろしくなる自覚はある。だが今がそうだとは思えない。念のため鏡を見てみたが、眠る前と全く同じ顔である。ならば何故あの娘は逃げた?と考えて、春之助は女が己の相貌を好むことを思い出した。
そこで春之助はまさかこの顔に見とれでもしたかと冗談半分に考えてみたが、考えた瞬間に気持ち悪くなったので考えるのを止めた。色恋沙汰と冗談ほど己に似合わぬものはない。
「あり得ぬ」
「あり得ぬって何が」
「女が俺を…っ!?」
唐突に聞こえた謎の声に、春之助の反応は一瞬遅れた。洗濯物を籠ごと捨て、左手に持っていた脇差を抜いて構える。己に気配を悟らせずにこの狭い室内に侵入する人間など危険人物に間違いない。見つけた瞬間に、殺される前に殺さねばならない。そう思って狭い室内を見渡したものの、何故か部屋に己以外の人間を見つけることはできなかった。
「誰だ!どこにいる!」
「どこって、ここ、ここ。お前さんの目の前」
「目の前?」
目の前、と言われて目の前を見るが、そこには誰もいない。あるのは寝台と、その上にいる蜥蜴もどきくらいだ。
そう。この部屋には春之助以外に、蜥蜴もどきがいるのである。その金色の双眸をじいと数秒見て、春之助はいやいやと視線を固定したまま首を振った。器用である。
「……いや、まさか。そんなまさか」
「いやぁお前さんめっちゃ俺のこと見てるじゃん。今めっちゃ目ぇ合ってるじゃん。そのままついでに現実見ようぜ」
「物の怪退散!」
「どあああああ!?」
へらりと笑った蜥蜴もどきを真っ二つに分割する軌道で刀が走る。表情の変化が少ないはずの爬虫類顔がやけに人間臭く見えるのは、人間の言葉を喋るからか。その顔を引きつらせながら寸での所で転がって刀を避けた蜥蜴もどきは、その刃の切っ先が寝台を斬る直前で泊まっているのを見て器用に顔色を青くした。
「や、あの、本気で!本気で待って!!」
勢いをつけて刀を振り下ろしたのであれば、そのまま寝台まで斬りそうなものである。しかし完全に己の力を掌握している春之助は、斬るべきではないものを斬らぬようぴたりと寝台の前で刀が止まるように刀を操っていた。それから伺えるのは剣の腕の確かさである。
あ、これ本物だ。まじだ。蜥蜴もどきは思わずといった風に呟いた。
「物の怪相手に待つと思うたか」
「俺はモノノケじゃないし、百歩譲ってそうだったとしても何かやらかすってんならお前さんが寝てる間にやりそうなもんだろ!俺、お前さんが寝てる間に何かしたか!?」
「……していない」
「だろ?な?だからまず落ち着け。お前さんは殺る気満々だが俺はそんな気全く無いから!」
「わかった。しかし少しでもその気を見せたら…」
「その時は遠慮無く斬りゃいいさ」
蜥蜴もどきは大きく頷き、春之助がめくった布団を器用に厚く畳み、その上によじ登った。春之助はそんな蜥蜴もどきを視界の端に収めつつ、もう一本の刀を側に置き寝台の横に椅子を持って来て座った。布団の上によじ登って視点を高くした蜥蜴と、椅子に座って視点を低くした春之助の視点がぴたりと合う。何とか命の危機を脱した蜥蜴もどきは春之助の行動に満足そうに頷くと、短い前足でてしてしと布団を叩きながらまた口を開いた。
「何よりまずは、感謝だ。感謝」
「感謝?」
「夜に俺をあの結晶から出してくれただろう?」
「別に意図して出した訳ではない」
「知ってる」
へら、と器用に口角を上げて蜥蜴もどきは笑みを浮かべた。
「俺、結晶の中からでも外のことわかるからさ。投げるなんてひでぇよなぁ。俺は石じゃないってーの」
「石じゃないなら何だ」
「俺は神だよ」
さらりと放たれた蜥蜴もどきの返答は、頭の中で警戒の警鐘を目一杯鳴らしていた春之助の警戒範囲の斜め上を行く答えだった。
「信じられない?」
「信じられるわけがなかろう」
「だよな。俺もそう思う。いきなり『俺は神です』って言われたら誰だって信じないよね」
「だが、ただの蜥蜴でないことはわかる」
ただの蜥蜴は赤くないし喋らない。百歩譲って赤いのがいたとしても、喋りはしない。
「そらそうだ。蜥蜴は喋らない。そんで、俺は蜥蜴じゃない」
「蜥蜴でないというのなら何なのだ。大体、神と言ってもこの地方の宗教は一神教だろう。お前はどう見てもかの教義の唯一神には見えぬぞ」
「俺はもっとずっと北の方の村の神さ。話せば長くなるんだけど…どうする、話す?」
前足の爪でかりかりと頬を掻きながら蜥蜴もどきが春之助に問う。春之助は少し考えた後、蜥蜴もどきの表情を伺うようにゆっくりと頷いた。何かを判断する時には、判断材料はたくさんあるに越したことはない。春之助の理性はこんな言葉を並べて首肯を正当化したが、本当の所は好奇心が勝ったのであった。己を神という蜥蜴の話など、普通に生きていて聞けるものではない。好奇心が刺激されるのは仕方のないことだった。




