覚醒の時
ホムラの言葉に感動し、春之助が思わず久方ぶりの喉の奥の痛みとともに目を潤ませていると、それまで黙って一人と一匹を見ていたマートがおずおずと春之助に声をかけてきた。
「あの、お兄さん…」
「な、な、んだ」
変に痛みを堪えたためか、声がひっくり返ってしまった。それを咳払いで誤魔化し、ホムラを摘んだままマートの方を向く。マートは言いにくそうに春之助がつまむホムラの方を見て、何か言おうと口を開き。しかし何か言う前に、牢の外から聞こえてきた声を聞いて顔を青くした。
「おやおやおや。いつの間にか、奇妙な鼠が入り込んでいたようですね」
「!!」
聞き覚えのある、ねっとりと絡みつくような声である。鉄格子の外に現れたのは体の内に常軌を逸したものを抱える司祭達だった。喋っている一人の側で、他の三人もにたにたと笑っている。彼等の姿にマートは青ざめながらもカタリナを庇うように背に回し、春之助は数度瞬きをして視界を鮮明にし、中腰になった。だが得物が無い。生きる気力を取り戻したといっても、これでは戦いようがない。
「知ってはいけないものを知る人間は、少なければ少ない方がいい」
そう言って、腹からまたずるりと内臓を引き出してくる。春之助がこれに嫌悪を覚えるのは見た目が気持ち悪いからというのもあるが、引き出された内臓の姿が、両親の今際の時に腹から引き出されたものと被るからだった。先ほどまでは記憶を避けるようにこれを避けていた。だがもう避けない。
「大丈夫か、ハルノスケ」
「得物が無いのが問題だが…大丈夫だ」
「それ大問題だろ!」
春之助は一人ではないのだ。懐にしまったホムラの言葉に、状況を考えずに思わずほっと安堵してしまいそうになる。気づいて初めてわかったが、こうして言葉を返してくれる存在がいるというのはとても安心するのであった。
「ハルノスケさんっ得物ならありますよ!」
「何?」
笑みを浮かべそうになった春之助に、マートの後ろに庇われたカタリナが声を上げる。どうぞと放られたのは春之助が奪われた荷物と二本の刀だった。ざっと検分しても特に傷などついてはいない。
春之助が刀を手にした瞬間、鉄格子の向こうの司祭達の顔から笑みが消えた。逆に春之助の顔に笑みが浮かぶ。先ほどまで押し殺そうとしていた気の抜けた笑みではない。
獲物を前に興奮する狩人の獣の笑みだった。
「それは…保管庫に入れていたはずでは」
「保管庫の合い鍵くらい、僕はちゃんと作っています」
じゃらりと音を立ててマートが拾い上げたのは、先ほど落とした鍵束である。牢屋の鍵にしては多すぎる鍵達はこの教会の多くの部屋の鍵らしかった。
マートの言葉に司祭が顔を歪める。この反逆者が、とかなんとか口の端で呟いたと思った瞬間、引き出された内臓が風を切る音を立てて牢屋の中に突っ込んできた。どう考えても牢の中の三人を撲殺や扼殺かするためとしか思えない。
だが、内臓が襲いかかってきた瞬間。それより早い速度で一番前に躍り出た春之助が鞘から刀を抜き放ち、白刃を煌めかせ、全ての内臓を一瞬のうちに叩ききった!
「はあああっ!!」
常識離れした剣圧で小さな突風が発生する。幼子に切断されたミミズのように体液をまき散らしながら床に落ちた内臓が断面から体液をまき散らしながらのたうち回り、マートとカタリナは抱き合って身を小さくしながらその光景から必死に目を逸らした。
「おや。思ったよりも強いらしいですね」
「そちらこそ。思ったのと違い、これに痛覚は無いのだな」
後で洗濯するのが面倒くさそうなので、体液が着物にかからないように注意しながら刀を振って体液を飛ばす。馬上で振るうのを前提に作られた刀身の長い刀はこういった屋内で振り回すには向かない一品であったが、十数年付き合っている春之助は上手い具合に腰を落としながら見事に使いこなしていた。
春之助の言葉に、司祭はにたりと笑って答えた。
「私達は秘法により、神の体を手に入れたのです。人間の誰も私達には逆らえない!」
「それが神の体だと?醜悪にも程があるぞ」
「キトク教の司祭の身でありながら、そのようなことを仰るとは…あなた方は神の教えを冒涜している!」
「神じゃなくて悪魔の体よ!そんなもの!」
「嬢ちゃんのが一番簡潔だな」
三者三様の発言を春之助の懐のホムラが勝手に判定する。一寸黙っていろという意味を込めて春之助が懐を軽く叩くと、どうやら悪魔と言われたのが気にくわなかったらしい司祭達が腹の奥から別の内臓を引き出しつつ、狂った表情でカタリナを凝視した。
「悪魔?悪魔と言いましたか?あなたが祈っていたものが悪魔ですよこの馬鹿娘が!」
「馬鹿なのは自覚済みよ!態々言われても屁でもないわ!」
カタリナが叫ぶ。それに司祭が嘲笑の笑みを浮かべるのを見ながら春之助は素早く辺りを観察した。地下牢の温度は外気温とそう変わらないように感じられるし、天井と壁の間の辺りから明確な冷気が流れてくるのを感じる。さらに壁の上の方にこびりつくようにして存在しているのは草の根だ。情報を総合し、ここは地下一階だと判断した春之助は刀を天井に向け、天井の作りを滅多切りにした。常識で考えれば剣が石など切れるはずがないだろう。だが東洋の剣は達人が使えば鉄さえ切る不思議の剣だ。免許皆伝の実力を持つ春之助の腕では石など薪藁と同じようなものらしく、ぶわりと巻き上がった風とともに切り刻まれて支えを失った石が天井の向こうにあったものを巻き込んで落ちてきた。それが長椅子だったので、春之助は一度刀を振り懐紙で拭って鞘に戻し、マートとカタリナを捕まえて長椅子を駆け上がり地下牢から上に逃げ出した。逃げ出した先にあったのは一階の祈りの為の大きな部屋だった。等間隔に並べられた椅子の向こうに祭壇が見える。
「待てェ!」
その言葉に振り向けば、腹どころか顔まで割れて間からおぞましいものを溢れさせた司祭達が鉄格子を掴んで揺すっていた。その気持ち悪すぎる見た目に、三人の喉に胃液がせり上がってきた。
「何だあれは!」
「司祭様達はずっと辺境に飛ばされたことを恨んでおいででした。それでバチカナエの者達を見返そうと妖術に手を出してしまったようで…。そしてそのまま越えてはいけない一線を越えたようです…」
「馬鹿っそんなこと見りゃあわかるわよ!」
あれではもう人ではない。おそらく人にも戻れない。待てと叫んだ声に司祭の声の面影は無くなっていた。嗄れたダミ声で、悪魔の声という表現がよく似合うものになっていた。
「拙者が奴らを引き受けよう。お前達はその間に逃げろ」
鉄格子が壊せないとわかったのか、司祭達がばたばたと駆けていく。おそらく来た道を戻ってくるつもりなのだろう。
「引き受けるって、どうやって」
「…人に戻れぬなら、せめて引導を渡してやる」
それはつまり彼等を殺すということだ。殺人宣言を受けたマートは一瞬また何か言おうとしたが、司祭達がもはや人とはいえない存在になっていること。これから正体を現した彼等が何をするかわからないこと。そして彼等があのような姿になる儀式に薄々感づいていたのに止めなかった罪悪感から、彼は聖職者としての言葉を飲み込んで春之助に頭を下げた。
「よろしくお願い致します。僕たちはとにかく村人達を集めて教会から離します」
「よし」
頷き、マートとカタリナを玄関の方に送り出す。彼等が門をくぐったのを見届けた後振り向いた春之助は、丁度祭壇の横からもはや赤黒い色の何かになって現れた四つの塊に相対した。異形のものが溢れ出しすぎて表と裏がひっくりがえったのだろう。本の表紙と裏表紙をくっつけた状態を想像してもらうとわかりやすいと思われる。中身が辺りに広がり、まるでおぞましい花か何かのようである。
「醜悪な…」
「秘密を知ったぁああ者ォぉおおはぁぁああ」
呟いた春之助の居る場所に、数十本の内臓…いや、もはや中にある臓器ではなく外に生えているのだから、細長いという特徴をとって触手というべきだろう。その触手を叩きつけ、床を大きく抉った。人の姿を越えた存在の手加減無しの一撃が轟音とともに建物を揺らし、天井を大きく軋ませる。
「生かしてはぁぁあぁあああおけんンンンん!!!」
「生憎生きる意味を見つけたばかりだ。殺されるわけにはいかぬ!」
言う側から、飛び乗った長椅子に第二陣が振り下ろされる。それを避けると真っ二つに叩き折られた長椅子が宙を飛び、窓枠ごと破壊しながら綺麗に彩色された窓を割って外に飛び出していった。祭壇の横から出てきた彼等の攻撃を避けながら、春之助は入口から祭壇の方に戻っていく。距離を詰めればそれだけ触手の攻撃は避けにくくなったが、まるで風に舞う花びらのような軽やかさで春之助は長椅子の間を飛び回り、そして四つの塊が可能な限り離れた時を狙ってもう一度刀を引き抜き、高く跳躍して触手の塊の一つを真っ二つに両断した。人よりも二回りほど大きい塊になっていたが、春之助の振るう彼方は刀身の長さを超えた刃を持って物体を斬る。触手の塊の一つがものの見事に真っ二つにされると、それはどこかから身の毛もよだつような叫び声を上げて身をよじり、鼻が曲がるような悪臭とともに萎んで消えた。後に残ったのは、斬った瞬間に溢れ出した体液だけだった。
「やはり、真っ二つには勝てぬか」
「威勢がいいねぇ」
「やるからには徹底的にやらねばなるまい」
多少面倒だが、倒せる。春之助はそのまま残りの二体をあっという間に屠り、最後の一体、あのねっとりとした声で喋る司祭だった触手を祭壇から飛び降りて両断した。
「ぎゃあああああああ!!」
「冥府の番人に問うがいい!己が本当に神の体を得ていたのか、それともただ我欲に身を滅ぼした愚か者だったのか!」
一際おぞましい叫び声を上げて、じゅうじゅうと音を立てて司祭だったものが萎んでいく。消え去る直前に叫んだ春之助の声が聞こえていたかどうかはわからない。聞いたかどうか問う前に消えてしまったからだ。そして戦いに勝った春之助はすぐにホムラにせっつかれ、休む暇なく急いで教会から走り出た。
「ったくハルノスケ暴れすぎだ。教会崩れるぞ!」
「俺ではない。暴れたのは奴らだ」
触手を叩きつける力は大地を揺らし、教会を大きく軋ませた。煉瓦造りは頑丈だが、頑丈だからこそ一定の限度を超えた揺れには弱い。春之助が教会の外に走り出て数歩もいかぬうちに屋根の一番上の十字架の土台から崩れ始めた教会は、やがて轟音とともに大量の埃を巻き上げながら跡形もなく崩れ去った。
「………」
「………」
それでも警戒するのが戦いに身を置く者の常である。春之助は刀を構えたまま暫くじっと瓦礫の山を見つめていたが、何かが動く気配などが全く感じられないことを確認するとべったりついた体液を刀を降って弾き飛ばし、懐紙で拭って鞘に仕舞った。
「終わった…」
「だな…」
一人と一匹が息をつき、春之助がいつの間にかいていた汗を拭う。
「…ん?」
「どうした?」
拭った感触に違和感を感じて手の甲を見ると、べったりと血が付いていた。意識を向ければ、どうやら額の辺りに怪我をしたようである。おそらく飛んできた長椅子か窓の破片で切ったのだろう。戦闘で興奮していたから感じていなかった痛みに血をみて気づき、途端に鼓動に合わせて痛み出した額の傷に春之助は小さく呻いた。
「…怪我をした」
「そりゃあんだけ暴れれば…ってお前それ重傷ー!!」
懐から出てきたホムラが春之助の顔を見上げ、悲鳴のような声で叫んだ。かなり出血しているようである。そういえば立つのも辛いかもしれない、と感じた瞬間春之助は立っていられなくなりぽすんと雪の中に倒れた。
「うわわわ出血多量じゃねーか死ぬって!これは死ぬって!!誰かー!!!」
「少し疲れただけだ…」
「ハルノスケの少しは信用できない。荷物の中に何か…」
何か無いのか。そう言おうとして、しかしホムラは春之助の腹の上に乗ったままぴんと頭を上げた。きょろきょろと辺りを見渡し、教会が立っている山を見て、さぁっと血の気を失う。
「………やばい」
「何が…」
「やばいやばいやばい!ハルノスケ、今すぐここから逃げろ!!」
叫び、春之助の腹から降りて肩の着物を咥えて村の方に引っ張って行こうとする。しかし手のひらに収まるほどの蜥蜴型の生物が人間を引っ張っていけるはずもなく、春之助の体は微動だにしなかった。
「何がやばいというのだ…」
「雪の割れる音が聞こえる。雪崩の兆候だ。積もり具合から考えて、この位置は間違い無く雪崩に飲み込まれる!」
「そういえば…この村を見た時も、雪崩に襲われた後だと言っていたな」
「そうだよ!雪崩に巻き込まれたら人間は死ぬんだよ!だから早く逃げろ!!」
「すまん…正直に言うと、体が動かない…」
「おいいいいいい!!!」
思わずホムラは叫んだが、むしろ動ける方がすごいのだ。頭をかち割られる程の一撃を受けて脳震盪で済ませ、ぱっくりと割れた額からは大量の血が噴き出すように溢れている。春之助本人はあまり深刻そうな顔をしていないが、それは体の状態を正しく感知できていないからであった。唇はすでに色を失い、目も揺れている。人間じゃないが人間を長く観察してきた者としてホムラはこれが割と危険な状態であるとわかった。
「なんで今この状況で素直になるんだよ!少し疲れただけなんだろ!?起きろ馬鹿!!」
小さな蜥蜴一匹では運べないのだ。だから立ち上がってくれ。立ち上がって逃げてくれ。怒りの力を借りようと春之助の指先にかじりついてみたりもしたが、既に感覚が無いのか無反応に近かった。そうこうしているうちに聞き覚えのある雪の割れる音が段々大きくなっていく。人間の耳には聞こえない白い死神の足音に焦る気持ちも大きくなるが、ホムラには立ちすくむことしかできない。それでいて、雪の中に倒れたままの春之助は、恐ろしいほど穏やかで満ち足りた顔をしてホムラを見つめていた。
「逃げろホムラ」
「嫌に決まってんだろ。さっき一緒に生きるって言ったろーが!」
「ああ。だが共に死ぬとは言っていない。先ほど俺はお前とともに戦った。一緒にいた。嬉しかった」
俺はそれで満足だ。
穏やかな声にホムラはだだをこねるように首を振った。けれどそれで状況が改善したりはしない。嫌がるだけでは何も変わりはしないのだ。
「俺は満足してない!馬鹿野郎!」
声に涙が混じり、湿っぽくなる。蜥蜴なのに視界が曇ったと思ったら、ホムラの目の端から透明な雫が二筋流れ、小さな煌めきとともに雪に落ちた。それを拭おうとして、己の血の付いた指を上げ、春之助がホムラの顔に指を寄せる。
「蜥蜴擬きでも泣くのだな…」
「俺は蜥蜴擬きじゃないってば…」
雪の割れる音がいよいよ大きくなってきた。ごごごご、という音も聞こえてくる。ホムラが見上げると、山の天辺から白い煙のようなものが立っていた。雪崩の始まりである。
「擬きじゃないのに…俺はただの蜥蜴と同じだ!」
あと数十秒後には今居る場所は間違い無く雪崩に飲み込まれる。それがわかって、なのに何もできない。ぼろぼろと涙を流すホムラの涙を、また春之助の指先が拭う。白から青白を越え、紫色になった指先は氷のように冷たく、ホムラの頬を冷たく冷やした。
その冷たさだけでも消してやりたいと願ったホムラが口を開けて、ぱくりと春之助の指を食む。体の外より暖かい口の中が春之助の指先を、ほんの少しだけ温める。
そしてそれと同時に、ホムラは全く意図せず指先についた春之助の血を飲み込んだ。
その瞬間。死神の異名を持つ雪崩が新雪を巻き込みながら山を下り、木木を巻き込みながら激流に成長し、白い口を大きく開いて彼等を飲み込もうとした、その刹那。
目も眩むようなまばゆい光が金色の目を見開いたホムラの体から迸り、雪崩の白飲み込んで辺り一面を鮮血よりも真っ赤な緋色に染め上げた。