竜田春之助
竜田春之助は侍である。侍とは日ノ国に住み戦いを業とする者、則ち『武士』の総称である。故にこの二つの事象を合わせると、竜田春之助は日ノ国に住まう武士であるということになる。しかし『日ノ国に住まう武士』という形容は、現在の春之助を表すには不適切な言葉である。何故か?答えは簡単だ。現在春之助は国を出て、諸国を放浪している身だからである。
順を追って説明しよう。名は竜田春之助。年の頃は推測するのが難しい顔つきの人である。故に年齢は不詳。しかし老いすぎて正確な歳がわからないというわけではない。戦場で凜と咲く花のような気高さや誇り高さといったものが黙っていても感じられる人間である。腰に帯びた刀の煌めきをそのまま視線に落とし込んだような鋭い黒瞳が、人の印象に強く残る人物である。艶のある肌を見れば十代にも見え、この世の全てを斬らんと欲するような視線を見れば五十を過ぎた歴戦の戦士にも見える。
だが年齢不詳と見えるのは、春之助のせいではない。むしろ春之助が訳あって身を置いている外国の人間達が、春之助のような人種を見慣れない故に年を推測するのが下手なだけであった。もしも春之助と同じ国の人間がその姿を見て年を考えれば、彼の歳はおそらく二十代の後半辺りではないだろうか、と答えたであろう。
だがそれを言える人間は、繰り返すが春之助の側にはいない。それは春之助の国が四百年前、外国の横暴に耐えることを止め、国を閉ざしたためであった。なれば何故春之助は閉じた国の外にいるのか?春之助とは一体どのような人物なのか?
それを知るには、春之助という人間の人生の大きな転機となった物語を語るのが、一番よいだろう。
「ハルノスケさん、今日もありがとうね」
「ああ」
西の世界の外れの外れ。西の小国『アフガルキスタム』は国土の殆どが巨大な砂漠の不毛の地である。人々は砂漠のあちこちに点在するオアシスを中心にして生活を営み、生きている。
そんなオアシスの一つを包むように存在する小さな町のとある広場の片隅で、足下に片腕で抱えられる程の小さな袋を置き、袴姿で髷を結った人間が立っていた。掛けられた声に相鎚を打つその者は、髷を結っているといっても頭はずっと剃っていないらしく月代の辺りの髪も長く生え揃っている。そんな状態で髷を作っているために、身なりだけ見れば、その者は仕事の出来ない侍か、だらしのない浪人のようにも見える。しかし頭を綺麗に剃り上げるのは兜を被ったときに蒸れないようにするためだ。足下の袋一つのみが持ち物の全てらしいこの者が兜等の鎧一式を持っているとは到底考えられない。故にこの者が頭を剃って月代を作っていないのは、不都合が無いどころか極めて合理的なのであった。むしろ髷があるために帽子を被るのに難儀するこの者にとって、砂漠の熱や砂埃等から頭頂を守る髪があるのは好都合と言うべきかもしれない。
腰の帯には、この辺りでは珍しい僅かに湾曲した刀を腰の帯に挟むようにして大小一本ずつ差している。掛けられた声に相鎚を打ったその者は、振り返り、そのまま右手で名を呼んだ男の手から金貨の入った小さな革袋を受け取った。男が名を呼び、金を受け取ったこの者こそ、先に説明した竜田春之助その人である。
東洋人にしては少し彫りが深く、憂いを帯びた表情が何より似合うであろう長い睫が闇色の瞳を抱く切れ長の目を囲んでいる。すっと通った鼻先も、全体から感じる硬質な印象とは対照的に触れれば柔らかそうな唇も、女が見れば嫉妬の念を抱きそうなほど絶妙な位置と形をしている。体の線を隠すような東洋の服装からはわかりにくいが、革袋を掴む手が骨張っており、握力の強さを感じさせるような無駄の無い筋肉の付き方をしていることから、服の下の肉体も相当鍛えられていることがわかるだろう。
生けるものたちの生気を全て吸い尽くすような荒んだ雰囲気を感じる砂の風の中、そこに立っているだけで一つの美術品を思わせる春之助は、しかしその眉間に深い皺を作り、自らの美貌を台無しにしていた。いや、敢えて台無しにしているというよりは、己の見目に頓着しない故に表情を取り繕わず、そのため台無しになっていた。その眉間に皺を寄せた表情は不機嫌そうな印象を周りの者に与えていたが、春之助と仕事で何度も会っている男はこの表情こそ春之助の平素の顔であると知っていた。要するに、春之助は現在ものすごく不機嫌そうに見えるが、別にそんなことはないのである。
「砂犬の群に襲われた時は死ぬかと思ったよ」
「だからこの時期の砂漠を突っ切るのは危ないと進言した」
「商人には危ないとわかっていてもやらねばならぬ時があるのさ」
「拙者には理解しかねる」
「ハルノスケさんは商人じゃないからね」
不機嫌ではない証拠に、春之助は金を受け取った後、則ち雇い雇われという関係が終わった後も雇い主と会話していた。世間話というやつである。先ほどまで雇い主だった男は内心少し驚いた。春之助は普段であれば金を受け取った後はさっさと宿に帰ってしまうような人間だからである。好奇心を刺激された商人は、金を懐に入れたままその場を去るでも無く会話に付き合ってくれる春之助に首を僅かに傾げてみせた。
小首を傾げるという仕草は女でも顔を選ぶ仕草だが、彼の場合、目尻の下がった緑瞳の目、乾燥気味の肌に刻まれた細かな笑い皺、綺麗な白色の伝統衣装という全ての要素が彼を「可愛い仕草の似合う中年」に仕立て上げていた。商人に必要なのは相手を威圧する鋭い視線ではなく相手を油断させる柔らかい笑みだといえよう。そうするとこの男――ちなみに名をアグドゥバという――はある意味商人として天性の才のようなものを持っていることになる。惜しいのはその天性の才が為せる笑みが、春之助には全く通用しないという一点のみだ。アグドゥバの仕草に眉一つ動かすことなく自ら会話を続けようとはしない春之助に、アグドゥバは傾げた首を元に戻して声をかけた。
「ハルノスケさん」
「なんだ」
「何か今日ちょっと機嫌いい?」
「特に良くも悪くも無いが」
「嘘だー。いつもだったら春之助さんすぐに宿に帰っちゃうでしょ」
「そのことか」
アグドゥバの指摘に、春之助は一つ頷くと腕を組んだまま自分の後ろを軽く顔を動かして視線で示してみせた。春之助の位置からでは見えないはずのその先にあるのは、この町唯一のまともな宿である。唯一の、というのはその他の宿が全ていかがわしい目的を持った宿であることを指している。
果たして、その視線が示した先では見慣れた店の女主人が春之助の護衛したキャラバンの直後に到達したキャラバンの中に居た一人に抱きつきはらはらと涙をこぼしていた。砂混じりの赤銅色の女主人の髪の中に愛おしそうに鼻先を埋め、左腕一本で彼女を抱きしめる男の薬指には金色の指輪が光っている。彼が身に纏っている服はこの辺り一帯をその領土とする『アフガルキスタム』の兵服だった。兵服はまともな生地が見えない程汚れ、すり切れ、右腕の途中から先はその中身とともに血塗れになって消失していた。
「知り合い?」
「知り合いではない。あの様子では、先の戦争から夫が漸く戻ったということだろう。今向かえば再会の時に水を差すことになる」
「へぇ。ハルノスケさんはそういうこと考える人だったんだ」
「男女の機微のことか。それはよくはわからない。
だが、離れていた家族の再会の尊さは人並み程度には知っているつもりだ」
「…へぇ」
それこそ意外だ、という言葉をアグドゥバはすんでの所で飲み込んだ。下手な一言で貴重な時間を失うのは三流商人のやることである。抱き合う夫婦の再会を喜ぶ涙まじりの叫び声を、ほんの少し眉間の皺を緩めて聞く春之助など滅多に見られるものではない。ある意味で積荷の絹布の束よりも価値があるかもしれない。頭の余白に今得た情報を書き込みながら、それほどの価値のあるものを逃さぬよう、アグドゥバは何気ない様子で自分達の拠点としている屋敷を指さした。
「じゃあ私達の屋敷で休むかい?」
「遠慮する」
「つれないねぇ。じゃああの感動の再会が終わるまでずっと待つっていうのかい?」
「そのつもりだ」
「相変わらず変なお人だ」
「何とでも言え」
「でも待つのは暇でしょ」
「…何が言いたい」
浅くなっていた春之助の眉間の皺が一気に警戒を持って深くなる。アグドゥバはそれに反して裏の無さそうな笑顔を浮かべると、カードを配るような仕草をした。
「どう?いかない?」
「賭事は好まぬ」
「僕が種銭出すからさ!」
「余計御免被る」
「ハルノスケさんは挑発して乗ってくるような人じゃないしなぁ」
「わかっているなら早く去ね」
「じゃあ砂犬に助けられたお礼ってことで一杯奢りたいから一緒に来て!」
「それは仕事の内だ。礼を言われるようなことではない」
「僕が奢りたいんだよ。こういう時にちゃんと人間関係築いておかないと後々損するよ?」
「…わかった」
アグドゥバの一歩も引かない態度に、春之助は一瞬心底嫌そうな顔をした後一つ頷いた。別にいつの間にか袖の端を彼に掴まれていたというのと、何度も雇われているという心理的な引け目があったからではない。単純に、断るのが面倒くさかっただけだった。
春之助が半ば強制的に連れてこられた賭博場は、オアシスの側にある少し古びた様子の建物だった。街で一番儲かっているらしく、古い建物の周りには簡易な構造の新しい建物が付き人の如く寄り添うようにして立っている。その殆どが示し合わせたようにいかがわしい目的のための建物であることに春之助は眉間の皺をもっと深めた。そのついでに、夕方になり活気づいてきた歓楽街の店先で褐色の肌を露出する女達の潤んだ目線を、無意識のうちに目に込めていた威嚇の色だけではね除ける。
「そんな怖い顔しなさんなって。女の子達が怯えてるじゃないか」
「これは地だ」
「損なお人だねぇ」
客引きの娘達が、春之助の視線に触れるだけでぶるりと身を震わせる。体を隠す面積の少ない布が、唯一その身に残された防具であるとでもいうように、ぎゅっと体に巻き付ける。見事な怯えられっぷりにいっそ感心すらしながらアグドゥバは春之助の袖を引いてゆき、衣の上からでもわかる鍛えられた筋肉質の体を賭博場の扉の中に押し込んだ。受付にいる人間に入館料を渡し、ランプの灯りのみで薄暗い屋内を満たす人混みを掻き分けて奥にあるバーに向かう。そこでゆったりと酒を作るアラビアンな装いの老バーテンダーは流石に仕事柄厳つい表情には慣れているのか、カウンターに座らされた春之助を見ても表情一つ変えなかった。
「いらっしゃい。アグドゥバさんお久しぶり」
「こんばんは。じーさん生きてたのか」
「お迎えがまだなもんでね。そちらさんは?」
「僕の用心棒をしてくれたハルノスケ・タツタという人だよ」
「竜田春之助だ」
老バーテンダーは盲いる一歩前の白濁しかかった目を凝らし、カウンター越しにじっと仏頂面で自己紹介した春之助を見つめた。そして特徴的な東の民の顔をまじまじと見つめると、分厚い白眉を驚いたように跳ね上げ、乾燥した木肌を擦り合わせたような声を上げた。
「もしかして、日ノ国の民かい?」
「いかにも」
「おおお…まさか生きている間に日ノ国の民を見られるとは…」
「ハルノスケさん、ここでも珍獣扱いだね」
「拙者は獣になった覚えはない」
眉間の皺を深くし、口を不機嫌そうにへの字に曲げて春之助は吐き捨てた。しかし子どもと年寄りには親切に、というのが人の道であると春之助は考えている。だから震えながら春之助の顔を拝もうとする老人を無下にはできず、左手をカウンターの下で何気なく脇差に添えたまま、春之助は右手で宙を彷徨う老人の手を取った。
「暗くてようは見えぬが、確かに話に聞く通りの姿をしておる。夜色の髪に美しい肌、そして幼顔に不思議な意思の見える瞳…」
「幼顔…拙者がか?」
「じーさんは今年齢八十越えだからねぇ。じーさんにとってはこの街のみんなが幼顔だろうよ」
予想外の感想に片眉をぴくりと動かした春之助にからりと笑ってアグドゥバは答え、未だ感動の中にいる老人に断ってカウンターから身を乗り出し、瓶の一つとグラスを手に取った。
「これもらうよ」
「それは高いよ」
「いいもん見せたんだからくれたって良いだろう」
「それとこれとは別さね」
アグドゥバの取った酒に関心が行き、老人の手が緩んだ隙に春之助は手を取り戻し膝の上に戻した。残念そうにちらりと春之助を見た老人の視線に敢えて気づかない振りをすれば、老人は一つ残念そうにため息を吐いた後もう一つグラスを出し、手酌で飲み始めたアグドゥバの前に置いた。
「どうせお前さんがこの方を奢るとかなんとか言って連れてきたのだろう」
図星である。アグドゥバは老人の言葉に苦笑いし、瓶の中の酒をとくとくと音を立てながら春之助のグラスに注いだ。
「…今更だが一ついいか」
「なんだい?」
「アフガルキスタムはイスラナ教が国教のはず。イスラナ教では酒の類は一部を除き御法度だったと拙者は記憶しているが…?」
「ハッ!いつ死ぬかわからん砂漠でそんな戒律一々守っている奴なんか滅多に居ないよ」
味見だと言ってぐいと煽った酒と一緒に春之助の言葉を笑い飛ばしたアグドゥバに老人は笑顔で頷いた。春之助の言う『一部の酒』はカウンター奥の棚に有ることはあるが、それ以外の酒の方が圧倒的に多い。
「一理ある」
「でしょ?はい、乾杯」
「頂こう」
小さく掲げられた二つのグラスが乾いた音を立ててぶつかる。琥珀色の液体を揺らし、春之助とアグドゥバは小さな乾杯をした。
アグドゥバは宣言通り乾杯の一杯を共にした後すぐにカウンターから離れ、カウンター近くでやっていたカードゲームの中に飛び込んでいった。春之助はその背中を見つつ、最初の一杯を口に含み舌の上で転がすようにしてゆっくりと飲み込むというのを繰り返し、時間をかけて一杯の酒を味わった。
しかしここまで来てアグドゥバの行動に知らん顔などできはしない。春之助がなんとなく見ている間に卓を囲む者達に勧められるままに酒を飲んだアグドゥバは、はじめは勝っていのだが、酔いが悪い周り方をしてきた辺りから負け始めた。状況から判断するに、カモに認定されてしまったのだろう。アグドゥバは聡明な商人だ。決して馬鹿ではないので商売は手堅く安定している。その反動なのか何なのか、こういった完全な遊びの場では周りの人間の巧みな誘導に乗せられやすい人間だった。仕事が絡まない所では駄目人間になるということである。
「あれ、また負けたぁ~」
「大丈夫ですよ! 次は勝てますって!」
「だぁよなぁ!」
隣の客の言葉に乗せられ、アグドゥバは財布を逆さまに振っている。見事に許容量を超える酒を飲まされ判断力を狂わされた同行者の様子に、春之助は重いため息を吐いた。
「見ておれん」
「助けにいくのかい?」
グラスに残っていた琥珀の液体をぐいと煽って飲み干し、立ち上がった春之助に老人はグラスを拭きながら問うた。
「応。縁のある人間が身ぐるみはがされるのは見過ごせぬ」
「お優しい人だねぇ」
「御馳走様」
グラスをテーブルに戻し、春之助は椅子から降りて顔を真っ赤にしているアグドゥバに近寄った。その肩を軽く叩き、アグドゥバの意識を自分に向ける。
「それくらいで止めておけ。これ以上やれば稼ぎに響くぞ」
「あと一回!」
「その一回で全て持って行かれるのは目に見えている」
春之助の言葉を否定する言葉はない。しかし肯定する言葉もなく、その代わりとして向けられたのは唐突な乱入者に苛立った剣呑な視線だった。
「兄さんこいつの連れかい?」
「左様」
「困るんだよねぇそういう風にゲームの邪魔をされるのは!」
「カードを配っている最中ならともかく、そうではない時でも途中退室不可というルールはポーカーには無いはずだが」
「ハウスルールだよ!ここではそーなってんの!」
「そーそー。邪魔すんなハルノスケさんー」
「お主は口を閉じていろ。明日の朝を裸で迎えたくはあるまい」
やはりこのような場所は好かぬ。心の中で吐き捨てた春之助は捕まえたアグドゥバの首根っこを離し、テーブルの中心にいるディーラーに地を這うような声をかけた。
「ではいつ上がれる」
「ひっ…こ、い、一定時間を過ぎた後は、無一文になるか、場にいる全員がギブアップするまで…です…」
隠す必要は無いとばかりにいきなり向けられた怒気の密度に、柄の悪い盗賊からすら金を巻き上げたことのあるディーラーとその仲間のサクラたちはひゅっと下腹部の内臓が冷えて縮まるのを感じた。人を害することに躊躇いのない、そして害する確かな腕がある人間の怒気ほど怖いものはない。
「成る程」
「っていうかハルノスケさんそこまで口出すなら俺に代わってやってよー」
ディーラーの言葉に今度こそばからしいと吐き捨てて踵を返そうとした春之助にアグドゥバが暢気な言葉をかける。春之助をただの強面の用心棒としか思っていないらしい周囲の人間や他のプレイヤーはアグドゥバの言葉に口々に賛同した。
「そうだそうだ!」
「そこまで口出しすんならやるのが男だ!」
「逃げるのか?意気地無し!」
「…わかった」
春之助は酔っ払いどもを睨んで黙らせようとしたが、場と酒に酔った以外は無害な酔っ払いにそんなことをやっても意味がないと考え直した。酔っ払いの振りをして己からも金を巻き上げようとしている者達にはもっと意味の無い行動だ。そうしてまたため息を一つ吐き、一度は向けた背をまた翻し、完全にできあがっていたらしいアグドゥバが立ち上がるのを待って春之助は彼が座っていた席に座った。卓を挟んで目の前にいるディーラーが、草臥れたカードを手際よく切りながら確認する。
「ルールは知ってるな?」
「一応は」
「一応?」
「やったことはない。賭事は嫌いだ」
春之助の言葉にディーラーは一瞬目を丸くし、次の瞬間にたりと笑った。
この時彼の脳裏に過ぎった言葉を推測するのは簡単だ。素人だ、こいつもカモにしてやろうという言葉だろう。しかし先ほど睨まれた時に感じた冷えを一瞬で忘れたことを、彼はすぐに後悔することになった。
確かに春之助はポーカーをやった事はない。ポーカーに関しては素人だ。しかしポーカーを含む『勝負事』に関しては、当たり前だが滅法強いのであった。
勝負に弱い用心棒など、雨の無い雨季のようなものである。そう考えれば、春之助が勝負に強いというのは当然すぎる事実であった。
日がとっぷり暮れ、砂漠の夜らしく冷え込む夜。砂漠を真に知らない者は昼と夜との表情の違いに驚くだろう。雲が無い故昼間の暖気が殆ど全て上空に逃げる砂漠では、夜は恐ろしい程冷えるのだ。
しかし賭博場は屋内にあり、火を焚かれ、さらに人の熱気で満ちている。昼の砂漠ほどではないにしろ熱い屋内においてはじっとしていれば肌にじっとりと汗をかくほどだ。だが、今の賭博場においては額を流れる汗を拭うことすら躊躇われるほどの静けさがポーカー台を中心にして満ちていた。当然、その中心にいるのは春之助である。最初にディーラーにイカサマは全て見えていると宣言した春之助は、それをハッタリだと考えたディーラーやサクラがイカサマをしようとした瞬間にギロリと睨みをきかせることで本当の真剣勝負に持ち込み、勝っていた。
「……」
端が丸くなった使い古しのトランプを場に捨て、山から捨てた分のカードを取る。それを一瞬だけめくりカード交換終了を宣言し、春之助は腕を組む。他のメンバーが交換を終えてカードを開くと、春之助がイカサマをやっているのではないかと思えるほど見事に強い役ばかりができているのであった。
それを何度繰り返しただろう。気がつけば他の者達の前には硬貨は無く、あるのは身につけていた装飾品ばかりとなっていた。賭けに使える全ての硬貨は春之助の前にて幾つもの歪んだ塔を建てるために使われていた。状況から考えて、このゲームに春之助以外の参加者が負けたら、ラストゲームということになるだろう
「俺はストレートフラッシュだ!」
ラストチャンスという言葉が相応しい状況で、春之助の隣のさらに隣にいる大柄な男が叫び、場に己のカードを叩きつけた。確かに彼の手元ではハートの四、五、六、七、八がぴたりと揃って並んでいる。今まで春之助が出した役の中で一番強いのはフォーカードである。他の参加者もツーペア、スリーカード、フルハウスなどとそれなりに役を揃えて出してくる。
常識的に考えて、今回の春之助の勝利の確率は限りなく低い。
「……」
ぺらり。
確率は低い、つまりほぼあり得ない、はずだった。
「…!!!」
場に出された全てのカード達を睥睨し、春之助が出したのは十、ジャック、クイーン、キング、エースのスペード五枚。あり得ないはずの最強の役『ロイヤルストレートフラッシュ』を何の感動もなく揃えた春之助は、呆然とする参加者達の前から装飾品を取り上げて自分の前に置くと、一呼吸置くことすらせずに隣で呆然としていたアグドゥバに声をかけた。
「おい」
「あ、うん?」
「お主が出した金はいくらだ」
「えっと…二万ゼンくらい?」
「………馬鹿か」
「うわひでぇ」
アグドゥバのへらりとした赤ら顔を軽蔑の表情をもって見やった春之助は、そのまま硬貨の塔の一つをざらりと手に取りアグドゥバに押しつけた。
「んぉ?」
「元手くらいは返してやろう。これに懲りてもう賭事はやめろ」
まさか戻ってくるとは思わなかったのだろう。春之助の言葉にぽかんとしたアグドゥバは手の中の硬貨を呆然と眺めるのみでそれ以上動く様子を見せなかった。春之助はそんなアグドゥバを睨みつけた。そのままアグドゥバの硬貨と財布と取り上げ、乱暴に財布の中に硬貨を詰め、それをアグドゥバの懐に押し込める。
「装飾品まで賭けさせた。これ以上続ける意思のある者は?」
辺りを睨む黒い瞳の中に、部屋の隅で焚かれている暖房の火が映り込みちろちろと踊っている。おとぎ話に出てくる鬼のような目をした異国の戦士に声を上げられる者など一人もいなかった。そしてそれは則ち場に居る者達全員のギブアップを示していた。
「それでは拙者はこれにて失礼する」
異議の無いことを確認し、春之助は目の前の硬貨と装飾品の山をそのままにして立ち上がった。左手はアグドゥバの首根っこを掴んでいるので、ここに入った時とは役目が逆転していることになる。そのままアグドゥバを半ば引きずるようにして出口へ向かおうとした春之助を、周囲に居た人間達は慌てて止めた。
「ちょ、ちょっと待て兄ちゃん!」
「何だ」
「何だじゃねーよ!兄ちゃんが勝ったあの金どーすんだよ!?」
「拙者は要らぬ」
「いらぬって…」
「身の丈に合わぬ金は災厄しか呼ばぬ。拙者には必要ない」
「ハルノスケさんかっこいー」
「黙れ愚か者」
「あべし」
パッと春之助が手を離せばアグドゥバは見事に床とキスした。どうやら床との熱い接吻と同時に鼻を打ったらしく鼻を押さえて悶絶している彼を視界から排除し、春之助は「これかだから金は好かぬ」と呟き硬貨の山に戻った。側に寄せられていた最後の賭け品のみ、呆然とした様子のままの持ち主達の手元に放る。
「ほれ」
「お、わっ」
中々に込み入った装飾を施されたものもまるでもぎ取った果実を放るような気軽さで放るので、受け取る方はたまったものではない。目を白黒させながら持ち主達が放られたものを受け取るのを確認した後、春之助は振り返ってこくりこくりと船を漕いでいた老バーテンダーに声をかけた。
「御老人」
「ホヘッ…なんだい?」
「ここにある金は全て拙者のものだそうだ。ここにある金で皆に酒を振る舞ってくれ」
「ま…待ってくれ!それは俺達の金だ!」
がたんと音を立てて椅子を倒しながら、無一文になるまで負けた参加者達の一人が叫ぶ。一人の言葉に刺激されて次々に声を上げていく。アグドゥバが金を返してもらったから自分達も返してもらえるとでも考えたのか、その顔には驚きを通り超して裏切られたという怒りすら見て取れた。
春之助は彼等の言葉を聞いた後一度瞑目して目を開き、まるでラクダの蹄に踏みつぶされた蠍の死骸でも見るような目で、声を上げた者達を見下した。
「なっ…なん、だよ!」
「敗者が勝者に盾突くな」
外の大気と同じ色にして、それ以上に冷たい目をもって春之助が言い放った言葉に、彼等は皆ぐうの音も出せずに口をつぐんだ。そうだそうだと酒を振る舞って貰える側の観客達が騒ぎ出せば、多勢に無勢となり彼等はそれ以上何も言えなくなった。
彼等が何も言わないのを確認した老バーテンダーがカウンターから出、騒ぎ声を歓声に変えた客達の声に迎えられる。歓声を背に受けながらテーブルに向かいじゃらりじゃらりと音を立てて硬貨を集め、酒瓶を入れていたらしい木箱に入れていく。
彼が「今日はいいもんも拝めたし、儂からも皆に奢ってやろうかねぇ」と穏やかな声で言いながらカウンターに戻れば、客達の歓声はますます大きなものとなり、やがて砂漠の夜の喧噪を吹き飛ばさんばかりの酔っ払いどもの謎の合唱になっていった。
喧噪に紛れて賭博場から出た春之助は、天を彩る星星を見上げ、北斗七星の示す先にある北極星との位置関係を見て現在の時刻を把握し顔を顰めた。運んでいる途中で寝てしまったアグドゥバを担いで屋敷に運び使用人の元に放り込んだはいいが、この時間になれば宿に空き部屋がある確率は零に近い。かといって甘く腐った香りを放つ女達がいるいかがわしい宿に泊まる気もない。
(街にいるのに野宿か…)
それはあまり嬉しくない、と思いつつ宿に確認してみれば、やはり宿は満室であった。アグドゥバになど付き合わねばよかった、と後悔してももう遅い。荷物といえば肩に担いだ袋一つに収まる程しか持っていない春之助は荷物をくるむようにして持っていた防寒具の分厚いマントを羽織り、オアシスの中心部に生えている木の根本に腰を下ろした。もちろん場所はオアシスを挟んで賭博場と反対側である。喧噪の中で体を休める気は無いのだ。
腰から唯一の武器とも言える刀と脇差を外し、膝の上に置く。布と僅かな貴重品、それに刀の手入れ用具などしか入っていない荷物を腰掛けのようにしてその上に座れば、寝る準備は完成である。
「………」
首の辺りに布を巻き、布を引き上げ目の下までをすっぽりと覆い、少しでも外気に触れる面積を減らす。そのままついと星空を見上げれば、美しい月がぽかりと空に浮かんで大きな木の葉の間から冷たい月光を差し込ませていた。そのうちの一筋が春之助の膝の上に落ち、刀の鞘に刻まれた龍の彫りをくっきりと浮かび上がらせる。
「…お休み」
その龍を、剣を握って出来たたこが潰れて固くなった手のひらでそっと撫でながら呟いた声は、その目つきに反してとても柔らかなものだった。