06 変身 Transformation
ソルの治療を始めて幾日か過ぎた。初対面の時よりは身体のあちこちが軽快に動き、脳裏に語り掛ける呟きもウイットに富み、顔色も格段に良くなった…ような気がする、龍に顔色があれば…の話だが。朝、いつものように患部を見て薬草を塗ったグロリアスが、少しのためらいを見せた後に話を切り出す。
「なぁ…ソル…。ちょっと話があるのだが」
「どうしたの?グロス…」
「お前の傷はこの山の薬草では治らない。もっと強い薬が必要なのだ。前に長老から教わった事がある。東の果ての国に…その薬草があると。そいつを…俺は取りに行く。ソル、お前はここで待っていろ。必ず…必ず帰ってくるから。解ったな?
それはソルにとってあまりにも唐突な話であった。この洞窟を出ていくのはいいが、一人で?この私を置いていくというのか?ダメだ、そんなのは絶対にダメだ。この男を…グロスは自分が護ると、守護神である火炎龍の魂が高らかに宣言したのだから。絶対に一人で行かせる訳にはいかない。
「私もここから出る。グロスが東に行くのであれば、私の翼で…。傷口が開いたら、また治してくれたらいいだろう?グロスが返ってくるのを黙って待ってられない!」
ソルはピシリと尻尾を鋭く地面に打ち付け、大きな翼を広げ力強くはためかせた。辺りには土埃が舞ってしまう。それは寂しさの裏返し。傷の痛みも相当なものであったが、それ以上にそるを苦しめたのは孤独だった。触れ合うどころか言葉を交わすことすらなく、ただ時が流れていくのを呆然と見送る…そんな死んだも同然な自分の前に現れた奇跡。この奇跡を逃したくない。そんな一縷の望みをグロスにぶつける。
「バカたれっ!何度も言わせるなっ!いま無理して動かしたら…その翼、もげるぞっ!二度と空を飛べなくてもいいのかっ!」
グロスの大きな声が洞窟の中で共鳴した。ソルの心配する気持ちも解るし、ありがたいとも思う。また孤独な日々に戻るのが寂しいのも理解できた。だがグロスは医者だ。相手が龍であれ、毒に侵されていく患者を眺めているだけなんて…あり得ない。そんなグロスに一歩も引くことなく、ソルも魂の叫びを響かせる。
「ここで朽ちる事も覚悟した私に、グロスは精一杯の治療をしてくれた。食べ物を分けてくれて、そばで眠ってくれた。だから…、私もグロスを護りたい。グロスに救われた命はグロスのために使いたい。グロスが危険な道をいくなら、この命でグロスを守る!それが守護龍の掟だ!」
ソルが興奮ぎみに尻尾を振る。弾かれた石礫がカラカラと音を立てて洞穴の壁に跳ね返った。クイッと首を天井の穴の方へ向けると、丸く切り取られた空が見え、その空を飛ぶ自分を想像してみる。気持ち良さそうに空を翔ける龍の背には、男が乗っているところを。グロスもそんなソルの姿を慈愛に満ちた瞳で見つめながら、穏やかな声で諭した。
「お前の翼は、まだ動かせん。今までは動いてなかったから毒の回りも遅かったけど…空なんか飛んだら、あっという間に全身に毒が回るんだ。それに…お前のその体じゃ、この洞窟から出る事なんてできないだろ?ソル…よく聞け。医者は全力を尽くして患者の治療をする。でもな、どんな名医でも治せない患者もいるんだ。それは…生きる事を諦めてしまった患者と、医者の言うことを聞かずに無茶をする患者だ。お前には見えていないのか?あの空を舞う自分の姿が。大丈夫だ。俺はきっと…ここに帰ってくる。そして、お前を治してやるから」
男の言い分はもっともな事だと言う事は、理屈では分かる。でも、理屈なんかではない本能の叫びがソルを支配していた。ここまで人間に執着した事はなかったのに、と自分にため息を吐く。どうしても行かせたくない。置いていかれたくない。
いつの間にか、すくそばに来ていた龍の尻尾…その先端。慈しむようなグロスの手がそっと触れ、撫でた。グロスの手が青白く光り始める。何度も何度も、鰭がついた尻尾の先端を撫でているうちに…龍の身体が金色に光り始めた。眩しくて目を開けていられないほどに。
「ソル?…どうした?いったい…何が…」
眩く輝く火炎流の身体。その眩しさに、グロスは思わず目を腕で覆う。その向こう側で、龍の身体が徐々に小さくなる事に気付きもせず。どうしても行かせたくない。置いていかれたくない。その思いがソルの胸の中で強くなるうち、体が熱を帯びている事に気付いた。柔らかな光に包まれ、自分を飲み込む想いの強さに息苦しささえ感じる。置いていかれたくない。孤独な毎日に戻りたくない。そんな想いが溢れ出てしまった頃には、体が縮み始めていた。
「き…君、誰?」
どれだけの間、龍は輝き続けただろう?眩いほどに洞窟の隅々までを照らした光は、やがて徐々に収まり始め…その光が消えると、そこには一人の少女が立っていた。目の前で起きた現実が認識できない。目の前にいた特大の火炎龍が忽然と姿を消し、まるで入れ替わったかのように立ち尽くす一人の少女。よく見れば一糸纏わぬ姿。慌てて纏っていたマントを取り、少女の身に纏わせる。その身体は異様に高い体温が残り、長く赤い髪と赤い瞳が龍の化身であるかのような趣を醸し出していた。
体を焼き尽くすようなエネルギーが駆け抜けていった疲労感に包まれながら、茫然と立ちすくんでいるソル。さっきまで見下ろしていた人間に見下ろされている事に気づく。パフっとマントを羽織らされ、そのマントの重みでよろめいてしまった。へなへなとその場に崩れ落ちるように倒れ込みそうになる。体を支えようと爪に力を込めるが、小さな手が虚しく地を掻き爪が割れて血が滲んだ。じわりとした痛みに慌てて爪を引っ込める。すべすべの柔らかい皮膚、紅い髪。初めての転変に戸惑って、もじもじとつまさきに視線を落とす。背中には鱗の模様の小さな痣がある他を除けば、弱々しそうな少女そのものだった。
「ねぇ、何か魔術を使ったの?」
「ソ…ソル…なのか?」
彼女の問いかけは脳裏に響いたのではない。両方の耳へと、声として伝わってきたのだ。思わず目を丸くして、自分より二回りは小さいかという少女を見つめる。年の頃は…十五・六だろうか。城に残してきた妹と同じくらい…の見た目。白い肌と対照的に映える長い赤い髪。それはあの龍が靡かせていた鬣なのだろうか?膝を折り、それでも覗き込むように少女の顔を見つめながら呟く。
「大丈夫か?いったい…何が起こったんだ?」
「私、人間になってるの?」
舌足らずなソルは不思議そうに問いかけてみるが、グロスも困っているようだ。それはそうだろう。裸の女が突然目の前に現れたのだから。
古からの一族の教えによると、龍は強く念じると姿を変えられると言う。転変を試みた事もあったが、三百有余年生きてきて成功した事はなく…ただの言い伝えだと思っていた。人間になりたい…とは念じはしなかったが、翼をもがれても命を失う事になっても、グロスの側にいたいと願った。その結果が呼んだ奇跡なのだろうか。血の出た指先をパクリと口に入れ、その味を舌にのせてみたが、以前なら舌をとろかした血の味は全く美味だと思えない。
あまりにも想定外の出来事に、グロスもただ目を丸くするばかり。しかし、これは紛れもない現実である。ゆっくりと深呼吸をしつつ、ソルの頭に手を伸ばし赤い髪を優しく撫でた。