05 呼名 Callname
空腹が一段落した。龍はまだ食べたそうにも見えたが…すでにもう切り分ける肉はない。標本にありそうな骨が残っているだけだ。グロスは満腹の腹を愛しそうに両手で擦りながら、再び龍の爪と爪の間に身を任せ小さく息を吐く。雨露を凌げ、暑さ寒さが厳しい訳でもない。一晩くらいなら快適に過ごせそうな空間だが、この龍は果たしてどれくらいここでの歳月を過ごしてきたのだろう?亡くなった長老が最後に姿を見たのは、六十年以上も昔だと言っていたのを覚えている。と言う事は…数十年もの間、ここで孤独と激痛に耐えていたのだろうか。グロリアスには想像がつかなかった。
「なぁ…ソルフレア、お前は…どうしてここにいるんだ?お前は天空を舞う龍ではなかったのか?それに…あんな傷を負っているなんて。俺の聞いた話では…俺の国を古より見守ってきた…伝説の火炎龍だと…」
その問いかけに、龍の答えは返ってこない。遠くから聞こえてくる水のせせらぎ以外は、何の音もしない静かな世界。高い天井にぽっかりと開いた小さな穴の外には、瞬く星がいくつか光って見える。大胆にも自分に寄りかかって休息をとりながらの問いは、ご機嫌だった龍の表情を曇らせた。
「人間は爪も翼も持たぬ。持たぬものは欲する生き物だ、と学んだ」
龍の角を食した者は、不老長寿の身体を得られると言う。龍の爪から剣を作れば、史上最強の妖刀を作り出せると言う。龍の眼を手に入れた者は、世界を制す力をつけると言う。そんな伝説がまことしやかに伝えられ、時には人間達を狂わせた。龍の力を手に入れようとした者、政治的にも利用しようとした人間に狩られ、毒を射られた龍は数知れない。この龍も…そんな人間達に苦しめられたのだろうか。ならば、食い殺したいほどに憎まれていても…仕方ないのかもしれない。
「俺が謝っても、怒りは静まらないかもしれない。だが…これだけは解って欲しいのだ。全ての人間が…お前の敵じゃない。お前を守り神と崇め奉る人間達も多いのだ。その事だけは…解かって欲しい。明日も…食い物、見つけてくるからな。お前は…大人し…く、安静…にし…て…ろ…」
幼い頃、男にとって龍は憧れだった。その姿を見た事はなかったけれど、大空を羽ばたくその雄姿を、祖国を陰ながら守り続けてきたその力を、そんな強さを兼ね備えた王になれたら。それが男…グロリアス王子の願いだった。グロリアスは瞼を閉じ、いつの間にか眠ってしまったようである。無防備に自分にもたれ寝息を立て始めたグロリアスをを慈しむように翼で守ると、龍もまた安心して眠りにつく。
翌朝、光の眩しさで先に目を覚ましたのは龍の方だった。この洞穴に潜むようになって初めての安心した眠りを得た事で、昨日までとは力の入り方が違う事に気付く。この調子なら行けるかもしれない。気持ち良さそうな寝息を邪魔しないよう爪に力を込めて地面を掴むと、簡単に爪が地にめり込んだ。洞穴の壁は切り立っている。道具がなければ人間には到底登る事は出来ないが、命を救ってもらった人間に自分ができる事があるはず。そのためにはまず、ここから無事に出る事だろう。だがここから出たら、この男は龍である自分を拒むだろうか。?思い巡らせるうちに、龍の胸が苦しくなる。自分が人間にここまでの屈辱をうけても自死を選べなかった理由。それはこの男を待っていたのかもしれない。龍は守護者としての本能の覚醒を予感ていた。
「ふわぁぁぁぁぁ…よく寝た。やぁ、ソル。おはよう。さてと…まずは傷口を見せてくれ。そうだ、今日から俺はお前をソルと呼ぶことにする。俺の名はグロリアスだ。グロス…とでも呼んでくれ」
起き抜けの馴れ馴れしい挨拶。しかし火炎龍の表情は穏やかに見えた。ソル?何を生意気な…とは言うものの、親しげな呼び名は気に入ったようだ。グロスは鱗伝いに龍の背に上る。もう手慣れたものだ。ひょいひょいと、あっという間に翼の付け根に。ソルはふんっ、と鼻をならして翼を少し持ち上げる。マントの覆いを除けると龍の傷口は完全に塞がっていた。
「驚いたな…。傷口がこんなにも早く綺麗に…」
鱗をめくっても、どこに施術をしたのか解らないほどに治癒している。ただ、まだ腫れは引いていなかった。まるで「ここが患部だよ」と主張するかのように盛り上がっている。傷口を見せるなど、警戒心が欠片でも有れば出来ない事だろう。ソルは不思議に思いつつも、グロスの言葉には逆らえなかった。大丈夫、とでも言いたげに翼を動かし、尻尾をしならせる。
「どうだ?痛みはないか?…翼、動かせるか?」
「大丈夫。だいぶ楽になったみたい。改めてお礼をするわ。手先が器用なのね。お医者になる前は靴屋さん?革を縫いなれているの?」
ソルははわずかに頭をさげる。食事を分けてもらい傷の治療をしてくれたグロスに、自分を恐れさせようという意識が薄れた事で口調も自然と刺々しさが抜け、龍らしからぬ丸みを帯びていた。見ればその表情も穏やかになったようにも見える。だが痛みが残っているのかもしれない。紫色の膨らみを少し押してみると表情は変わらなかったが、ぴくぴくと小刻みに震えていた。
「傷口は塞がってるけど…腫れが引いていない。もう少し…様子を見よう。それじゃ…食い物を探してくる。ソルは…安静だからな?翼も動かさないように。美味そうなモン見つけてくるから。期待してろ?」
グロスは長剣を背負い歩き出す。表に向かう道は昨日のうちに覚えた。洞窟を抜けると、眩しいほどの太陽の光。ふぅ…と大きく息を吐くと、獲物を探しに意気揚々と歩きだした。
数十年も前のあの日、ソルは追っ手から逃れて天井の穴からこの洞穴に飛び込んだ。幸い水が湧いていた事と、光が差し込む事で命は繋ぐ事ができたが、ここは正に牢獄。何度か脱出を試みても傷の痛みと、麻痺と、何より人間に絶望した心が翼と爪の力を奪った。でも、今なら何でもできそうな気がする。狩りに行ったグロスの目を盗んで壁を登る練習をする事すら楽しい。爪を壁に突き立てて、登り始めると意外なくらい順調に中腹まで行けた。
「安静、安静って。龍に向かって命令するような人間初めてみたわ。でもそろそろ降りないと見つかっちゃうかな…」
グロスがが戻ってくる事を疑いもしない自分に呆れつつ、ソルは岩肌を降りていく。自分の使命はこの男グロスを護る事だと信じて。
一方グロスは日が暮れるまで、山中を駆け回った。洞窟に戻る足取りは昨日以上に危うかったが、それは昨日の猪よりも二回りくらい大きい熊のせいだ。これだけデカければ…龍の腹にも少しは溜まるだろう。それに、今日はお土産もあるのだ。火炎龍もきっと喜んでくれるに違いない。
「どうだ?具合は。今日は…いいものを見つけてきたぞ。腹は減っているだろうが…ちょっと待っててくれよな。この草は薬草だ。腫れを収める抗生作用がある。いま…塗ってやるからな。今日は…食べられそうな果実も拾ってきたぞ。皮を剥く間…これでも食べててくれ」
石で叩き潰し柔らかくした薬草を龍の背中に運ぶ。朝よりも患部が腫れ上がっていた。メスで小さな切り口を入れ、中の膿を絞り出す。紫色の粘液が、鱗を鈍く染めていった。潰して柔らかくした薬草を患部に充て、手ごろな石を重しに。これで少しは良くなるだろう。完全に上からの物言いにソルは不愉快なのかもしれないが、グロスは医者で、ソルは患者だ。患者は医者を信頼し、医者はその期待に応える。それはソル自身も感じている事だろう。それにしても熊を仕留めてくるとは本当に驚いた。ただの医者にしては豪胆すぎるし、職業狩人なのか?医業は副業?色んな推測をしながら、手際よく準備されていく薬、食事を見比べる。朝の頑張りのせいか腫れ上がってしまった傷口をまた切開された時は、正直痛かった。「朝はこんなんじゃなかったのに」グロスがぼやく声が耳に痛いのもある。それでもグロスの差し出してきた食事は今日も非常に美味しかった。肉を炙るのに、少し炎を貸しただけで喜んでもらえるのも嬉しい。龍の炎で熊をローストし、切り分けながらソルの口に放り込み、グロスも自らしゃぶりつく。絶妙な火加減が熊の美味しさを引き出していた。
「ソル…お前、今日…動いただろ」
「……」
「ソル…お前は解っていない。そうやっておとなしくしていないでいると…二度と空を飛べなくなるぞ。傷口が塞がっただけで…毒が抜けた訳じゃないんだからな。俺の言う事に従えないなら、もうお前の治療はしない。治りたいなら…俺がいいと言うまでおとなしくしてろ」
食事が終わった頃、グロスは重々しい口を開く。壁についた爪痕に気づかなかったとしても、医者なら患部を見れば解る。今までには見せた事もない威圧的な表情でソルを睨みつけた。とかく患者は、自分の傷や病が治ったと思いがちである。だが見た目は大丈夫そうでも、楽観視できないケースがほとんどなのだ。そこは医師として、患者に言い含めなければならないところである。
「いいか?ソル…。俺は人間の医者だ。ここまでは何とかできたけど…お前は龍だ。どうしても手探りの治療になる。いつどうなるか…解らんのだぞ」
「ごめんなさい…グロス…」
「なぁ…ソル。俺には見えるんだ。あの穴の向こうの…どこまでも続く大空を飛ぶお前の姿が。俺が…必ずお前をあの空に帰してやる。だからお前は俺の言う事をちゃんと聞いて…自分の体を治す事だけを考えろ。いいな?」
怒り…と言うよりは、むしろ悲しげな。思いが伝わらないのは悲しい。それがたとえ、自分を思っての事だったとしても。素直に謝ったところを見れば、ソルはソルなりに理解しているのだろう。寄り添うように近寄ってきた龍の鼻の頭を、ポンポンと軽く叩きゆっくりと撫でる。その手は青白く、優しく光っていた。たとえその手が医療魔法を使えなかったとしても、グロスの治療と優しさはきっとソルの心と体の傷をいやしていくだろう。
ソルは翼をクイと持ち上げ傷口に頭を向ける。もうそんなに痛くないし、手足も翼も尻尾の先までちゃんと意のままに動くのに。でも、グロスの声は誠実で心底自分を心配している事も解った。
「解ったよ…。生意気なおチビさんが良いと言うまで大人しくしてますよーだ」
ふてくされたようで嬉しそうなソルは、照れ隠しに果物を丸飲みにして少しむせた。この男…グロスに出会ってから、なんと格好の悪い龍に成り下がった事か。でも、グロスが見上げた空。グロスがあの空を飛ぶ私が見えるというなら、その通りなのだろう。「空に帰してやる」と言われた事も可笑しくてしかたがない。ちっちゃな人間の癖に、この龍を救ってまた空に放つなんて。我が龍の一族は、人間に無条件に恐れられるものだと思っていたのに。男の手から発せられる光を不思議そうに見て、寄り目になってしまった。フルフルと頭を振って瞬きをする。
「傷が癒えたら…今度は私があなたを護ってあげるからね、おチビさん」
「チビ…か。まぁ、お前から見ればチビなのだろうがな。これでも…人間の中では、デカい方なんだぜ?」
くすくす笑いながらグロスは頷き、今夜も爪と爪の間に身を預け眠った。その気になれば、ソルはグロスを一飲みにできる。だが、きっとソルはそうはしないだろう。もちろんまだ治療中という事もあるが、それだけじゃない…心の繋がりのようなもの。そんなシンパシーを感じているようだった。
次の日も、その次の日も、そのまた次の日もグロスはソルのために獲物を狩り、木の実を集め、薬草を患部に当てる。ソルの患部は相変わらずの腫れを伴い、悪くなる事もなかったがそれ以上の快方に向かう事もなく。
「どうだ?今日は。痛みはあるか?少しは…動かせるか?」
「大丈夫、だと思う。ほら、こんな事もできる」
もう何日も食べ物をもらい、治療をしてもらって、ソルはすっかりグロスが自分の側に居る事に慣れてしまった。毒に侵された傷口が完治しないのは、なんとなく理由はわかる。でも言ってはいけない気がして、力強く翼をはためかせ問いかけに答えた。尻尾の先で男の背から長剣を抜き、男の目の前に『ほれほれ』と言わんばかりに吊るしてお道化て見せたりもして。