03 治療 Treatment
「国境なき医師団…という言葉を知っているか?医者というものは…目の前に患者がいれば全身全霊を込めて対処するもの。たとえそれが誰であっても、相手が人間だろうが龍だろうが、関係ない。俺に医術を教えてくれた長老は…口癖のように言っていたんだ」
グロリアスは龍の翼にしがみついて登り、丸太の矢にゆっくりと歩み寄る。その患部をじっくりと見つめた。血…なのだろうか?矢の周りを瘡蓋のように覆う緑色の塊。少々切開しないと抜く事はできないだろう。軽く触れると、龍は顔を顰めた…かのように見えた。
「こいつを抜くには、翼の付け根の鱗を少し切らなければならん。痛みがあるかもしれんが我慢できるだろ?なんせお前は伝説の火炎龍だからな。大丈夫だ、信用してくれていいから。俺に…やらせてくれ」
グロリアスの拍子抜けするほどの殺気のなさに、龍は自らの意思とは反対に本能が安心してしまう。今まで緊張を強いてきた精神が緩んで、抗いがたい眠気すらに襲われてしまった。医者、なのか?仁術を体現するような言葉と雰囲気に呑まれてながらも、警戒心にも似た強がりをつい口走った。
「我がお前を傷つけないと思っているようだが、おかしな真似をしたら許さない。その腕をへし折ってやる。…でも、あまり…。痛くはするな。もはや我が気力も限界に近い。我はお前を信頼するのだ。その信頼に見合う対応をしてもらいたいものだ」
最後の独り言は、今までの重々しい雰囲気とは少し違う言葉がグロリアスの耳に響くだろう。龍は翼の力を抜いて、傷口を見易いように態勢を変えてみようと試みる。その動きを見れば、かなりの痛みを伴っているようだ。小刻みに痙攣を起こしているようにも見える。グロリアスは長老について医術を学んでいたが、龍に施術するなど、初めての事だ。体の構造は人間とは異なるだろうが…外科的な手術は変わらないだろう。人間の医者が人間以外の生き物に医療を施す例など、いくらでもあるのだから。
「一応…痛み止めは打つ。だが、これは人間の薬だ。龍に効くかどうかは解らんが…やらないよりは良いだろう。痛くても…我慢してくれ。暴れられたらひとたまりもない」
警戒心は解けていないようだが、どうやら任せてくれるようだ。マントの内側にはある程度の治療が施せる道具や薬が用意されている。ありったけの麻酔薬を、鱗を捲りながら数か所に注入していく。矢を抜くための鋭い痛みに、龍は残る力の全て…とは言っても、もうほとんど動けないから爪をピクピクさせるくらいではあるが。暴れる。悲痛な叫びをあげた。本来ならその叫びと同時に現れるはずの炎も最早あがらない。喘ぎながらもわずかにましになった痛みに、男が本気で自分を治療してくれている事を悟る。麻酔薬が使われ、手際よく施される治療はなかなか心地よいものだった。薬が効いたのがフワフワと夢見心地ですらあるように感じる。魔術の中には相手を夢見心地にさせて力を奪うものもあるくらいだから、油断はしない方がいいだろう。そう思ってはいても、人間の言葉も子守唄のよう。必死で孤独と戦い、敵の気配に神経をすり減らしていた後の安心感は、麻薬以上に警戒心を溶かしていった。龍は墜落するように眠りに落ちていく。人間に打てば致死量に近い麻酔薬も、却って丁度良かったのかも。高くもたげていた首を垂れ、振り返り傷口を見守るかのような。
「どうかね?少しは痛みが和らいだか?剣で触れているのが…解るか?メスなんかじゃ…埒が明かない。こいつを使わせてもらうぜ?」
グロリアスが取り出したのは背中の鞘から抜いた長剣。ごつごつと固まった瘡蓋を丁寧に剥がしていく。やがて患部が露見すると、溜まった膿を絞り出し…矢の先端を抜くために傷口を切開した。龍の巨体が小さく震えるが、問いかけは聞こえてこない。
「ちょっと痛むかもしれんが…我慢してくれ」
肩幅よりもやや広く両足を構え、自身の腕ほどもある丸太を抱え込むように掴み…引き抜く。全身に血管を浮き上がらせながら、渾身の力を込めて。最初はびくともしなかった丸太が徐々に抜け始め、相当な痛みに苛まれた龍がわずかに身をよじった瞬間、その勢いに助けられたかのように丸太が抜けた。緑色の体液がじわじわと滲み出す。あとは縫合し消毒、抗生薬を塗りたいところだが… とてもこの傷口に間に合うほどの量はなかった。 針と糸も…人間用の物しかない。 それでも、やらないよりはやった方が良いだろう。
「翼を…空に向かって伸ばせるか? できれば、そのまま動かないように…首か尻尾で押さえられると良いのだが」
龍は無言で従う。翼を立て、そのまま尻尾で抑えると… 切開した傷口が目立たなくなる感じでぴったりと閉じた。 そこを五十針ほど縫い付ける。まだ麻酔が効いているのか、 龍が暴れるような事はなかった。とりあえずここまでしておけば今よりも悪化することはないだろう。
「ちょっときついだろうが、そのままじっとしているんだ。 俺は…消毒用の水を汲んでくる」
洞穴の中では水がせせらぐ音が聞こえた。水脈が近くにあるのだろう。 グロリアスはゆっくりと鱗伝いに龍の体から降りると、すぐに戻ると言い残し水音を頼りに歩き出す。龍は意識の遠くで自分を蝕んだ矢が抜かれるのを感じ、同時に急速に体が治癒に向かう事も確信できた。龍は本来ならその高い生命力と治癒力を誇るもの。こんなに弱ってしまったのは、龍を研究し編み出された毒の効果であろう。この翼を動かしたのはいつぶりだろうか。男が水を探しに行った後、まだウトウトとはしながらも、体のあちこちに意識を向けてみる。傷口から体液が流れてはいるが、そのうち止まるだろう。厳めしい見た目によらず、男の優しい手つきと優しい言葉にすっかり安心してしまったようだ。ちっぽけな人間に素直に従っている自分が不思議でもあるが、不愉快ではない。現に傷口の激痛は止んで、穏やかな微睡みが支配している事を考えても、あの男は今まで対峙してきた者とは全く違うモノなのだろう。男が自分のために水を汲みに離れた事すら、少し寂しく感じながら夢うつつをさ迷い、寝言のように呟いた。
「喰わないでおいてやるぞ、男よ」
マントの内側にしまえる小瓶なら、水を汲んでくる量にも限りがある。バケツでもあればいいのだが…滑落して偶然に舞い込んだ洞穴に、そうそう都合良くある訳がない。グロリアスは龍と水脈の間を何度か往復して、患部を冷却・消毒。ありったけの抗生薬を塗りたくり、包帯を…巻きたいところだが、龍に巻ける包帯なんかある訳がない。羽織っていたマントを外し、患部にかける。
「薬が…効いてくれるといいな。長老…どうせくたばるなら、魔法医術も教えてからにしろってんだよなぁ」
マントの上からそっと撫でたその右手は、青白く光りながらマントの上をゆっくりと左右に揺れた。魔法医術…それを体得していれば、もっとちゃんとした治療ができるのに。頑固者で偏屈な男だが、医術と魔法にかけては秀逸だった長老。教わりたい事はたくさんあったが、さすがの長老も寿命には勝てなかったらしい。それが人間に生まれた時からの宿命だったのだろうけれど。
「しばらくは…安静だからな」
鱗伝いに背中から降りてくる。尻尾で翼を抑えながらも龍は瞼を閉じ、じっと動かない。頭の裏にも、龍の呟きは聞こえてこなかった。龍の右手の指と指の間が少し開いていて、寄りかかるのに丁度良さそうだ。長剣を下ろし身を預けると、グロリアスは瞼を閉じる。吹きかかる龍の鼻息が、ベッドの中にいるかのようにほんわかと温かい。
元々龍は水と関係が深いため、水から力をもらい回復にも充てられる。麻酔の効果もあるのか、無防備にも本格的に眠ってしまいそうになる。自分の足元で無防備に眠る人間を興味深げに見つめ、風が当たらないように、その大きな翼で守るように覆った。
「こんなに小さいくせに、我を救ってくれたのか?我はこの人間の前で無防備に眠ったのか?」
独り言を呟きながら、男の寝息に耳をすませた。力は入る。翼も動かせる。一つ一つ体に意識を巡らせ、祠の天井に小さく見える光に目をやる。今までは見上げるだけだった光。あの光に向けて飛び立つ事はしばらく前に諦めていたが、この人間のお陰でもう一度空をへと羽ばたく事が出来そうだ。