19 嫉妬 Jealousy
ふて腐れているのか無言のソルは、グロスに示されたリンゴを睨み付けると勢い良く齧る。そこへ再びノックの音。はたして洗濯係りであった。エプロンの下に酒の瓶を忍ばせ、チラリと見せつつ一緒に飲もうと誘いに来たらしい。
「剣を研いでいるの?威勢のいいお兄さん。この長雨なら、今夜あたしの部屋に遊びに来ない?妹は早く寝かしつけて、ね?今夜も冷え込むわよ。お姉さんが暖めてあげる」
形のいい唇をグロスの耳に寄せて囁きかける。はらり、とハンカチを一枚落とすと、深い谷間を見せつけるように屈んで拾った。グロスは洗濯係の過剰なアピールに苦笑いをしつつ、視線を剣に戻す。ソルをチラ見すれば、リンゴを頬張るスピードが更に上がり…残りがあと二つ。
「せっかくだが…約束はできないな。もう少し雨が細くなったら…出発するつもりだ。連泊を決めた訳じゃないんでね」
ハンカチを落としたのは、たぶんわざとだろう。そんな姑息な手段を使わなくても、胸の大きさは充分認識できた。女としては魅力的なタイプではあるが、年上には興味が沸かない。むしろいまグロスの興味を引いているのは…そんなやり取りを苦々しく見守っている膨れっ面だ。
「ソル…ここが終わったら、ちょっと表に出るぞ。傘…借りてきてくれ」
「恥ずかしがらなくてもいいのよ?待ってるからね。お兄さん、あたしのタイプだから特別サービスしてあ・げ・る・♪」
ぺろり…と唇を舌でなぞると、洗濯係は絡み付くような視線を投げ掛けて扉から離れた。
「傘?解った。階下に行って来る。洗濯物の人来ても…お部屋に入れないでね?あの香水…嫌いだから」
八つ当たりするようにリンゴを齧り、髪の毛を結い上げた方が良いか、と思案しながら毛先を弄っていた。仏頂面のまま立ち上がると、椅子をテーブルに叩きつけるようにしまい、ドアも派手な音を立てて閉める。
「なんだ?あいつ…」
びっくりするような音を立てながら閉められた扉。しばらくの間ポカンと見つめていたが、やがて剣に視線を戻す。そしてゆっくりと研ぎを再開した。窓には相変わらず大きな雨粒が当たり続けている。
「おいおい…なんで一本しか借りてこなかったんだよ…。それに…ちょっと小さいだろ。大丈夫か?濡れないか?」
どしゃ降りの雨のなかを小さな一本の傘では、どうしても濡れてしまう。もっとも、雨を多くかぶってくれたのはグロスだったけど。蜘蛛を退治した町でいろいろ差し入れてもらったが、まだまだ欲しいものがあった。それは防具。龍の姿なら向かうところ敵なしだろうが、今はどう見てもか弱い少女だ。いつどこで必要になるか解らない。
「ここ…入ってみるか。品揃え、良さそうだ」
装備屋の中は武器から防具から、魔法のアイテムまで…なかなかのもの。とりあえず…盾くらいは持っていた方が良いかもしれない。雨のせいか、装備屋は空いていて客は二人のみ。店主も自慢の装備をあれこれ親切に見せてくれている。しかしソルは武器やら防具やらには関心を示さず、店主に難題をぶつけた。
「なかなか珍しい商品ですよ。龍の炎で鍛えた鋼で出来ております」
「私は髪飾りが欲しい。あと香水。髪飾り形の武器ならつける」
髪飾り型の武器って…どんな威力があるんだ?ミサイルが発射されるとか?想像もつかない。MPが倍増される…とかありそうだけど、そもそもソルはまだ自由に魔法をコントロールできない。ここは…とりあえず防具だ。
「このローブはどうだ?フードもついているし、肩にはパッドが入ってるし…ポケットもたくさん入りそうだぞ?」
ソルは相変わらずグロスからせしめたマントを羽織っているが…小柄な体格ゆえ、引きずり加減。このローブなら丁度良いサイズだと思うのだが。
「おっっ…この盾とか、良いんじゃないか?頑丈そうだし、その割に軽い。どうだ?ちょっと持ってみろ」
「イヤ!私は髪飾りと、香水が欲しいの!」
攻撃を防ぐための物に可愛さは求められない。武骨な見た目の盾には興味を示さず、襟ぐりを大きく広げて見せて、自分のデコルテラインを気にするように店内の鏡を見つめる。美しくなりたい。グロスが洗濯係を見て、お愛想での笑顔でも向けたのが悔しかった。困らせている事は解っていても、ムシャクシャは抑えられず、矛先は店主に向く
「リボンでもいい。む…胸のこうなったドレスとか…なんで綺麗な髪飾り置いてないのよ。気の利かないお店ね。品揃えが悪すぎる!」
「お前な…」
グロスは苦笑いが止まらない。店主に噛みついても、どうになるものでなし。その手のものを買いたいのなら、この店よりも衣料品店の方が品揃えは良いかもしれない。他の店を探すとしよう。たじたじの店主に見送られながら、再び雨の降る通りへと出た。
「店はここ一軒じゃないしな。出るぞ」
店主は当てが外れたとがっかりしていた。まあ、それはそれで仕方ない。再び二人で傘に収まり、目抜き通りを歩いた三軒先に薬屋があった。ここなら香水もあるかもしれない。
「ソル…次はここだ」
麻酔・抗生剤・痛み止め…買いたいものは山ほどある。金貨にもまだ余裕があるし…結構買い込んだ。
「どうだ?何か気に入ったの…あったか?」
店の一角の香水売り場。フンフンと鼻を鳴らして、香りを試してはむせる事を繰り返す。正直香水などよく解らないけど、あのオンナがつけていたし、あれをつけると大人っぽくなれるのなら…。プシュッと霧状の香水が吹き出され、だんだん頭が痛くなってきた。
顔をしかめつつ香水の棚の奥を見ると、ルビーのペンダントが目についた。ねだったら優しいグロリアスは買ってくれるだろうが、そうではなくて。与えられるのではなくて、ビックリさせたい。
「……」
グロリアスが店主と話をしている隙に、ソルはルビーをポケットに入れた。もちろんそれがいけない事だとは解っていたけれど、あの洗濯女の唇と胸の谷間が憎たらしい。グロスを誘惑するなんて。もし、このルビーがソルの胸元を飾ったら、グロスはきっと驚くだろう。そして褒めてくれるに違いない。そうすれば…あの洗濯女なんて…。
「おーい…ソル…、なんかいいの…見つかったか?」
驚いたようにピクリと体を震わせ、まるでコマ送り映像のようなぎくしゃくした動き、引きつった笑顔。不思議そうな顔をソルに見せながら、鼻をヒクヒクと震わせて、
「ソルには…こういうの、まだ要らないだろ。冒険や戦いには必要ないし。それに…ソルには…風呂上がりの、シャボンの匂いが一番似合ってるぞ…」
ワンピースのポケットが不自然に盛り上がっている事なんて、気づくはずもない。甘い匂いのするシャボンを二つ、追加でレジを通した。
「服屋も見ていくか?欲しい服…あるんだろ?」
やってしまった罪悪感。上の空でグロスについていく。洋品店の前を通りすぎてしまいそうになり、グロスに呼び止められて我に帰った。
「服?あの…やっぱり要らないよ。宿へ戻ろう?」
「そうか。じゃあ…飯を食って帰ろう。宿じゃ飯は食えないからな」
試着したらバレちゃうかもしれない、と焦る。胸がドキドキして苦しい。盗らなければ良かった。苦悶の表情で溜息を吐きながら歩く。
素泊まりの宿は風呂と寝床しか用意されていない。不便なものだ。その分安価で助かるは助かるが、ソルとグロリアスの食欲はそんな節約を一食でフイにする。
「しっかり食べておけ。さっきより雨が細くなったし、夜には止むかもしれん。そしたら…出発するからな」
食事の最中も、ソルはやたらそわそわしていた。その理由がなんだかは解らないが、問いかけても「何でもないよ」しか返ってこない。注文した料理もほとんどグロスが平らげ、店を後にする。
「いったいどうしたんだ?お前が食欲ないなんて…おかしいにもほどがある。ラム酒だって、全然飲まなかったし」
ソルは食事も喉を通らなかった。味もわからなくて、何度もグロリアスに「具合でも悪いのか?」と聞かれたが、上の空で答えたような気がする。小さなペンダントが重い。ポケットの中に手を入れて、実は夢だったりしてと思ってみても、やっぱりペンダントはある訳で。どうしたいのかすら分からず、ポケットの中でペンダントを弄る。
宿に戻りソルに背中を向けたまま、窓の外を眺めながら呟いた。雨はだいぶ細くなっていたが、まだ雨具なしでは濡れてしまう。もうしばらく待てばやむのだろうか。
「あのね、グロス。髪の毛を下ろしてるのと結うのと、どっちが好き?」
「ソルは、下ろしている方が良い感じだな。でも馬に乗ってる時とか、この先戦ったりする事になれば…束ねている方がいいかもしれない。俺は…ソルのサラサラの髪、好きだぞ」
最近よく洗っているせいか、ソルの赤く長い髪に艶が出てきたような気がする。昨夜抱きしめながら眠った時に、何度も何度も手櫛を通した。指通りのいい髪は、触れている方も心地よくて。
「で…ソル?さっきから何ソワソワしてるんだ?ポケットが…どうかしたのか?」
「ソワソワなんかしてないよ。あのね…あのね…?」
ポケットのペンダントを握りしめ、意を決するとその細いチェーンを首から下げた。お願い、誉めて。祈りにも似たような思いを抱えながら、言葉を発した。
「似合う?」
胸元でキラキラと光る小さな石は、ソルフレアの瞳と同じ色。押し潰されそうな罪悪感と、ほんと少しの幸福感と期待と。まともに主と視線を合わせられず、俯きながらグロスの反応を待つ。無言の部屋には雨の音だけが響いていた。
「似合う?…って…それ、どうしたんだ?ソル…そんなの持ってなかっただろ」
蜘蛛を退治した村でも、そんな物は貰っていなかったはず。ならば、最初から?いや、そんなはずはない。洞窟を出た時、ソルは全裸にマントを羽織っていただけだったのだから。
「正直に言え。それ…どうしたんだ?」
グロスの声が、低く唸るような。まるで地獄の奥底から響いてくるように。たぶん、グロスの想像は外れていない。しかし、そんな事実は信じたくなかった。俯いたまま、顔を上げようとしないソル。それがグロリアスの想像を裏付けたとしか思えなくて。
「どうした?ソル…俺の目を…見れないのか?」
グロスが怒っている、と言う事は良く解った。怒った主の視線など受け止めきれるものではなく、ただ爪先を見つめる。
「似合うって…言ってよ…グロス…」
拗ねたように呟いたら、グロスのまとう空気の温度が下がったような。嫌われたか…。この主に見捨てられるなんて耐えられない。
「薬屋さんでね?あの…その…」
視線に射殺されるような気分だった。美しくなりたかっただけなのに。グロスに振り向いてほしかっただけなのに。グロスによそ見して欲しくなかった。自分だけを見ていて欲しかった。ただ…それだけだったのに。
「バカ野郎っっ!」
グロリアスの大きな手がソルの頬を叩く。悲鳴を上げる間もなくソルの身体は吹き飛ばされ、壁に叩きつけられ…そのままベッドの上へと崩れ落ちた。
「俺はっ!そんなもんに金を払ってねーぞっ!盗んだんだなっ!なんでそんな事をするっっ!?」
胸座を掴み、吊し上げる。ソルを睨み付けるグロスの表情は、おそらく鬼のようになっていただろう。鬼と龍とどちらが強いか…なんてのはこの際問題じゃない。火炎龍であるはずのソルが、すっかり縮み上がってしまった事が重要だ。
「他人の物を盗むなんて、絶対やっちゃいけない事だ。お前は…あのシスターのバーさんと同じ事をしたんだぞ。解ってるのかっ!今すぐっ!今すぐ返しに行くぞっっ!」
外はすでに薄暗くなり始めていた。店はまだ開いているだろうか?いや、そんな事は関係ない。何が何でも返して謝らないと。ソルの手を掴んで強引に引っ張り、グロスは傘も差さずに再び外へと飛び出した。