16 奪還 Regain
澄み切った青空が広がる晴天。グロスはソルと二人で甲板掃除。そんなに気を遣わなくても…と苦笑いの航海士をよそにブラシでゴシゴシ磨き、ざっと水を流せば…デッキはあっという間に綺麗になった。ミカンの樹が植えてあるプランターにジョーロで水を注ぐ。美味しそうな実に伸びるソルの手を直前でつかんで、ダメだぞ…と首を横に振って見せグロスは苦笑い。航海士が一つ実をもいでソルに渡してくれると、それは甘くて瑞々しい最高のミカンだった。
「本当に…ありがとうございました。このご恩は忘れませんっ。どうか皆さんも、良い航海を!」
ソルの頭に手を添え、一緒に深々と頭を下げた。気にすんな…と高笑いの船長。いつか必ず…と再会を願って、遠ざかる船影に手を振る。冒険には出会いと別れがつきものだ。海賊らしくない陽気で気のいい彼らに、またいつかどこかで、会えるかもしれないとグロスは思う。ソルもちょっと寂しそうな目をしながら、船が見えなくなるまで手を振っていた。
「さぁ…そろそろあの船が着くぞ。馬…取り戻さないとな。」
航海士の経験と勘が奇跡を起こし、元々乗っていた客船よりも早く港に着く事ができた。馬はどうしても取り戻したい。まだまだ先は長いのだ。傭兵部隊に見つからなければいいのだが。港からは少し離れた海岸に上陸した二人は、新しい相棒となった馬を取り戻すために港へと向かう。
「そうだね、馬。あの馬が賢い子なら、私が呼べば来ると思うの。船がついて、荷を下ろし始めたら呼んでみるよ」
ソルは動物と念でコミュニケーションが取れる。それほど離れた距離でなければ、誘き寄せる事は難しくないはずだ。グロスを驚かせたソルの特技は、まだまだ役に立ちそうである。
客船が港に入り、わらわらと乗客が降りてくる。そして降ろされる荷物。その中にあの馬はいた。よくよく見渡せば、まだ傭兵部隊がうろうろしている。まったく、しつこい連中だ。
「ソル…馬、あそこにいるな。呼べるか?」
ソルが馬の方をじっと見つめていた。馬もそれは感じたようで、明らかにこちらを意識している。が、手綱を引かれていれば馬に自由などままならない。
「Pieeeeeeeeeee!」
グロスが指笛を高らかに鳴らす。馬が両足を上げ嘶いた。ソルは指笛に反応した馬に向かって「こっちに来なさい」と必死で呼び掛ける。馬は手綱を振り切り駆け出して、一目散にこちらへ向かってきた。
おっしっ!ソルっ!乗れっっ!!」
馬の背に収まると、ソルはグロリアスの服をこれでもかと必死で握りしめる。二人が跨るのを待ちきれなかったように、馬は駆け出した。東へ、東へ。時折グロスに「手綱が取りにくい」と嗜められて、手の力を緩めるものの、自然に体が強ばってしまう。乗馬はまだ苦手のようだ。陽が西に傾いてもなお、馬は夕日の中を駆け抜けた。
「なぁ…ソル、こいつに名前を付けてやれ。いつまでも『馬』じゃ可哀想だしな」
「名前…ねぇ。馬。ウマー。ん~…」
ポチ?タマ?ジョン?カレン?いろいろ思いを巡らすが、どれもいまいち。揺れる馬上、思考も定まらず。なんとなくグロリアスを見上げた。夕日に照らされるグロスは、龍にとって希望の象徴だ。そう希望。
「エスペランサ。そう呼びたい。うん、エスペランサにする!」
「エスペランサ…か、いい名前だな。ちょっと長いけど」
希望を意味する言葉。ある国ではその名前を冠したブーツのメーカーがあるという。旅の友にはうってつけの名前だ。
港町を抜け、街道をひた走る。やがて街道は山を登り始めるが、その麓の町で宿を探した。が、それらしきものは一向に見当たらない。
「ソル…もしかしたら、今夜は野宿になるかもしれんぞ」
「私は野宿でも大丈夫だよ。龍を襲うのって、人間くらいだったし」
二人とも野宿を嫌っているわけではないが、できればちゃんとした宿に身を寄せたかった。ソルの背中も気になるし、疲れの回復具合も桁違いなのだ。しかし、町というにはあまりにも寂れている雰囲気。そんなに遅い時間でもないのに、人通りが全くない。不思議そうな顔でソルと見合わせながら、宿を探した。
なんとなく怪しい雰囲気の町の物陰で眠るくらいなら、森で眠る方が怖くない。そう思いながら、またグロスに掴まる手に力がこもる。
「あそこ…灯りが点いてるよ?」
一軒、明々と光を漏らしている建物を見つける。宿ではなさそうだが、暗い雰囲気の町の中にあっては目立つ建物。近寄ってみれば凝った彫刻が施された柱。神殿…いや教会だろうか?ソルはエスペランサを表の木に繋ぎ、「待っててね」と念を送る。エスペランサからは「ここ何か変だぞ。気を付けろ」と念が返ってきた。
異様な雰囲気の建物に恐る恐る近付く。派手な装飾がされている割にはそれほど大きくない建物は、どうやら協会のようだ。中から女性の声が聞こえてくる。
「誰ですかっ!そこにいるのはっっ!!」
そっと開けた重厚な扉から中を覗けば、それを一喝する凛とした声。薄暗い空間の中の蝋燭の光に照らされて浮かび上がったのは一人の老女。どうやら修道女のようだ。こういう時いつも交渉役をやってくれるのはグロスで、ソルはそのグロスの服の端をにぎってオロオロするしかない。それにしても雰囲気が暗い。それにこのお婆さん、ちょっと怖い感じが。老婆の視線から逃れるように、グロリアスの後ろに隠れた。
「すみません。旅の者なのですが…宿を探しているうちに、こちらに辿り着きまして」
恐る恐る中に入る。グロリアスについて中に入ってきたソルを見て、老女はぎょっと目を見開く。しかし続く言葉はこちらが驚くほどに穏やかで、
「それはそれは…さぞお困りでしょう。どうぞ中へ」
ミサでも行っていたのだろうか?だが列席者はみな一様に俯き、明らかにおかしな雰囲気。誘われるままに最前列の空席に並んで腰を下ろすが、あまりにも重くよどんだ空気に耐え切れず、隣に座っていた男に問いかけた。
「あの…どうかされたのですか?何か困り事でも?」
「天にまします我らが神よ、罪深き我らを救い給え」
老女の祈りが、礼拝堂に響き渡る。明り取りにもなるステンドグラス。そしてその前に据えられた特大の十字架。その時になって気付き、思わず声を上げそうになった。白い大きな十字架に、一人の女がくくられていたからだ。ソルもその異変に気付いたようである。緊張の息遣いが伝わってきた。
「これは…いったい…」
「今夜は魔物に生贄を捧げる儀式が行われる夜なのです」
隣に座っていた男が呟くように教えてくれた。いつの頃からかこの町に現れるようになった魔物は、農作物を荒らし、町人の命を奪い、甚大な被害をもたらすようになったと言う。人々は恐れ、神と崇め、貢物によって許しを請うようになったらしい。祭壇の周りには多くの食料が並び、中央の十字架には生贄となる女。年の頃は二十歳を過ぎた頃だろうか。両手両足をくくられ、十字架に磔になったまま目を閉じ項垂れている。
ひそひそ、と声が聞こえた後背後で男達が動く気配。殺気?ソルは耳を澄ました。不穏な空気にグロリアスの手を握りしめる。
「魔物?どんなのがでるの?」
龍の時ならそれほど怖い相手には会った事がなかった。ただ、今は人間になっているし、主の護衛は務まっていないと感じてる。グロスを守って逃げ出せるか…。思案顔でグロスを見上げると、グロスも何かを考えているのか難しい顔をしている)
「今夜この町は人払いされる。魔物に襲われたくなくば、貴方達も町の外へ」
ミサが終了し、人々は教会を出ていく。最後に残ったのは修道服を着たあの老女。そして、磔になっている女の両親と思しき夫婦。磔にされてじっと動かない女は眠らされているのだろうか?その両親と思しき二人は、涙を流しながら娘の姿を見つめている。
「どんな魔物が来るのかは知らんが…我らが退治して差し上げようか?」
古くからの因習かもしれないが、そんな理不尽がまかり通るなんて。そんな想いからの一言。老女も夫婦も目を丸くして驚き、お願いしますと涙しながら頭を下げる夫婦と、それを苦々しく見ている老女。なんとも胡散臭い。ソルに視線を投げると察したようで、ニヤッと笑みを浮かべながら小さく頷いた。
「私が…生け贄になります。私は怪我を負い、もう長くはないでしょう。この教会に導かれたのも神様の思し召しと存じます。どうぞ身代わりに。マスター、ソルめの最期をお見守りくださいませ。それが私の最期の願いでございます」
「今夜、ここに泊めてもらう。よろしいな?シスター」
あの親子をここから逃して、グロスが魔物を仕留めると言うのなら、ソルはは喜んで囮になると言い出す。多少棒読み感はあったが、娘を殺されようとしていた夫婦はもはや号泣。グロスは笑いを堪えながら難しい表情を作っていた。放たれた娘を抱えて境界を出ていく両親と、それを苦々しく見つめている修道女。その修道女がソルを十字架に括り付けると表へと姿を消した。