10 入浴 Bathtime
「私がね、マスターの事を守るのよ」
グロスがチェックインをしている間、ソルはいい気分で宿主相手に胸を張る。宿主はサラサラとサインをする大柄な男と少女を見比べて首を傾げつつ、曖昧な笑顔を向けてくれた。通された部屋はあまり広くはないがきちんと掃除がしてあり、寝具も洗濯したてのいい香りがした。
「こんなにいいお部屋に泊まって、お金は大丈夫?グロスだけはここで寝て、私は外でも良かったのに。龍を襲う間抜けな動物って人間くらいだから、森に入れば寝られるよ」
とは言いつつ、ふかふかのベッドは気持ち良さそうだし。グロスと離れて眠るのは不安で仕方がないソルだが、それは顔に出さない…内緒の話。グロスにとっても、もちろん暖かそうなベッドは魅力的だったが…それよりも気になっていたのは風呂だった。
長い間洞窟の中から動けなかったソルは、少女に姿を変えてもどこか薄ら汚れていて。おまけに昨日今日、山道をずっと歩きっぱなしだった。さぞかし汗もかいた事だろう。それに綺麗に塞がっているとは言え、傷の具合も気になる。化膿が進んでいるようであれば、膿を絞り出してやらなくてはいけない。背中の長剣を下ろしながら呟く。よくよく見れば、グロリアス自身も…埃塗れの汗塗れ。だが、今夜はそんな汚れも疲れも、洗い流せそうだ。
「ソル…風呂に入って来い。その方が…疲れも飛んで、気持ちよく寝られるぞ」
「…風呂?」
首をかしげたソルはキョロキョロと部屋を見渡す。龍だった頃は、湖に豪快にダイブして体を清めていた。もっともそれは、あの洞窟に飛び込む前の話。そろそろ水浴びがしたくなってきた頃ではあるし、長い髪も埃だらけで気持ちのいいものではない。
「風呂って…何?風呂に入る…って…どこに入る事?でも、疲れが取れるものなら、先にグロスが『風呂』すればいいよ。沢山歩いたし、アームレスリングもしたし、猪を背負ってたし。疲れてるのはグロスでしょ、人間のおチビさん。龍は強いから大丈夫。グロスの後で、『風呂』食べる事にするから。」
「風呂は食べ物じゃないよ…」
無知を恥じてしょんぼりしながら問いかけたソルに、グロスはガハハハハっ!っと高笑い。ソルの肩をバンバンと叩いた。大きなグロスにばんばん叩かれればちょっと痛い。すごーく手加減している事はわかるけれど。人間の体って、なんて無防備なんだろうと改めて思う。体を守る硬い鱗もない。指先の爪はちょっと引っ掻けただけで割れてしまう軟弱なものだし。拗ねた表情のソルを尻目に、グロスはバスタブにお湯を張り始める。上層階の部屋には露天風呂がついていたらしいが…空いている部屋がここだけだと言われれば、それは仕方のない事。それでもバスタブは結構広く、ガタイの大きいグロリアスが足を延ばしてもなお余りあ大きさであった。
「龍だって…水浴びくらいはするだろ?人間は風呂に入るんだ。体を綺麗にして、疲れを取って、ゆっくり寝る。そうすれば、また明日…頑張れるからな」
「もう…。そんなに笑わなくてもいいじゃない…」
怒ってはいないけれど、体裁を取り繕うために膨れ面を見せるソル。やがてバスタブに湯が溜まると、もう一度「先に入れよ」とソルに言った。それでも煮え切らずにぐずぐずしているのに痺れを切らし、冗談交じりに問いかける。
「ほら、もじもじしてないで入れ。なんなら…俺が一緒に入ってやろうか?」
「そうだね、グロスが一緒なら風呂入る!」
「お…おいっ!…ちょっと…っっ」
ソルはなんの恥じらいも躊躇いもなく、するりと服を脱ぎ捨てた。買ってもらった服はとても嬉しかったけど…うん、やっぱり解放感がたまらない。一方グロスは…まさか「YES」なんて言われると思わず、冗談半分に言った一言。ソルがそんな反応をするとは思わなかったが…一緒に入らなければ、せっかく築いた信頼関係にヒビが入りかねない。とりあえずグロリアスも服を脱ぎ、浴室へと向かう。
ソルはバスタブのお湯を物珍しそうにバシャバシャと叩いていた。水浴びも好きだったけど、お湯はなんと気持ちのいい事か。人間は贅沢すぎる。お湯の表面を叩いて波紋を作るのを楽しみながら、グロスを見やる。何を慌てているのだろう…。
「洗ってやるぞ。そこに座れ」
小さな浴用椅子に座ったソルに、ザブザブと頭から湯をかけた。びっくりしつつも気持ち良さそうなソルに、シャボンで泡立てたタオルで体を洗い始める。首から両腕、背中を洗い始めると…例の傷跡の腫れがまだ引いていない。痛々しく紫色に腫れている。
「風呂って…気持ちいいね」
「背中…まだ腫れが引かないな。痛くはないか?」
「ん?押さなければ痛くはない…かな?さっきお湯に入る時少し痛かったけど、今は平気」
体をタオルで洗うのもなかなかいい感じだ。汚れが落ちて、更に肌が滑らかになったようだ。痛いと言えば、また膿を搾られるのだろうか。アレは、結構痛い。本当にぐったりしている時だったから暴れずに済んだけれど、少し体力もついた今、大人しくアレを我慢する自信はなかった。暴れたらグロスを潰しちゃうかもしれないと、半ば本気で心配しているのだ。
「後で…膿を絞ろうか」
グロリアスの呟きに、ソルはぴくっと体を震わせた。そのまま黙りこくってしまう。言葉にできない無言の抵抗に、それ以上の追及はしない。背後から正面に手をまわして、胸を洗い始める。小柄な体格の割に程よく発育した胸の感触に、グロスの心臓が破裂しそうなほどに高鳴った。ソルがおとなしくしているのは羞恥心からなのか、それとも何の気にもかけていないからなのか。背後からでは表情も窺えない。
「はい、じゃあ…立って」
言われた通り、素直に立ち上がるソル。背面からでも白い肌が惜しげもなく晒され、目の前にはプリッとした尻。タオルで擦れば白い泡に包まれていく。太腿からつま先まで、全身が真っ白になった。グロスに背を向けていて本当に良かったとソルは思う。マスターの目に見つめられたら、嘘はつけない。暖かいタオルが身体中を擦っていくのはいい気持ちだった。胸を洗ってくれているグロスの手が、一瞬だけ戸惑ったように感じたのは気のせいか。おおむね無反応でグロスに身を任せ、泡のついた胸を自分でもプニプニと押して、肌の質感を楽しんでいる。
幼い頃、グロスはよく妹と一緒に風呂に入った。頭の天辺から爪先まで、丁寧に洗ってやると嬉しそうに笑っていたっけ。大きな浴槽をまるでプールのように泳ぎ、のぼせそうになるまで付き合わされた思い出。あれはまだ妹が幼い頃。たぶん、十歳にもなっていなかったような。現在のソルはあの時の妹よりはるかに成長しているけれど、どことなくダブってしまう光景。
「髪も洗うからな」
手に付けたシャンプーを泡立て、髪を洗い始める。赤く長い髪も徐々に白い泡に包まれ、その毛先までも丁寧に。そんなグロスの手つきに安心しきったかのように、そるはうっとりと目を閉じながら身を任せている。
「お湯をかけるぞ。目を瞑れー。よーし、先に入って…温まってろ」
頭からお湯を何度もかける。長い髪はつやつやと輝き、泡が流れた肌は一層の白さを取り戻した。赤く長い髪に隠れて見えない背中の一点を除いては。泡を流してもらって明らかに綺麗になった肌に、ソルは満足そうに笑顔を向ける。ちょっとゴワゴワしていた髪の毛の手触りも良くなった。王子でありマスターでもあるグロスにお世話されてばかりではいけない、と今さら慌てる。先にお湯に浸かるなんてとんでもないと、グロスの前に立ちはだかり、
「グロスも洗ってあげるね」
任せて、と言わんばかりに張り切って温かいお湯にタオルを浸し、見よう見まねで石鹸を泡立てた。ソルも言い出したら聞かない。 素直に身を任せ、洗ってもらう事にする。自分を背負ってくれた大きな背中を洗い、アームレスリングに勝った逞しい腕に泡を滑らせる。厚い胸板の上に掌を置くと、力強い鼓動が響いてくる。龍だった頃は向かうところ敵無しで飛んでいたのに、筋肉の薄い体で転変した自分と見比べてため息をついた。
「グロスの体って、堅いね。ねぇ、私にも剣を教えてよ。この体でもグロスを守るために」
「女が剣なんて、持つもんじゃない。 それに、元の姿に戻ったら…剣なんか、必要ないだろ」
最初は遠慮していたけど、この娘…本当に龍なのか。 目の前で見た衝撃の事実が、まだどこか信じられないでいる。 自分の体を洗ってくれるなんて、思い出の中の妹と同じだ。王家の世継ぎとして生まれ、 国防軍の作戦参謀副長として何度も戦場に立ったグロリアス。 男は女を守るもの。女は男を支えるもの。 そんな教育を受けてきた元王子は、女に剣を持たせたくはない。鍛え上げられた身体も、ここ数日…山を駆け巡っていて傷だらけだ。 胸や腹、腕も足も傷だらけだが…背中には傷一つない。 それが勇者の証なのだ。
「でも、どうやって…龍に戻ったらいいのか…解らないんだもの。龍になると、人間なんか集団で来ても、片足で相手できるけどね。龍に戻れなくて、マスターをお守りできないなんて…火炎龍の恥でしょ?ね、頑張るから」
「ちょっ…ちょっと…何してんだ!?もう…いいから。早く洗ってくれ」
意思を示すように、グロスの手を掴んで自分の心臓の鼓動に押し当てた。突然に触れた柔らかい感触に、思わず声がひっくり返る。でも、不思議といやらしさは感じなかった。トクン…トクン…と、穏やかな鼓動が伝わってくる…気がする。自分から軽く腕を離して、再びソルに身を任せ洗ってもらう。全身を洗い終われば、ソルも満足そうに微笑みながら泡を流してくれた。
「入ろうぜ。ゆっくり温まるんだ。」
大き目の浴槽は二人で入ってもまだ余裕があった。泳げるほどではなかったけれど。向かい合うのはちょっと照れくさくて、お互いに入口の方を向いたまま。お湯の温かさに、疲れが溶けていく。暖まったせいか、煽った酒のせいか、ソルの傷は少し疼く。静かな浴室には、お湯が流れる音が響いていた。
「聞いてもいい?どうして王子が追われてるの?…誰がグロスを追っているの?」
少し真面目な表情でソルは訊ねた。グロスの敵は我が敵なのだから。いつかは対峙する事あるだろう。その時までに龍に戻る方法と、傷を治す事と、人型でもグロスを守れるように、せめて足手まといにはならないように、自分を鍛えていかなくてはならない。グロスは苦笑いと共にため息を一つ。バシャバシャすくった湯を顔に擦りつけた。
「俺の親父…元国王は平和主義者だった。領土は狭かったけど、国民はみんな穏やかに、平和に暮らしていたんだ。大臣はそれじゃ我慢できなくてクーデターを起こした。そして自らが新しい国王になったんだ。クーデターを起こした新国王には、元王子なんて目の上のタンコブなのさ。殺してしまえと追っ手を差し向けた。だから…逃げてきたんだ」
どんなに勇敢な王子でも、新国王とその家来を一人で相手にするにはあまりにも分が悪い。体勢を立て直す必要がある。そのためには…逃亡するしかなかった。いつか敵を討ってやる…それだけを胸に誓って。
「新国王は、あの山を切り開いて…要塞基地を作るつもりだ。そして、周りの国に攻め入って…自国の領土を増やす。戦いが勃発すれば、多くの人が血を流し…命を落とす。それだけは…なんとしても、避けなければいけないんだ。あいつは…あいつの政策は間違っている。あいつに踊らされている国民の、目を覚まさせてやらなければいけないんだ!」
「私がグロスを王位につける。今、勝手に王を名乗っている男を私は許さない。私はこの国の守護であり、我が頭を垂れ膝を折るのは…グロリアス、貴方だけだ」
あまりにも苦しいグロスの物語。ソルは頷きながらきいていたが、熱い感情が胸に込み上げてきた。ふにゃふにゃ酔っぱらいのソルフレアとは違う、王の守護者としての顔。空を統べ、人間に畏怖を与えてきたソルフレアとしての表情。しゃんと背を伸ばし、燃えるような紅い瞳でまっ直に主を見つめて誓った。
「私が認めぬ王を戴いた国は災厄に見舞われるであろう。龍の守護を持たぬ領土は干ばつにあい、水害に苦しめられる。領土を広げるのか、愚かな。人の物を欲しがるものは、多くを失うものだ」
そしてソルは両手でグロスの顔を挟むと視線を合わせる。吸い込まれそうに澄んだ清らかな、だが強い目力を放つ赤い瞳。つばを飲み込むグロスの喉がゆっくりと動く。
「グロリアス、貴方には龍の加護がある。民を守れ」
「頼もしい限りだな、ソル」
湯の中からにょきっ…と伸びてきたグロリアスの手が、ソルの赤い頭をポンポンと叩いた。妹を奪われ、家臣たちに裏切られ、国民の信望を失った元王子は、どれほどの悔しい思いを胸に祖国を背にしたか。それを理解してくれる人…いや、龍がいただけで、本当に心強かった。
「上がろうか。のぼせちまうぞ」
一足先に、浴槽から出る。そのまま脱衣所へと。そしてベッドの上に身を横たえた。いまはソルの治療が先。元王子である前に、一人の医者として目の前にいる患者を救いたいのだ。ソルの傷口から入った毒は、伝説の薬草でないと治せない。一日でも、少しでも早く治療をしないと…全身に毒が回ってしまう。医者として、できる限りの事はしないと。そんな思いを胸に…ベッドの上に横たわって、天井を見つめた。
先に湯船から上がったグロスの背を見送り、ソルハしばらくお湯の暖かさを楽しんでいたが、自分もやっと上がる事にする。
「う…うぁ…?目がまわるぅ…」
浴室から出ようとしたら、世界が回転した。飲みつけない酒を飲んでから入浴したせいか、のぼせてしまったようだ。先程まで国を憂い、主を玉座につけると言い放った伝説の龍の覇気はまるでなくなり、目をまわした少女が床にのびていた。物音を聞きつけ駆け寄ったグロスは、ソルの寝息を聞く事となる。
突然の物音にふっと我に返り、慌てて脱衣所を覗くとソルが伸びていた。顔が真っ赤に染まっている。のぼせたのだろうか。やれやれ…と肩をすくませ、ソルを抱き上げ、そのままベッドに運ぶ。今がチャンス…とうつ伏せに寝かせると、壁に掛けてあったマントからメスを取り出した。
「思ったより…腫れてるんだ。我慢しろよ」
小さな切り口をつけ、そこから膿を絞り出す。痛いかもしれないが、毒が全身に回るよりはマシだ。体が人間のサイズになれば、村で手に入れた人間用の薬も効果が出るかもしれない。少しずつ、少しずつ膿を絞り出して、薬を塗りこんでいく。一通りの手当てが済むと、ベッドの上に寝転んだ。東の果ての国はまだまだ遠い。今夜はもう寝よう。体をゆっくりと休めなければならない。
「おやすみ…ソル…」