ひとぎきぼれ
朝の地下鉄で、本当にすっごく声のいい人を聞いたんだけど。たった1回しか聞けなくて。こんなお話を思いつきました。お手柔らかに。
地下鉄の構内に響く、アナウンスの声。
その声に心を奪われたのは、たったの一回。
聞くことができたのも、たったの一回。
体の中心に響くような、すごく美しいテノール。
耳に直接囁いて欲しいような、そんなことになったら抱きついてしまいそうな。
単なる乗車を促すアナウンスだったのに、その声は耳にこびりついて離れなかった。
私はその声をまた聞きたくて、同じ時間の地下鉄に乗り続けたんだけど、結局、聞けたのはそのたったの一回だった。
まるで夢のような時間。
もう一度、もう一度だけでいいんだけど。
それは五月のことだったから、もしかすると新入社員の研修とかで、持ち回ったことだったのかもしれない。
誰とも知らないその人は、そのたったの一回で、別部署に配置になったのかもしれない。
それなのに……。
私は毎朝、会社に行くには少し早い時間に、その地下鉄駅でベンチに座り、読書するのが日課になった。
耳はいつも、場内アナウンスを追っている。
そして、心の中ではいつも、あのたったの一回をリピートし続ける。
なんたる執着心!
とても恋とはいえない。
ミーハーな執着心だ!
親友には呆れながら苦笑される。
そんなことは自分が一番わかっている。
そもそも、この感情になんと名前を付けていいのか、一番迷っているのは私だ。
たとえば、何回もその声を聞くことができていれば、そのうち聞き慣れて、「あれ、それほど格好よかったわけでもないか」と思えたかもしれない。
話しているその姿を見れば、「そっか、声だけか」とがっかりできてかもしれない。
身近にいれば、「性格最低だったか」と吹っ切ることができたかもしれない。
でも、でも。
ずっと自分に言い訳をし続ける。
この気持ちを忘れないための言い訳。
探し続ける言い訳。
季節はいつの間にか、一回りしていた。
いつまでもずるずると引きずり続ける私は、親友に引っ張り出されて、人生初の合コンとやらに出席していた。
一応、親友の合格がでる程度にはめかし込んできたけど、やる気ゲージは底辺をさまよい、会費分の元を取ろうと、ずっと口をいっぱいにしていた。
「ねぇ、食べ過ぎじゃない? 格好いい人みっけても、お持ち帰りしてもらえないよ~」
肉食係女子というのは、こういう奴のことを言うのか……。
私はうろんな眼で、彼女を見返した。
「誰も食べないなら、ここのデザート、私が持ち帰りたいんだけど。なんか、容器とかないかな」
「バカなの? そんな入れ物、この小さな鞄のどこに入れてくるって言うのよ!」
確かに彼女の鞄は、おしゃれな女の子が持っているような、慎ましいピンクのハンドバック。
「まぁ、そうだね。そこから入れ物が出てきたら、私は尊敬を込めて、あんたを青い狸って呼ぶよ」
「誰が寸胴よ! あんな丸いものと一緒にしないでちょうだい! あんたこそ、小学校の時のあだ名が破壊音波ってばらすわよ!」
「っ、もうばらしてるじゃない!」
「ぷっ、くっ、ははははははは!」
私が叫んで立ち上がったのと、後ろで爆笑の声が響きだしたのは同時だった。
私も親友も、ぎょっとして後ろを振り向く。
そこには長身の男性が、体を折り曲げるようにして、笑い続けていた。
私と親友は、じとっとした視線を合わせてから、苦笑した。
そんな雰囲気に気づいたのだろう。男性は笑いをこらえながら(成功しているとはいえなかったが)、片手でにじむ涙を拭い、私たちの方をみた。
「ごめん、聞くつもりはなかったんだけど、こ、声が大きくて。何とかこらえようとしたんだけど、もう、どうしようもなくて……」
いいながらも、また呼吸困難に陥っている。
「失礼でしょう。そりゃ、少し変な会話だったけど……ん、どうしたの?」
親友が変な顔をする。
そりゃそうだろう。
私の顔は茹で蛸のように真っ赤だ。
さっきまで、「仕方ないね」という感じで苦笑していただけなのに。
私は涙をにじませ、頬を染め、そんな自分がなおさら恥ずかしくて、両手で顔を覆っている。
「あの、すみません。そんなに気になさるとは思わなくて。本当に、申し訳ありません」
男性は、私が彼の爆笑に傷ついたと思ったのだろう。
さすがに笑いを納めて、しゅんとした感じで謝ってくる。
でも、親友は違う。
昔からのつきあいで、その程度で私が傷つくほどやわではない、と知っている。
「ちょっと、どうしたのよ。この人、困ってるじゃない」
「……こ……だ」
「え? 何?」
「この……なの……」
さっきまでの私が嘘のように、消えそうな、囁くような声。
困惑している男性と、いぶかしむ親友。
そんな親友の耳に、そっと囁く。
「この人なの……地下鉄の……人」
地下鉄という声だけが届いたのか、男性は少しびっくりした顔をしたが、すぐににっこりと笑ってくれた。
「あれ、ご存じでしたか。地下鉄の職員なんですよ。どこかで逢ってましたか?」
親友は口の中で「地下鉄……」と呟いた後、ぱっと目を見開いて、私を振り返った。
何も言わないけど、その眼が「この人なのね」と言っていたので、私はこっくりと頷いた。
「あの、今日は合コンに参加してらっしゃるんですか? つきあい、とか?」
このお店は合コンの貸し切りというわけではない。一般客も少数ながら存在する。
親友があからさまに探るような質問をしたのに、その男性はあっさりと答えてくれる。
「えぇ、合コンに。仕事にも慣れてきたところで、彼女でも作れって、友人に誘われて。あまり気乗りしなかったんですが、楽しい会話に癒されました」
先ほどの会話のどこに癒しの効果があったのか、彼の感性がちょっとおかしいのか、私には判らなかったけど、親友には何事かが納得できたのだろう、何度も頷いて、男性をまっすぐに見据えた。
「この子、ちょっと人見知りだけど、さっきも聞いていたとおり、話すとすっごくおもしろい子なんです。決まった人がいないなら、ちょっと付き合ってやってくれませんか? 私、この子と一緒にいるとずっと漫才になっちゃうから、いやなんです」
ひどいことを堂々と言われた。
「確かに、漫才でした」
ひどいことを肯定された。
でも、彼はまたぷくくっと笑いを漏らしながら、私の方に向き合って。
「僕はあまりぽんぽん言葉が出てくるタイプじゃないんだけど、イヤじゃなかったら、一緒におしゃべりしませんか?」
こくこく頷く。
「ツッコミ役としてはいまいちだろうけど」
また、ひどいこと言われた。
よほど情けない顔をしたのだろう、男性は私の頭をそっとなでた。
「なんだか、耳とかしっぽとかついてるみたいだ」
いつの間にか、親友はいなくなっていた。
空気を読みすぎだ! 置いてかないで。
男性の声が、思ったよりも近くで響く。
「そんな顔をしていると、お持ち帰りしたくなる」
立てなくなった。