空の釣り人
ショートショートになります。(2,694字
「釣れますかい?」
後ろから声をかけるが、爺は反応を示さない。
自分は仕方なく爺の隣であぐらをかくと、ひじを立てて目の前の光景を眺めた。
街に沈む真っ青な空を。
*
ある日を境に空が落ちた。
そのときまでみな知らなかったのだが、空というのはどうも質量があるらしい。いや、その言い方は語弊があるか。経緯としては次のようになる。
まず頭上にあった青空が、急激に地面へと接近してきた。落下したともいう。
すると街にあった建物どもは、次々と壊れて見るかげもなくなった。つぶれたともいう。
でもそれだけで空が質量を持つという説を証明することはできない。
空は何を血迷ったのか、さらに大地までも押しつぶして、下へ下へと落ちてしまったのだ。沈んだともいう。
…あれ、やはり矛盾はしてないか。空が質量を持つようになって、その比重があらゆる物質を上回れば、下へ下へと向かっていくはずなのだ。
「おや、ということは下に見えるあれは海か、空なのか?」
ずーっと下に見える青の景色がどちらなのか、自分にはわからない。
「まあいいや。帰りましょうや爺。釣り糸たらしても意味なんかないですぜ」
「おらァよう、大物をあたるまでば帰らんってからに」
爺はその場を動く気はないようだった。
「せめて海であるとよいけどな。サカナがいるかもしれん。でも空だったら」
空だったら…、釣れるなにかはいるのだろうか。
結局あきらめて、自分はひとりで来た道を引き返した。
みなからも変わり者と揶揄される爺である。聞き入れぬなら、放っておくしかあるまい。
翌日。再び訪れると、爺は相変わらず釣り糸をたらしている。
しかも昨日の位置から微動だにしていない。
一体彼はなにを待っているのだろう。それだけの価値ある行為なのだろうか。自分としては興味深くも思うのだが。
「爺は自分よりも長生きだから、空の話でも聞かせてくださいよ。待ちの時間を持て余しているのだから、それぐらいは付き合ってくれてもいいでしょう?」
爺は応えないが、自分は構わず続ける。
「今でもよくわからなくなります。見上げるものが空ならば、落ちたあれは空ではないのか。今頭上にあるものが空になったのか。そもそも、なぜ空は落ちてしまったのか」
「……おめェのくぅわいしーはいつだ?」
「クゥワ……ああ、生まれ年のことか。空が落ちる前ですよ。今でも当時の光景を覚えているから、落ちたのは物心ついたときでしょう。だから自分は落ちる前の空と、空に潰される前の海を覚えていない。海は、どんなものですか?」
「なんてことはねえ。空と同じく青の色だ」
「うん? なら空となにが違うのさ」
「深みが違う。空の青より、海の青のが深けェのよ」
「へえ、色が少し違うのか。他にはなにが違うんだい?」
「……海では魚が泳いでいる。空には鳥がさまよう。あとは雲がたゆたっている」
「トリ? クモ? 空にも海のサカナみたいのがいるのか」
「魚は知っているんか?」
「……いや、母から聞いただけさ。その前は隠語かなにかだと思っていた。正直今でも釣りがどういうものかわかっていない」
「なら、なおさら釣ってみせてやらねェとな」
爺の腕に心なしか気合いが上乗せされる。先となにが変わったのかと問われれば、それはわからないけれど。
そしてまた次の日。
爺は昨日・おとといと変わらず、釣り糸をたらしている。
その糸がなにかを引っ張り上げるものだということは知っている。ただ、それが実際どのようにして行われるのか、それに何の意味があるのかを自分は知らない。
だから石のように動かない爺を「なにをする!」あ、生きてた。死んでないことを確認してから、いつものように隣であぐらをかいた。
「空の話をしてくださいよ」
「おめえも物好きだな」
「母も言っておりました。釣りの楽しみのほとんどは、待っているときだと。つまり爺は今このときが楽しいのですね」
「…あれも余計なことを吹き込みおって」
そう口を尖らせながらも、爺は自分に付き合って話を聞かせてくれた。案外彼も退屈だったのかもしれない。
「空が落ちたとき、他のやつらは腰をぬかして慌てふためいたもんだ。だがおらァ驚きゃあせんかった。おらたちが知らなんだけで、空ちゅーもんは幾たびもこうして落ちてきたのだろうよ」
「それは面白い。なら自分らが“空”と呼ぶものは、かつて“海”と呼ばれていたものかもしれませんね」
「どうゆうことだ?」
「空には海の水が昇ってクモとなり、アメとなって降り注ぐのでしょう? なら空と海は天と地の狭間で、その居場所をたびたび交換してきたのかもしれません」
「面白ェことを考えるな、おめェは」
「空想家なだけですよ」
「だとしたら、空と海はどっちも同じものなのかもしれねェな」
「案外喧嘩してたんじゃないですかね。どっちが上でどっちが下がいいとか」
「そんな子供じゃあるめェし」
「わかりませんよ。昔の人間は、あーニサンカ……、まあよくないものを空に飛ばしていたというじゃないですか。それに嫌気がさして、『おい、海! 俺はもう耐え兼ねたから変われ!』と思ったのなら、一体誰が責められましょう。その結果人類のほとんどが滅んでしまっても自業自得というものです」
ふと爺を見やると、彼はなにかの手ごたえを得たようだった。
手元でグルグルと糸を巻き上げ、なにかを引き寄せようとしている。自分はその行為の意味を理解して、呆れながら爺に呼びかける。
「爺よ、勝手なことをすると天界のお偉い方が黙ってませんぞ」
「なーに、これを釣り上げれば奴らも口を開けて、文句もいえないだろうよ」
「なにを釣ろうというんです?」
「星だ」
こともなげに、そんなことを言ってみせる。
できるわけがないと思いつつも、心のどこかで期待する自分がいる。だとしても一体どれだけの時がかかることやら。
「じゃあ釣れたら教えてください。自分も青い星と人間というやつには興味があります」
「おう、晩飯までにはいい報告を持ってくさ」
そう言って自分は爺と別れた。
遠目に振り返ると、爺は子供のように無邪気な笑みを浮かべて、糸を手繰り寄せている。
もしもあの糸がなにかを引き上げられるというのなら、万有引力に従順となった空にとって、釣り糸はその支えとなれるだろうか。
かつて足元のはるか下に眠る空に、心の支えを求めた自分のように。
頭上に見渡す空を思い描く。いつかは自分も空の下に立ち尽くすことができるだろうかと。
「まあ、そんなことはないだろうけども」
しかし落ちることがあるのなら、拾い上げることもあるのだろう。少なくとも、
「待ち続けることは嫌いじゃない」
いつものように夢想にふけりつつ、自分は晩飯の支度をしに帰路についた。