Worker Bee
ホラーということで、ちょっとだけ残酷描写がありますので苦手な人は回避願います。
『Worker Bee』
ぞわり、と右手に痺れが走り、彼は立ち止まった。
違和感は一瞬で消え、右手をひと擦りすると、彼は何事もなかったように再び歩き出す。
――箱を、開けなければならない。
正体不明の感情に突き動かされ、彼は道を往く。
それは感情以前のより原初的な衝動であるのかもしれない。不定形の箱のイメージが絶えず彼の脳裏にちらつき、いつしか自分が箱の中にいるような思いにとらわれていった。
立方体、直方体、四角錘、紡錘、円筒形。秩序のある形から混沌へ、1000角錐から1001角錐へ。xyzの座標はそれぞれが自己を主張し、定めることの出来ない多を1点として定め始める。
――箱を、開けなければならない。
頭の中で、かすかな羽音のような誰かが、彼にささやく。
この意思は自分の意思なのか、それともほかの何者かのものなのか。かすかな疑念さえ許されず、彼は目的の地へと引きずられてゆく。意識の奴隷、あるいは木偶。明確な意思を持って意思に引きずられる。
けたたましいクラクションが鳴り響き、ゴムタイヤの擦れるかん高い音を発しながら白のワゴンが大きくスピンをした。彼の胸先数センチをテールランプが掠める。歩行者信号は警告の色を示している。
「てめぇ、この糞餓鬼、危ねえじゃねぇかッ!」
道の脇に止まったワゴンから、労働者風のツナギを着た男が降りてきて、小走りで彼に詰め寄る。
「どうしてくれるんだよ、横、擦っちまったじゃねぇかよ!弁償しやがれ!!」
男は顔を紅潮させ、太い腕が彼の胸倉をつかんだ。そのまま片手で彼を持ち上げる。彼の薄い胸板から伸びた四肢はだらりと垂れ、彼はわずかに重力のくびきから解放される。彼は淀んだ瞳で男を眺める。否、彼の視線は男の頭部を突き抜けて、前方に伸びる道を眺める。
「聞いてんのか、コラ!ふらふらと車道に出てきやがって。そんなに死にてえのなら、今ここで俺が殺してやろうか、あぁ!?」
男が叫ぶたびに、唾が彼の顔に飛び散る。彼は表情を変えることなくそれを受け止める。空中に浮いた両足だけが、男の戒めから逃れようと空を蹴る。否、ただ先へと進むべく運動を続ける。一定のリズムで右足が前に。捕らえるものがなくて空しく戻ってきたそれを尻目に左足が前に。右、左、右、左、右、左、規則正しい繰り返し。彼は歩く。前へ、前へ。一向に進むことのない歩みを歩み続ける。
「逃げられるとでも思ってんのか……よッ!!」
男の腕が片仮名の「ノ」の軌跡を描き、彼の体は重さを持たないかのように投げ飛ばされた。鈍い音を立てて石塀にぶつかり、彼はその場に崩れ落ちる。うつむいて咳き込んだ彼の口からは、赤い線が一筋流れる。男は再び彼に歩み寄る。彼を見下ろすと、右足に体重を預け、無言で左足を後方に引き、振り子のように振り下ろした。先端に鉄板の入った作業用の靴が彼のわき腹に突き刺さり、下水のパイプのような、ごぼりという音とともに、黄土色をした胃の中身がアスファルトに撒き散らされた。
ズボンのすそに飛び散った胃液を気にすることもなく、男は再度左足を引き絞り、振り下ろした。赤いもが混じり出した胃液が彼の口からあふれる。男は左足を引き絞る。
「畜生、畜生、畜生ッ、馬鹿にしやがって。馬鹿社長も、てめぇも、どいつもこいつも俺を見下しやがって。大学行ってるからってそんなに偉いのかよ、立派なのかよ。畜生、許さねぇ、馬鹿にしやがって、許さねぇぞ、畜生、畜生、畜生、畜生!」
壊れたヤジロベエのように、男の足は単純な往復運動を、何度も何度も繰り返す。
箱を―――。
ぶん、と、ひときわ大きな音が彼の頭に響いた。それに呼応して、彼の唇は言葉を紡ごうとするかのように緩やかに蠢く。
男が動きを止めた。
「何だ、何か言いたいことがあるなら言ってみやがれ」
彼の口から空気が漏れる。
「…………よ…」
「あぁ!?聞こえねぇよ」
男は彼に向かって身をかがめる。
「………だ……よ………」
「聞こえねぇ、つってんだろうがよ!」
男はさらに身をかがめる。
「……邪魔…なんだよ………ジジイ……」
はっきりとした意味が耳に届き、撥条じかけの人形のように男は体を起こした。怒りで赤黒くなった顔が、彼を見下ろす。
「んぎがごるぇぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
意味不明の雄叫びをあげると、男は左足をアメフトのフリーキックのようにひときわ高く引き絞り、渾身の力を込めて振り下ろした。男の爪先が彼の脇腹を捉え、肉と骨がひしゃげる音が響く。
足を振り下ろしたままの勢いでのけ反り、男はそのまま尻餅をついた。腰を強打し、あまの痛みに呻き声を漏らす。顔を顰めながら彼の方に身を向けようとして、うまく体が動かずに崩れ落ちた。
彼がゆっくりと身を起こす。
ゆらりと立ち上がった彼の右手に握られている物体が、ひどく見慣れたものであることに、数瞬の後、男は気が付く。
赤く染まり、粘つく液体で覆われてはいるが、それは紛れもなく、男の左足であった。
かつて男の屈強な体を支えていたそれは、足の裏を天に向け、垂らされた彼の腕の動きに合わせて、ゆぅらりと揺れる。
大腿部の切断面では、引きちぎられたズボンの繊維と筋繊維が絡み合う。赤茶色の骨が微かに見えたが、夥しい血に一瞬で隠されてしまった。
彼は男の足首を掴むと、力を込めた。卵が潰れるような音を立てて、男の足と脚が離れる。中身が詰まった作業靴が地面に落ち、鉄板とアスファルトが、思いがけず硬い音を周囲に響かせた。
彼と男の足元に広がってゆく赤い水溜りを交互に眺め、ようやく男は叫ぶことを思い出した。男の口が上下に大きく開かれる。
男が叫ぼうとしたのは悲鳴だったのか命乞いだったのか、それとも怒りの言葉であったのか。限界までひられた口から言葉が溢れるよりも早く、彼は男の頭を掴むと、口腔内にかつて足首であったものを捩じ込んだ。
「ぐぼぼぼぼぼぼぼぉおぐぐぐぐぅぇぇぉぉおぅ」
食道と気道の奥深くまで無理やり侵入され、異物を押し返そうと男の体が激しく反応する。胃液が逆流し、口の端と鼻の穴から、黄土色の液が垂れるが、大部分は再び胃の中に押し戻され、それが再び胃液を逆流させる。際限のない往復運動の度に、男の体は引き攣れたように捻転をする。男の頭を掴んだまま、彼はその様子を無感動に見下ろす。
何度目かの痙攣の後、男は不意に、口から突き出ている脚を両手で掴んだ。目を見開き、渾身の力を込めて脚を引き抜こうとする。杭のように突き刺さった脚が徐々に持ち上げられてゆく。男の必死の抵抗を見ながら、血と吐瀉物で塗装されたそれに、彼は右手を添えた。
「ぐもっ」
大腿部までが一気に口内に押し込まれ、串刺しにされた男の身体が大きく跳ねる。口蓋は大きく裂け、端から血まみれの歯が覗く。力を失った両手がだらりと垂れ、四肢をびくびくと痙攣させながら、男はその場に失禁した。光を失いゆく男の網膜に最期に映し出されたものは、血と粘液とでてらてらと光る、濃暗緑の鱗に覆われた彼の右手であった。
出来損ないの串焼きのような姿と化した男の体は、微かな痙攣を繰り返しながら彼の足元に横たわる。それに一瞥をくれることもなく、彼は歩き出す。
男の蹴りで肋骨を痛めたのか、ゆるゆるとよろめきながら進む。
血にまみれた右腕がひどく痒み、彼は左腕を叩きつけるようにして掻き毟った。ばりばりと彼の腕が動く度、透明な鱗がいくつも地面に落ち、太陽の光を透かして淡緑の影を作る。
――箱を。
ぶぅん、と羽音が響く。
彼は歩き続ける。白のワイシャツは返り血を浴びて不吉な斑模様を描く。垂れ下がった右腕に覗くのは、赤く染まった鱗と鋭い爪。犬を散歩させていた主婦が目をそらして早足にすれ違った。リードに繋がれた犬が尻尾を股の間に挟み、遠ざかる彼に向かい震える声で吠え立てる。それを制止する声と、小刻みに駆け去ってゆく足音。
彼は歩き続ける。
――箱を。
それだけを意思して彼は歩き続ける。
箱を。箱を。箱を。
ぶぅん。
どうするのだ?
――箱は、開けられなければならない。
そうだ、箱は物を入れるためにあるのだから。そして、入れたものは、取り出されなければならない。
何を。
取り出すというのか。
俺は。
ぶぅん。
何のために――
ぶぅん。ぶぅん。ぶぅん。ぶぅん。ぶぅん。ぶぅん。ぶぅん。ぶぅん。
羽音はうねりのように彼の頭の中を駆け巡る。痛みを感じるほどに強い痒みが襲い、彼は石壁に右手を叩きつけた。
土煙を上げて石壁は崩れ、民家の庭が丸見えとなる。無人の家はひっそりと、傍若な闖入者を眺めている。彼の腕には傷一つない。
獣のような唸り声をあげ、彼は自らの右手に喰らいついた。いつの間にかびっしりと生えてきていた鋸状の歯が、手の甲の肉を引きちぎる。じゅくりと、碧く濁った液体が傷口から溢れ出した。鱗の張り付いた肉を口内に残したまま、空に向けて彼は声を立てずに遠吠える。
痒い痒い痒い痒い痒い痒い――
彼はその場にしゃがみこんだ。
うねりのような羽音は多数の何者かの声となり、彼に呼びかける。
うーどぅれーどぅこひゅーるくとるーひゅひゅーふ、まだなのか?
彼は打たれたように立ち上がり、歩き出した。瞳には強い意志の光が宿る。
よろり、よろりと、揺らめきながら、蝋燭の炎のように着実に進む。
待っている者が居るのだという確信が、自分にしかできないのだという妄信が、彼の体を目的地に向かって引っ張ってゆく。
羽音はいつの間にか聞こえなくなっていた。
手の甲から溢れる液体を啜る彼の口から、羽音に似た呟きが零れる。
いーあしゅーぶにぐらーすなふぐるーとん。
ざわり、と大気が震え、彼に応えた。
彼は高揚していた。
ようやく辿り着いたのだ。
頭には靄がかかり、自分自身のことや先程までの記憶すらはっきりとは思い出せなくなっているが、ここが目的の地ということは、確信を持って言うことができる。
小ぢんまりとした集合住宅の一室、そこに箱はあった。
ねっとりとした濃厚な気配が彼の皮膚を刺激する。
この中だ。
羽音が囁く。
壁を一枚隔てた中に、あれほど焦がれたものが居る。彼は扉に駆け寄ると、荒々しくノブを回した。
力を込めて引くが、扉は頑なに侵入を拒む。何度かの試みの後、鍵がかかっているのだという考えにようやく思い至った。ポケットから鍵を取り出し、震える手で鍵穴に差し込んだ。
鍵をひねる。
――鍵?
不意に脳裏に浮かんだ疑問符は、かたり、と外れる錠の音にかき消された。
きいきいと軋みながら、ゆっくりと扉が開く。
途端に、それまで幽となっていた羽音が、轟音となって鳴り響く。彼の頭の中に収まりきらず、大気全体を震わせてどうどうと鳴動する。頭が砕けそうな音に、彼は両耳を抑え蹲った。
倒れこむように玄関に這入る。靴を脱ぐこともせず進む。台所には洗いかけの食器が重なっている。
中扉を開けた。
6畳1間の小さな部屋。その中央に膝の高さほどの箱が置かれていた。周囲には暗闇が凝り、白色の表面にもかかわらず、どんな黒色よりも冥く見える。その輪郭はぼやけていて、明確な形は判別できない。立方体と見えた瞬間には球形となり、瞬時の確定すら拒む。
彼はふらつきながら箱に駆け寄る。
開け口を探して表面をなぞるが、わずかな隙間すら見当たらない。滑らかでいながらざらついた表面が、硬質でありながら生き物のように弾力のある感触を彼の掌に返す。
――箱を開けなければならない。
――開けられない。
――開けなければならない。
――開けなければ。
彼は鱗に覆われた右手を振り上げ、箱の天蓋に対し、真っ直ぐに振り下ろした。
腕が空を切る。
箱が無数の羽虫に分かれ、部屋の中に充満した。羽音が騒ぐ。
無数の声が重なりあい、混沌とした意味を形作る。
いーあいーあぐるいむぐるうなーふ
くとぅるふーふるむるいえうがーふなぐるーたぐん、待ちかねた。
数万の虫が彼を覆い尽くす。
口、鼻、耳、眼球、ありとあらゆる穴から彼の体内に侵入する。皮膚を貫き体内に押し入る。体中を食い破ろうとする虫の大群から逃れようと彼はもがく。抵抗は数秒と続かず、彼の体は赤い霧と化した。
虫が再び一点に集まる。
羽音が止み、大人の膝丈程度の高さの塊をつくる。鋭角の角を持つそれは、ちょうど箱のようにも見える。箱の前には血まみれの靴が一対、二度と歩かれることのない足を内にはらみ、何故か几帳面に揃えられて置かれている。
静寂。
遠くでパトカーのサイレン音が響く。
箱は静かに6畳間の中央に鎮座している。
ぶぅん。
小さな虫が一匹、箱の近くから飛び立った。
再び静寂が満ちる。
虫は建物の外へ出ると空高く舞い上がる。
空中で2度大きく旋回すると、公園で娘を遊ばせている母親を見つけ、急降下する。
――箱を、開けなければならない。
〈了〉
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