赤い竜を見た
「僕ね、竜を見たんだよ」
全ては少年のこと一言から始まった。
小さな国の郊外に位置するティアレという村。綺麗な川と、みずみずしい果物が取れる小さな村だ。名所や観光地などはないが村人たちが協力し合い、生活を営んでいた。
この村には古くから言い伝えがある。『竜見せば、大きな厄災訪る』と。村人たちはその言い伝えを恐れて騎士団を作った。竜を殺すためのだ。もっとも、村の治安維持が主な活動内容になっているが。
村の誰もが騎士団に憧れ、入りたがる。しかし、騎士団に入れるのはほんの一握り。ウルも憧れているうちの1人だ。ウルの姉、エドは騎士団に所属している。近くで見ていたから尚更憧れるのだろう。
そしてエドは副騎士団長。まさに、自慢の姉だった。
「ウルー、はやくしろよぉ」
「ま、待ってよ……!」
ウルは同い年の子より身長が低い。そのせいでからかわれたり、荷物を持たされたりしていた。そんな自分がウルは嫌いだった。
「ウルに何してるのよ!」
辺りにハスキーボイスが響く。声の主は女性にしては大きく体格がいい。腰元にさしたレイピアがキラリと反射してウルの顔を照らした。
「お姉ちゃん……」
ウルは今にも泣きそうな顔でエドに駆け寄る。彼女は目をふっと細め少年を抱きしめた。
「い、いこうぜ!」
ウルをからかっていた少年たちは一目散に逃げ出す。エドはふん、と鼻を鳴らし背の低いウルに目線を合わせた。
「どこも怪我していない?」
エドはウルの頬に手を当てて心配そうに眉を下げる。小さく頷きながら少年は恥ずかしそうにはにかんだ。
「本当は僕一人でもやっつけられたのにな」
目を細めて少年は頬をぽりぽりとかく。照れ臭いのか足をモジモジとさせた。
「ウルには無理よ」
彼女はクスクスと笑いながらウルの頭を撫でる。小さな子を諭すようにエドは口を開く。
「私が守ってあげるから」
柔らかく微笑み彼女は立ち上がった。額にリップ音をたててキスを落とす。ウルはキスされた額を抑える。そしてエドを見上げた。何か言いたげな表情を浮かべるがエドはそれに気付かない。
「それじゃあ、またね」
颯爽と立ち去るその後ろ姿をウルは見つめる。自身の小さな拳を握りしめる。針金のように細い腕には筋肉などほとんど付いていないだろう。
「僕だって……」
少年は、その先を言わずに唇を噛み締めた。エドの歩いていった方向とは真逆に走り出す。少年の頬は涙で濡れていた。
肩を震わせウルはしゃくりをあげる。その顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
ウルが来た場所は村の外れにある大きな湖。木で囲まれたここには人は来ない。村で知っているのは恐らくウルだけであろう。自分しかいないこの湖はウルのお気に入りの場所であった。いつも泣くときはここで泣き、芝生に横になる。
「僕だって、戦えるのに……」
お姉ちゃんに守られるのは、もう卒業したい。
ウルはそんな思いでいっぱいだった。顔を洗おうと湖を覗き込む。水面に映し出されたのは気弱そうな顔の少年。少年は水面に映った顔を叩いた。同心円状に広がり顔が歪む。ウルはそれを黙って見ていた。
ふと、視界の端に赤いナニカが映ったような気がした。ハッとして顔を上げると大きな、大きな赤い物が湖にいるではないか。
ウルはあまりの大きさに声すら出ない。ただただ、指をさしてワナワナと震えていた。
その生物は真っ赤な鱗を全身に纏っていた。何よりも赤く、目を引き寄せる色だ。背中から生えている翼。今は小さく折りたたまれているが、広げればかなり大きいのがうかがえた。そして、口元から覗く大きな牙。その牙で貫かれたらひとたまりもないだろう。
「竜、だ……!」
ウルの顔が恐怖に染まる。それもそのはずだ。言い伝えによればこれから大きな厄災が訪れる。初めて見る竜の大きさにウルはどうする事も出来なかった。
「アレ〜? 人間じゃん」
竜はウルに話しかける。竜の声は男性のものだったが声変わりがまだ来ていないのか高かった。もっとも、竜に声変わりがあるのかは微妙な所だが。竜はウルの方へゆっくり、ゆっくりと近づく。その度にあたりが軽く振動する。水面は大きく波打ち、木々は揺れ、鳥たちが飛びだった。
「ひっ……」
少年は小さな悲鳴をあげジリジリと後退する。しかし、膝が笑っていて思うように進めない。
竜のゴツゴツした手がウルの方へと伸びる。
殺られる!
そう覚悟して少年はキュッと目をつむった。ウルはいくら待っても痛くないのが不思議に思ったのかうっすらと目を開ける。
竜は少年の方へと爪を差し出していた。黒く、大きな爪。爪とウルの身長が同じくらいだ。ウルが小さいのか、はたまた竜の爪が大きいのかわからない。
少年は差し出された爪の意味がわからず竜をちらりと見る。自分より大きな牙に萎縮したのか自然に目を逸らした。
「握手しねーのかよぉー」
ふてくされたように竜は言い、面白くなさそうに目尻を下げる。水面に出ていた尻尾がしおれた。派手な水飛沫をあげていた。
「あ、その。えっと」
ウルは勢いで竜の爪にチョン、と触る。硬くてツルツルとする表面に思わず感嘆の声が出た。先の方は鋭いので危ないが他のところは大丈夫そうだ。
「俺はオーチョ。よろしくなチビ助」
オーチョと名乗った竜は目を細め口の中の鋭い歯を見せながら小さく笑った。ウルはびくりとしたがどうやら食べる気はなさそうだ。ホッと安堵の息をつく。
「えと、ウル。です……」
緊張してなのか、恐怖してなのか。喉の奥がへばりついて思うように声が出ない。消えちゃいそうな声で自分の名前を言った。
「ウル? ウル、ねぇ……」
オーチョは少年に顔を寄せマジマジと見る。鋭い歯が体の近くにあり思わず震える。歯をガチガチと鳴らせ逃げ出そうとするが後ろは木。逃げ出せなかった。
……また、逃げるのか。
ウルは拳を握り下を向く。ボロボロになった靴。いつも逃げていた。嫌なことから、怖いことから。戦うことをしなかった。エドに守ってもらうのが嫌なら、戦わなくちゃ。
キッとオーチョを睨みつける。目が合い悲鳴をあげ逃げ出したくなったが必死に足を押さえつけ目の前の竜を鋭く睨んだ。
「ぼ、僕が倒すんだっ!」
少年は不恰好に構える。喧嘩などした事がないから戦いからすらわからない。それなのに竜に挑もうなんて無謀すぎる。
「え、え? 倒されんの俺?」
オーチョは状況が飲み込めていないのか目をパチクリさせながらウルを見た。明らかにビビってるのに何を言っているんだ。思わず声をあげて笑ってしまいそうだ。
しかし、涙の溜まった真剣な目に何も言えなくなる。まっすぐとその瞳を見据えるとキッと睨み返された。
「ウルの気持ちはよーくわかった」
低めの声でオーチョは静かに言う。びくりとウルは肩を震わせ竜を見た。竜の爪が頰にピトリと触れる。先程触っていたのとは違い、すぐに殺られる。そう感じた。
「俺はさ、そーゆーの嫌なんだ」
胸に穴が開きそうなほど悲しげに竜は笑った。一切曇りのない瞳が僅かに潤む。ウルに触れていた爪をそっと離す。そして、忌々しげに鋭く尖った爪を見た。
「友達には、なれねーの?」
竜は少年と目を合わせずに一言ひとこと噛みしめるように言う。鱗が水に反射してキラキラと光る。まるでルビーのようだった。
返事のないウルに不思議に思ったのかオーチョは横目でチラリと見る。少年は泣いていた。大粒の涙をこぼし、声をあげずに泣いているのだ。
「え、ちょ。泣くなよ」
どうしたらいいのかわからず狼狽える。手を出しかけた。が、自分の鋭く尖った爪では余計に怖がらせてしまう。そんな事を考えている間にも少年は泣き続けた。
「ウル! 来いよ」
竜は手を地面に置く。草がチクチクとオーチョの手の甲をくすぐった。少年は竜の意図がわからず瞬きを繰り返しながらまた涙をこぼした。
「あー、はやく乗れって」
目を細め柔らかく言う。ウルは一瞬ためらう。
もしかしたら、罠なんじゃ……。
しかし、そんな考えはすぐに違うとわかった。オーチョの目はとても優しげで今から人を食べるような目ではない。
指先で竜の手を軽く突いた。とてもゴツゴツとしている。そして、ゆっくりと足をかけ、よじ登った。手の厚さも中々のものでよじ登るのが大変そうだ。
「気ィつけろよー?」
そんな声とともに竜はゆっくりと手をあげる。少年を気遣いながらゆっくりと。
「う、わぁ!」
視界がグン、と高くなる。木に登るよりもずっと高い。怖いという気持ちはいつの間にかなかった。
「すげぇだろ?」
得意げにオーチョは笑いかける。手の上ではしゃぎながらウルは頷いた。先程までの涙はどこかにいったようだ。
「こんなに高いんだね!」
興奮したように飛び跳ねながら全身で嬉しさを表現した。そんな少年の姿にオーチョも嬉しくなる。恐怖に染まっていた瞳は嬉しそうに輝いていた。
「俺はまだガキだからもーっと大きくなるけどな!」
竜の言葉に少年は感嘆の声をあげる。竜は小さく笑い少年を地面に下ろした。ピョンと手の上からウルは飛び降りる。着地に失敗して草の上に転がった。それを見てオーチョは笑う。ウルも思わず笑った。
「オーチョ、また明日!」
ウルはブンブン腕を振り走り出す。木の幹につまずいて転びそうだったが何とか持ち直した。竜は腕を軽くあげ、少年の後ろ姿を見つめる。
賑やかだった湖はシン、と静まり返る。聞こえるのは風で草木が揺れる音。さわさわと気持ちよさげに揺れていた。
「また、明日」
小さく呟きオーチョは目を閉じる。先程までのやり取りを思い浮かべ笑みをこぼしていた。折りたたまれていた翼を広げる。あたりに風が巻き起こり、木々を揺らした。
ウルはそろり、そろりと裏口から家の中に入る。とっくに門限は過ぎていた。バレたら夕食を食べれなくなってしまう。音を立てないようにそっとドアを閉めた。
「ずいぶん遅かったのね?」
急に響いた低い声にウルはびくりと肩を震わす。ゆっくりと声のした方を見るとエドが腕を組んで立っていた。眉を寄せ、目を細めてウルを見据える。思わず瞳が潤んできたが目元に力を入れ何とか堪えた。
「友達と、遊んでたんだ」
自然と『友達』という言葉が出る。本当に友達なのかな。なんて疑問は一切出てこなかった。あの短い時間でオーチョの事を好きになっていたのだと思う。
ウルの言葉にエドは目を見開く。内気で弱虫なウルに友達ができるなんて。嬉しい反面、少しだけ寂しさを感じる。しかし、どこか嬉しそうなウルを見ていると彼女の考えはどこかにいった。
「よかったわね」
目を細め頬を緩める。ボサボサの髪を優しく手櫛でとかしていく。柔らかい髪の毛はスルリとすり抜けた。ウルはくすぐったいのか身をよじりクスクスと笑う。
「母さんたちには内緒にしておくわ」
エドの言葉にウルは大きくうなずき、抱きついた。エドはそれを抱きとめる。
ウルは1人で部屋に戻った。小さな部屋はしんとしている。風が吹いてカーテンを揺らした。
昼間にあった竜の事を思い出す。緑の中で一際目立っていた赤い鱗。思い出すだけでドキドキする。ウルにとって初めての友達だ。
しかし、相手は村に大きな厄災をもたらす竜。誰にも言えない。もし誰かにバレたらオーチョは殺されてしまうだろう。大好きな姉の手によって。それだけは何としても避けたい。
「……会えるかな」
少年は窓から湖の方を見つめる。暗くて何も見えなかったがあそこに赤い竜がいると思うと明るく感じられた。
「いってきます!」
朝早くにウルは家を出る。エドの制止も聞かずに走り出した。少年はまっすぐと湖に向かう。早い時間だからか、まだ人の姿は見えない。ウルをからかう子供たちもいない。はやる気持ちを押さえつけて走る。
家々を抜け、森の中。少し開けた場所に広がる湖。昨日と変わらずそこには赤い竜がいた。
寝起きなのか大きなあくびをしている。その口からは大きな牙と大きな舌。ウルは鳥肌がたった。しかし、意を決して竜に声をかける。
「オ、オーチョ!」
竜は大きな口を開けたまま下を見る。少し目を細めて辺りを見渡す。そして、小さな少年の姿を見つけると嬉しそうに口元を緩める。
「マジで来てくれたんだ」
その声色はとても優しく暖かかった。竜は少年の目線に合わせるように地面に顎をつける。ウルはオーチョに近づきはにかんだ。
「だって友達でしょ?」
気恥ずかしそうに少年は言い頬をかく。竜は驚きのあまり目を見開いた。目頭が熱くなるのを感じる。
「おう、友達!」
目元を拭いにっと笑って見せた。ウルは友達と言ってもらえたのが嬉しくて頰が緩む。
竜にとっても、少年にとっても初めての友達だった。
「父さんと母さんいないの?」
「ん、ああ。竜って色んなとこからポンって産まれんだよ」
オーチョは例えば、と続けてウルの背後にある木を指差す。
「木から産まれる竜もいれば人間から産まれる竜もいる」
少年は感嘆の声をあげオーチョを見上げる。目線を合わせてくれていてもオーチョの方が倍くらい大きかった。
「オーチョは何から産まれたの?」
少年は初めて聞く竜の事が楽しくて仕方ないのか目を輝かせ竜に尋ねる。竜は純粋に嬉しかった。自分に興味を持ってもらえるのがたまらなく嬉しかった。
「俺はココ。この湖から産まれたんだ」
オーチョはそう言って水面に尻尾をあげる。小さく水しぶきが上がり、キラキラと光に反射した。ウルは首を傾げる。
「けど前まではいなかったよ」
少年は記憶を辿るがやはり昨日初めて見た。さすがに竜がいたら気がつく。少年の疑問に竜はああ、と言い湖の方を見やる。ウルも湖の方を見つめた。
「ずーっと潜ってたからな、俺」
あっけらかんと言うその言葉にウルは聞き直す。しかし、オーチョの言葉は変わらず「潜ってた」と変わらない。少年は少し遅れて声をあげる。オーチョは大きな声に目を細めた。
「え、え? この中に?」
少年は小走りで湖の中を覗き込む。湖の中はとても澄んでいて小さな魚が泳いでいるのが見える。どれも見たことのない魚だ。色とりどりの魚たちが気持ちよさそうに泳いでいる。
「すっごい……!」
少年の反応にオーチョは嬉しそうに目を細めた。ゆっくりと起き上がり湖を見つめる少年に問う。
「潜ってみるか?」
オーチョの誘いにウルは目を輝かせる。そして飛び跳ねながら大きく、何回も頷く。竜は声をあげ笑い、少年の近くに手を下ろす。ウルは何のためらいもなくよじ登る。
昨日は乗るのを躊躇していたのに。
その小さな変化が竜は嬉しくてたまらなかった。
「思いっきり息溜めてろよ」
竜の言葉にウルは思い切り息を吸い、止める。それを見て竜は少年を両手で優しく包み込み、湖の中に潜った。
「目、開けてみ?」
耳元で優しい声が聞こえる。その声に従いゆっくりと、目を開ける。
そこには別世界が広がっていた。
有色透明の水。淡いブルーの世界。その中には赤、黄色、青、紫など数え切れないほどの魚たちが少年の前を優雅に泳ぐ。まるでスケートをしているみたいだ。
驚きのあまり口が開きそうになるが慌てて手で塞ぐ。ウルの反応にオーチョは嬉しそうに笑った。
ウルは手を伸ばす。赤い魚が少年の指先に軽く触れる。しかし、すぐに向きを変えてどこかに泳いでいく。名残惜しそうに手を伸ばすが魚はあっという間に見えなくなった。
オーチョはゆっくりと水面から出る。太陽の光に少年は目を細めた。
「すっごい! すっごくキレイだった!」
顔についた水を手で払いのけながらオーチョに感動を伝える。「すごい」と「キレイ」しかウルは言っていなかったが感動したことは伝わってくる。
「ちょっと落ち着けって」
オーチョは地面にウルをおろすと翼を大きく広げ、水滴を払う。水滴は反射しながら地面に落ちた。
「だって、すごいんだよ!」
竜の目をまっすぐ見て全身で感動を表す。腕を目一杯広げピョンピョン飛び跳ねてみせる。竜は照れ臭そうに笑い、また少年に視線を合わせた。
「そんなに喜んでもらえると嬉しーわ」
小さく笑いながら言うと少年は満面の笑みで竜を見る。竜も少年につられて頬を更に緩めた。
「じゃあ、また来るね!」
「また明日」と手を振りながら少年は家路へと走る。再び静寂が訪れた湖。竜は嬉しそうにその後ろ姿を見えなくなるまで見続けていた。
少年が湖に行くのは日課となっていた。誰よりも早く起き、誰よりも先に家を出る。全ては竜に会うためだ。
もし、こんな事がバレたらどうなるか少年はわかっている。わかっていても竜に友達に会いたかった。心優しい友達に。
1ヶ月程経ったある日。ウルはいつものように湖に足を運んだ。まだ眠そうな竜が少年を見つけると嬉しそうに笑い翼を広げる。
「あのさぁ……」
日が傾き、オレンジ色に染まった空。オーチョは言いにくいのか言葉に詰まる。少年は竜の言葉を待つ。見つめる瞳は優しかった。
「……俺」
竜は拳を握る。そして、ゆっくりと口を開いた。
「村に、行ってみたい」
竜の言葉にウルはぞわりとした感覚に見舞われる。寒くないのに鳥肌が立つ。
「な、んで?」
絞り出すようにして出た声は微かに震えていた。心なしか肩も震えている。
「なんつーか、ウルの住んでる所見てみたいなーって。……ダメ、か?」
不安そうにウルの顔をうかがう。いつになく沈んで見える竜の表情にウルは首を振る。
「う、ううん!」
ウルはパッと明るく笑ってみせる。オーチョは嬉しそうに目を輝かせた。そしてガッツポーズを作る。
「それじゃあ明日! 明日行っていいか?」
オーチョの問いにウルは曖昧に微笑み後ろを向いて走り出した。湖の方からオーチョの声が聞こえる。ウルは唇をきつく結ぶ。
エドはウルの様子がおかしいのに気づいていた。家に帰ってきてから何回もため息をついている。両親もとても心配そうだった。
「……おやすみなさい」
弱々しい声で呟き、ウルは部屋の扉を閉めた。パタンと音を立てて扉は閉まる。
エドはその扉を軽くノックする。すぐにウルの小さな声が聞こえた。彼女は「入るわね」と一言告げて扉を開けた。
カーテンを閉め、ベットの上でうずくまっているウル。暗くてよくわからないが泣いているようだ。隣に座り頭を優しく撫でる。
「何かあったの?」
エドの問いにウルは顔を上げ抱きつく。彼女は少し驚いたようだったが包み込むように抱き締めた。
「僕、僕ね」
エドはぽん、ぽんと一定のリズムでウルの背中を叩く。ウルの言葉を待つ。ウルは彼女の目を見る。少年の目は涙で赤く充血していた。
「僕ね、竜を見たんだよ」
エドは思わず動きを止める。目を見開き目の前で小さく震えながら泣いている弟を見る。息が止まった。瞬きすらできない。
「どこで見た?」
彼女の声はとても低く、鋭かった。少年はびくりと肩を震わせエドを見上げる。ウルはエドの目の冷たさに涙が止まった。少年の知っているエドはそこにいない。
「村の外れの。み、湖で……」
カタカタと震える肩を押さえつける。しかし、歯が小刻みになるのは抑えられない。
「ウルも知っているはずよ。竜は厄災をもたらす」
「そんな事ない!」
ウルはエドの言葉に息を荒げて反論した。拳をワナワナと震わせエドを睨みつける。エドは思わずたじろぐ。しかしすぐに首を振る。
「……明日、あなたは家から出ちゃダメよ」
エドはそれきり何も言わず部屋を出た。すすり泣く音が聞こえる。ウルは枕に顔を押し付けて泣いた。
みんなが寝静まった深夜。ウルは部屋の窓から外に飛び出した。目指すは湖。友達の元へと走る。
「オーチョ! オーチョ!」
声の限り叫ぶ。何度もつまづくが走るのを止めない。ひたすら走り続けた。やっとの思いで湖に辿り着く。昼間とは違い月明かりが辺りを怪しく照らしていた。湖の中央には体を丸めて寝ている赤い竜がいる。気持ちよさそうに寝ているがウルは構わずに大きな声でオーチョを起こした。
「んー、まだ夜だろ……」
あくびをしながら竜は少年の近くに寄る。眠い所を起こされたので少し機嫌が悪そうだ。しかしそんな事言っている時間はない。
「はやく! はやくここから逃げて!」
言葉の意味がわからないのかオーチョは間の抜けた声で聞き返す。少年は泣きながらエドとのやりとり、そして村に伝わる言い伝えを包み隠さず話した。
太陽が木々の間から光をこぼす。朝が来たようだ。竜の鱗がキラキラと光り、神秘的な雰囲気を醸し出している。
「……そっか。俺は邪魔なんだな」
オーチョは力なく微笑み上を向く。逆光で表情はうかがえない。遠くの方で声と草を踏みしめる音が聞こえる。おそらく騎士団がこちらに向かってきているのだろう。
「逃げないと殺られちゃうよ!」
ウルは大きな爪を急かすように押す。ビクともしない大きな爪に泣いている少年が映っている。
「ウルははやく逃げろ」
オーチョは小さな声でつぶやく。ウルは顔を上げてオーチョの顔を見つめる。泣きそうな顔で竜は笑いトン、と背中を押した。
「バイバイ」
ウルは涙で前が霞む。一目散に走った木々の間を走る。飛び出した木の根に転ぶ。膝には血が滲む。その場にうずくまりウルは泣いた。
ウルが走り出してすぐに武装した集団が竜の前に現れた。みんな片手に武器を持っている。先頭にはウルによく似た女性がいた。恐らく、ウルの姉であろう。
「いたぞ!」
女性は槍を竜に向け走り出す。地響きのような雄叫びをあげながら彼女に続いた。
咆哮をあげる。そして鉤爪を振り上げた。
しかし、ウルの顔が脳裏に浮かぶ。目の前で槍を振りかざしている女性が傷つけばウルは悲しむ。
友達が悲しむのは嫌だな。
走馬灯のようにウルとの思い出が頭の中を駆け巡る。瞼を閉じればとても小さな少年の姿が浮かぶ。
腕に鈍い痛みが走る。叫びそうになるのを我慢した。ただ、ジッと耐えた。身体中に色んな物が刺さる。朦朧とする意識の中見たのは自分が産まれた湖だった。綺麗な水色ではなく、赤い色が混ざって汚い。
竜は倒れた。ドシン、と大きな音を立てて崩れ落ちる。村人たちは勝利の雄叫びをあげる。倒した余韻に浸り、歌い、騒ぎながら村に戻っていく。竜を打ち取った証として大きな爪を剥ぎ取った。
村人たちはとても喜んだ。村をあげてのお祭りになるだろう。気が早い人たちは酒を飲み昼間だというのにすでに酔いが回っている。
エドは弟の姿を探した。しかし、どこにも見当たらない。ウルの部屋は固く閉ざされていて中からは何の音もしない。きっと拗ねて寝ているのだろう。彼女はオレンジジュースを飲みながら泣きながら訴える弟を思い出す。
私は正しいことをしたんだ。
自分に言い聞かせてグラスをテーブルの上に置く。カラン、と氷が溶けた。
ウルは湖に戻ってくる。そこには赤い竜が血を流して倒れていた。駆け寄って必死に名前を呼ぶ。竜は何も答えない。静かに眠るその表情はとても穏やかなものだった。
少年はゴツゴツとした鱗に触り、そっと撫でる。手を見ると赤い液体がこびり付く。独特な鉄の匂いが鼻に付いた。
「……おやすみ、オーチョ」
少年は振り返らず歩き出す。頬は涙で濡れていた。