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夏休みに入ると、俺は毎日のようにカラオケに行った。といっても、歌うわけではない。個室になっていようが一人で行っていようが、自宅でない場所では声が出ないのだ。
自宅以外の場所で、声を出す練習。それを気兼ねなくできて、大声で叫んでも問題がなく、なおかつ人前で叫ぶわけではないハードルの低い場所。そう考えた結果が、カラオケ店だったのだ。
田舎のカラオケ店は都会に比べて、料金が格段に安い。俺の見つけたカラオケ店では、平日の十二時から十八時までなら、フリータイムかつワンドリンクで四百円だ。何か月も続けるのは難しいけれど、夏休みの間くらいなら貯金を崩して通うができる。
歌いもしないようなロックを次々と予約し、ミュージックが流れ出すと同時に大声で叫ぶ練習をした。
「――――……!」
一曲も歌っていないのに、喉を痛めたような掠れた声しか出てこない。自分自身に絶望しながらも、俺は口を開き続けた。大音量の中、胸に手を当て上半身を前方に傾けて、苦悶の表情を浮かべながら口を開いている俺を他人が見たら、どう思われるだろう。
あなたの声が、聞きたい。
――話せるようになったら、彼女に言うんだ。今度こそ、ちゃんと。
午前中は宿題、午後からはカラオケという生活を二週間続けた。土日は料金が二倍になるので、一度下見に行った人気のない河原まで出向いた。掠れ声は相変わらずだけれど、『少しだけ大きな掠れ声』が出るようになったとは思う。
携帯で、今日の日付を確認した。――まだ、夏休みは三週間近くある。この間にもっと練習すれば、もう少し『声らしい声』が出るようになるかもしれない。俺は何度も、大きく息を吸っては掠れた声を出す、という行為を繰り返した。
夏休みが終わるまでに、不器用なりにでも彼女に伝えられるようになりたい。
俺の想いに拍車をかけたのは、赤く腫れた彼女の頬だった。
『それ、どうしたの?』
俺が尋ねると、彼女は苦笑した。少しだけ、目が潤んでいる。
『お姉ちゃんに叩かれちゃって』
『え……。喧嘩かなにか?』
彼女にお姉さんがいること自体初耳だったけれど、それを今聞いたら、そのまま話を逸らされるような気がした。彼女は困ったように首を傾げ、自嘲するような表情を見せた。
『特に何かがあったわけじゃないんだけど……。よくあるの。お母さんもお父さんもお姉ちゃんも、私のこと嫌ってるから。辛気臭くて気に入らないみたい』
部屋に置いてるサボテンが、何でも教えてくれるの。お母さんの愚痴とか、お父さんの嘆きとか、お姉ちゃんの悪口とか。彼女は両手でそう言った後、プールから出た時のように、右手でとんとんと耳を叩いた。それから勢い良く首を振り、さも嫌そうな顔をした。
『やっぱり、変な音が聞こえる。だんだん大きくなってきてる気がするんだ。サボテンの声は聞こえにくいし……本当にどうしちゃったんだろう』
――本当は、その音の正体に気づいているんじゃない? とは訊けなかった。
確かに、人間の声は怖いかもしれない。たとえ家族でも、すべてを打ち明けているわけではないし、打ち明けるべきではないこともある。彼女は植物を介してそれを聴いてしまった。
どこまでが本当の話かは知らないけれど、銀杏の近くで見た母親とのやり取りを見る限り、彼女と家族の間に亀裂があるのは間違いない。少なくとも、彼女が『彼女の中』で、亀裂を作っているのは本当だろう。
けれど本当に、人間の声は恐ろしいだけなのだろうか。
「――――――っ……――――ぁ!」
数週間かけて河原でようやく出せた声は、声と呼ぶには不完全で、言葉を発音するのも難しいであろう代物だった。それでも、俺の口から何かが出ただけ進歩だ。
――もう少し頑張れば、きっと言えるようになる。
俺はタオルで顔を拭くと、自転車を止めている場所に向かって歩き出した。お盆が近いせいか、浮かれた子供たちが半ズボン姿で川に突っ込んでいる。プールバッグに『三年』と書かれているのが見えたので、小学三年生だろうか。悲鳴にも近い楽しそうな声と、きらきら光る水しぶきを上げている。
ここの川は泳ぐのには向いていないはずなのに、と思った。昨夜、小雨が降ったせいで流れも速くなっている。
けれどいくら小学生が相手でも、俺がそれを伝えられるはずもない。保護者を探したが、それらしい人影も見当たらなかった。遊泳禁止と書かれた看板を、作り直した方がいいんじゃないか。
そんな悠長なことを考えている暇なんて、なかった。
「トオル!」
甲高い声で一人が叫んだ。子供たちは一様に、同じ方向を向いている。視線の先には、かろうじて水面に出ている顔と、ばたつかせている両手があった。しかし、『それ』はすごい勢いで下流へと流されていく。
誰かが流されたんだ……!
この川には所々深くなっているところがあるし、流れも速いから気をつけなさい。そう教えてくれたのは、父だった。川を甘く見たら酷い目に遭うんだぞ、と。
トオルと呼ばれていたその子は、川底に沈んでいたらしい自転車を必死になって掴んでいる。けれど、その体勢でいられるのも時間の問題のように見えた。心なしか、川の流れが先ほどよりも速くなったような気さえする。これ以上流されたら――
瞬間、俺は飛び出していた。
流された友達を助け出そうとしていた子供の肩を引っ張る。その子は切迫した表情でこちらを振り返った。泣きながら、何かをこちらに訴えいる。俺は男の子の肩を掴んだまま、口を開いた。
「お、……大人、の人を呼んできて」
十年ぶりに、人前で声が出せた。そんなことを考えている余裕も時間もない。動こうとしない子供たちに俺はもう一度、できる限り大声で叫んだ。
「大人を、呼んでくるんだ、早く!」
その声を合図に、蜘蛛の子を散らすように子供たちは走り出した。俺はそれを確認すると、流された子供の方へと目を向けた。彼は叫びながら、少しずつ流され始めた自転車にしがみついている。近くには大きな岩があるが、体の小さな彼では、そこに移動する間に流されてしまうだろう。
――彼のもとへと向かい、岩場まで移動させ、岩の上に避難させる。
どれくらいの体力が必要で、自分にどの程度の力があるのか。それを計算できるほど、俺の頭は賢くなかった。
「大丈夫、……助けるからな!」
俺は靴だけを脱ぐと、勢いよく川に飛び込んだ。子供の彼では足のつかない場所でも、俺なら問題ない。ただ、流れが速いせいで、少しでも力を抜くと転んでしまいそうだった。それでも、彼のもとへと向かう程度ならまだ問題ない。
「だいじょ……だから、な……」
彼をおんぶするようにして、もう一度川を横断する。近くだと思っていた岩場が、妙に遠く感じられた。普通に抱える分には軽いはずの彼も、川の中だと鉛のように重い。俺は息を切らしながらも、必死になって彼に声をかけ続けた。
大丈夫だ、大丈夫だからな。
それは、自分を励ますためでもあったと思う。口を開くたびに水が入ってきたが、それも気にならなかった。足の感覚を頼りに、少しずつ前に進む。俺がここで転んでしまえば、今度こそ彼は流されてしまうだろう。そう考えると足がすくんでしまいそうだった。
「大丈夫」を繰り返しながらも、俺は慎重に足を進めた。
岩場まで移動するのに、どれだけの時間がかかっただろう。やっとの思いで大きな岩の近くまでたどり着くと、俺は子供の体を持ち上げた。
「上に……!」
俺の意図を理解した彼は、残っている力を振り絞るようにして、岩に張り付いた。俺の肩に足を置かせて、肩車に近い形をとる。そのままの体勢で下から押し上げ、なんとか岩の上に彼を避難させることができた。
ずぶ濡れの彼が、咳込みながらも不安そうにこちらを見ている。思わず、彼に向かって微笑んだ。
「トオル君、……よく頑張ったね」
――ぐらり、と音が聞こえたような気がした。
彼を助けたことで、安心しきっていたのかもしれない。足元の石が、川の流れで少し揺れた。ただそれだけで、俺の身体は再び川の中へと引き込まれた。
「――……っ」
岩の上で叫んでいる彼から、あっという間に遠ざかっていく。俺も、意識も。
聞こえるのは、水の流れる音だけだ。
透明な水の中で、俺は口を開いた。
留守番電話に吹き込んだ言葉を、声にする。
最期のメッセージはきらきらと光る泡となり、水中に溶けて消えた。