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植物園からの帰り道、久しぶりに隣町の河原に寄った。寄ったといっても、隣町の河原は植物園からかなり遠いので、わざわざ足を運んだと言った方がいいだろう。人気のない河原に彼女を連れてくるのは気が引けて、結局一人だ。
昔は、親によく連れてきてもらっていた河原。水切りができるようになりたくて、練習していたのだ。丸くて平らな石を見つけては投げていた覚えがある。
周囲を見渡してみた。流れが速く遊泳にも向かない川には、俺を除けば誰もいない。遊泳しないよう注意を促す看板は草むらに倒され、錆びついている。ところどころに放置されている粗大ごみは昔からそこにある物で、いつまでたっても回収されそうにない。
河原の向こうでは、寂れたカラオケ店の看板がひっそりと自店の安さをアピールしている。
大声を出すにはうってつけの場所だ、と思った。
「おかえり楓。晩御飯もうすぐできるから」
「わかった。部屋にいるから、できたら呼んで」
帰宅するやいなやキッチンから聞こえてきた母親の声に返事をすると、リビング横にある和室に駆け込んだ。いわゆる客間だが、両親はなぜかここを俺の部屋としてあてがっている。欲を言うなら自室はフローリングがよかったのだけれど。
ショルダーバッグを畳の上に放置して、布団の上にうつぶせになる。枕に口を当てると、片想いに苦しんでいる少女漫画の主人公のように呟いた。
「家では普通に話せるのになあ……」
あなたの声が聞きたい。彼女は確かに、そう言った。
うまく答えられなかった。話せるようになるね、と言ってやれなかった。
もちろん、今のままじゃだめだとは思っている。話せるようになりたいとも思っている。けれどどれだけ希求しても、人前で話せる自分を想像すらできないのだ。咄嗟に叫ぶことすらできないのに、人と会話するなんてできるのだろうか。
彼女が、『人の声を聴けるようになりたくない』と言ったとき、俺と似ているのかもしれないと思った。人間が怖いのは、俺も同じだったから。
彼女はどこか閉塞的なのだ。自分の世界から動かないよう、動かされないように常に息を潜めている。だから世界は変わらない。
いや、そもそも『世界』は変わらない。世界を変えたいのならまず、自分が変わるしかないんだ――
「ごはん出来たわよー」
母の叫び声が俺の思考を遮り、その代わりに上半身を起こさせた。
いつもウダウダ言うだけで何もしない俺は、変わりのない毎日を過ごした。
けれど、彼女の方に変化が訪れた。
『最近、植物の声がよく聞こえないの』
ある日、ショッピングセンターの通路に置かれていた大きな観葉植物を見ながら、彼女は不安気な顔で言った。
『植物の声は聞こえにくいんだけど、その代わりによくわからない音が聞こえるの』
『それってどんな?』
『よくわからない、聞いたことのない音。機械や動物の音とも違う。なんなんだろう……』
不思議そうな顔をしていた彼女は、俯きながらも俺に両手で伝えた。
『あなたのことを考えてるとき、その音はより大きく聞こえるの』
――それって、人間の声なんじゃないか。そう思ったものの、彼女が怖がってしまうような気がして、それ以上詳しくは訊けなかった。
彼女は生まれつき、人間の声を聴いたことがない。だから、人間がどんな発音をしているのかは知らないはずだ。「あいうえお」は読めても、それらをどう発音するのか、人間の声はどんなものか――それを知らなければ、人間の声は『よくわからない音』と認知されるだろう。
あなたのことを考えているとき、と彼女は言った。その前には、あなたの声を聴きたい、とも。
だから、人の声を認知できるようになり始めた。
彼女は少しずつ、自分でも気づかないうちに変わってきているんだ。
『……どうかした?』
心配そうに俺の顔を覗き込む彼女に、俺は『なんでもないよ』と笑った。
人間が怖いと彼女は言った。
話すのは怖いと俺は思った。
自分の世界に引きこもっている二人に足りない鍵は――勇気だ。
彼女は不完全なそれを手に入れた。引きこもっていた部屋の壁を、少しだけ壊した。だから、人の声が少しだけ聞こえるようになった。
俺はまだ、それを手に入れていない。
Tシャツと半パンという夏おなじみのパジャマを着て自室に戻った。風呂上りののぼせた体のまま、そっと窓を開ける。小さな虫が蛍光灯につられて寄ってくるけど気にしない。湿った空気に身体をさらすと、そのまま溶けてしまいそうに感じられた。
近所の人が近くを通りかかり、暑くなったねえと話しかけてくる。俺はあいまいに頷いて、その場をやり過ごした。小さい頃から知っている近所の人ですら、これだ。
たとえば自分の部屋に彼女を招き入れても、俺は喋られないと思う。『自宅に家族以外の人間がいる状況』で、話せたためしがない。俺はため息をつくと、携帯を開いた。最近手に入れた彼女の番号を表示させる。当たり前だが、普段使うのはメールだ。
なのに何故かこの時、俺は通話ボタンを押していた。
窓を閉めながら、これは思いっきり反則だなと思う。声を出せるからって、自宅から彼女に電話するなんて。彼女が聞きたがっているのは、多分こんな声じゃないのに。
しかも今の彼女は、ほとんどの声を聴きとれていないし、その意味も理解していない。そんな状態の彼女に、電話してどうするんだ。そう思いつつも、どうしても言いたいことがあった。
いつか直接言うから、今はこの方法で。
ところが俺の期待は見事に裏切られ、呼び出し音が何度か続いた後、彼女本人ではなく留守番電話サービスに接続されてしまった。彼女が出るに違いないと意気込んでいた俺は肩透かしを食らいつつも、背筋を伸ばして深呼吸した。
『発信音の後に、メッセージを録音してください』
発信音を合図に、俺は大きく息を吸い込むと、その言葉を録音した。
たったの三秒で終わる、メッセージを。
翌日、放課後に出会った彼女は不思議そうな顔をしていた。彼女の方も学校が終わった直後らしく、制服姿だ。ちなみに彼女は、地区の違う特別支援学校に通っている。
偶然出くわした駅から二人で住宅街に向かって歩いていると、彼女が『ねえ』と切り出してきた。
『昨日、電話をくれたでしょう。あれ何?』
聞かれるとわかっていたくせに、どきりする。彼女はやっぱり不思議そうな顔をしたままだ。
『すごく短い録音メッセージを残してたよね。なんて言ってたの? どうしても分からないから、部屋に置いてるサボテンに訊いてみたら【秘密】だって言うし……』
彼女が部屋にサボテンを飾ってあるというのがなんだか可愛くて、少し笑ってしまった。それと同時に、気の利くサボテンだと感心する。
反則勝ちをした俺は、笑みを浮かべて答えた。
『勇気が出た時、もう一度聞いてみて』