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『気に障ったのならごめんなさい。別に答えてくれなくてもいいの。ただ、気になっただけ。あなたは私以外の人と接するときでも、――入場券を買うときも、この売店でも、話そうとしなかったでしょう? だから……』
国語の音読で、漢字の読みが分からずに苦戦しているような顔をして、彼女は言葉を繋げる。俺は首を振った。
『……君は【ばめんかんもくしょう】って知ってる?』
場面緘黙症という手話を知らなかった俺は、ひとつひとつをひらがなで表した。案の定彼女も知らなかったらしく、それは何? と首を傾げた。
『学校や外出先みたいな、特定の場所や状況で話せなくなる症状のこと。――俺は子供の頃から、自宅以外の場所では話せないんだ。声が出なくて』
彼女はしばらく考えてから、やはりはっきりとしない動作で問いかけてきた。
『それは、……精神的な問題?』
『――うん』
『そうだったんだ。……訊いてもいいかな?』
『喋れなくなった理由?』
『うん』
流石に、少しだけ迷った。あまり掘り返したくない話題ではあるが、誰かに聞いてほしい話でもあったからだ。いや、本当は秘密にするような重大な事でもない。ただ俺が、恥ずかしくて言えなかっただけで。
この話を知っているのは今のところ、家族とスクールカウンセラーだけだ。だけど、彼女になら、――彼女なら。
『……保育園の頃にね、友達から『お前は話すな』って言われたんだ』
彼女はきょとんとしていたが、やがて『どうして?』と返してきた。
『向こうとしては、ちょっとした遊びのつもりだったんだと思う。『楓君は話しちゃダメ、話したとしても楓君の声は誰にも聞こえない』って言われたよ。それでも声を出そうとすると、先生にはバレないように手をつねられたり、足を踏まれたりするんだ。給食のおやつを全部取られたうえ、このことは話しちゃだめだよって釘を刺されたこともある。その程度のことだったんだけど、当時の俺としてはなんていうか……ショックだった。俺が話しても意味がないんじゃないかって、そんな気がして』
――ねえ、遊ぼうよ。
「誰か何か言った?」「ううん、何も」
――みんな、本当は聞こえてるんでしょう?
「何も聞こえないよね」「うん」
――痛いよ、やめて。
「かえで君、何か言った?」「聞こえなーい」
あれがいじめだったのか、単なる遊びだったのか、俺にはもう判らない。ただ、そんな些細なことがきっかけで、五歳の頃から話せなくなった。
つまらない理由だと自分では思う。けれど、彼女は笑わなかった。
サルビアと【まめぐんばいナズナ】が、俺たちの様子を見守っているような気がする。彼女はしばらく何かを考えてから、ふっと顔をあげた。
『話せるようになりたいって、思う?』
質問の意図が分からず、それでも俺は素直に頷いた。ただ、話す勇気がどうしてもないんだ、とも付け足す。彼女は笑った。
『けれど、それってすごいと思う。私だったら、話したいとすら思わないかもしれない』
『そうかな』
『そうだよ。だって私は、人の声を聴けるようになりたいと思わない――ううん、思わなかったもの』
彼女は植物園を見渡すようにした。ここからだと、入場口付近にあったパイナップルのような木がよく見える。しばらくそれを眺めていた彼女は、やがて俺と向かい合った。
『私はね、植物を介して人の言っていることが分かるの。だから近くに植物さえあれば、不自由だと感じることはない。――けれどそれ以前の問題で、人の声は聞きたくない。人が言っていることと思っていることがどれだけ違うかを、今まで散々思い知らされてきたから』
植物は人の本性を見抜いているから、と彼女は苦笑した。
『植物は嘘をつかない。嘘をついたところで何の利点もないって知っているから。植物は悪口も言わない。言ったところで虚しくなるだけだと知っているから。――けれど人間はどう? いつでも平気で嘘をついて、言葉で人を陥れて、悪口をぶちまけることでストレスを発散しようとする。……死ね、だなんて娘に対してでも平気で言う』
返事のできない俺は、ただ見守っているだけだった。――植物のように、静かに。
『人を陥れるような否定するようなそんな言葉、耳で直接聴きたくない。…………人間の声は、怖い』
そう宣言すると、彼女の両手は動かなくなってしまった。俺も何も言えなくて、二人の間にサルビアを挟んだ構図のまま時間が止まった。
しばらく彼女は無表情だったが、やがて少しだけ照れくさそうに、でもねと続けた。
『少しだけ、人間の声を聴きたいと思うときがあるの。今日は今までで一番強く、そう思ったかな』
『そうなんだ。どうして?』
彼女ははにかむと、そっぽを向いてしまった。耳はサルビアの花のように真っ赤になってしまっている。そんな反応をされるとかえって聞きたくなるが、逆に聞きづらくもあった。
思わず、彼女の腕を引く。彼女は拒まなかったけれど、驚いたような表情をした。俺は慌てて手を放すと、収拾のつかないような動きで両手をバタバタと動かした。
『えっと、あの、だから、そろそろ行こう』
彼女はつられるようにして笑うと、赤い花と、その中でひっそりと咲いている白い花に向かって『またね』と手を振った。
俺がこの植物園に来るのは五年ぶりで、しばらく来ていない間に『漢方コーナー』なるものが新設されていた。……こんなコーナーに需要があるのだろうか。
足を踏み入れてみると、花のそばにはその花の名前と、どういった漢方に使われるのか、どのような効能があるのかが詳しく書かれていた。案の定というか、ほとんどの人は最初こそ楽しんでいるものの、だんだんと飽きてきて早足になっていく。ある意味、穴場のコーナーだった。
俺たちはゆっくりと、そのコーナーを巡回する。ウイキョウ、ウコン、ナンテン、ムクゲ……。ウコン以外ほとんど知らないのは、俺に教養がないからなのだろうか。
『……このコーナー、説明文を見てもよくわからないね』
彼女も苦笑している。俺はそうだね、と頷くほかない。
『人間に素通りされてるなんて、勿体ないし悲しいよね。さっきの白い花もそうだけど』
俺の手を見ていた彼女の双眸は、ふと俺の目をとらえた。気恥ずかしさと苦しさの混ざった顔。俺はなぜか、それから目を逸らせなかった。
そっと動く、白くて細い指と腕。
『――さっき、人間の声が聞こえるようになりたいって言ったでしょう』
『……? うん』
『昔は、自分の声はどんなのなんだろうとか、このボーカルはどんな声なんだろうとか、そう思ってた。けれどね、今は違うの。正確にいうと【人間の声】が聞きたいんじゃない』
『……それじゃあ一体』
『あなたの声』
彼女の手が若干震えていることに、気づく。それでも彼女は、彼女の瞳は、揺れなかった。
『私は、あなたの声が、聞きたい』