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日曜日。俺は近所にある大きな植物園に来ていた。入場券売り場の前で一人、彼女を待つ。その間、何度も時計を確認した。入場券売り場のお姉さんが、こちらを睨んでいるように感じたからだ。早く券を買えよ、と思われているのかもしれない。俺は平然を装いながら、彼女が一刻も早くここにやってくることを念じ続けた。
『ごめん、お待たせ。どこに行くんだってお母さんがしつこくて』
三分ほど遅刻した彼女は申し訳なさそうな、そしてうんざりしたような顔をしていた。そんなに待っていないから大丈夫だよ、と返す。そう、俺も待ち合わせ通りに来ていれば、さほど待っていない。ただ、俺が十五分以上フライングしていたせいで、二十分ほど待つ羽目になっただけだ。
淡い黄色のワンピースに、白のカーディガンを合わせている彼女は、俺の隣――正確には足元近くにあった花壇に目をやった。受付前にある色とりどりのポーチュラカは、湿ったような葉を伸ばして日光を浴びている。彼女はしばらくピンクや黄色の花々を見つめていたが、やがてくすりと笑うと顔を上げた。
『ずいぶん待たせたみたいだね。ごめん』
俺は思わずポーチュラカと彼女を見比べた。俺がそわそわしていたことも、バレていたりするのだろうか。
『――いや、俺が早く来ちゃっただけだから。行こうか』
このポーチュラカはお喋りなんじゃなかろうかと思いながらも、俺は入場券売り場に向かった。
俺と同い年の彼女――藤崎すみれは、人間の声が聞こえない。家族を含めた周囲の人々は『すべての音が聞こえていない』と思っているらしいが、実のところ『人間の声以外』はきちんと聞こえている。たとえば電話の着信音や鳥の鳴き声、自動車のエンジン音なんかは、何の問題もなく聞こえているそうだ。
ただ、人間の声だけが聞こえない。これは『機械』であっても同様で、ATMから聞こえる女性のナビゲーションや、留守番電話サービスの声なんかも全く聞こえないらしい。流行りの音楽を聴いたらどうなるの? と訊いたら、ボーカルだけがすっぽりと抜けたインスト状態で聞こえるのだと返された。試しに、ボーカロ(最近流行っている、歌唱するロボット)の音楽も聞かせてみたが、これもやはり聞こえないと言われた。
ただ、その代わりというのも妙の話だが、彼女には『植物の声』が聞こえるのだという。
『……こんな大きな植物園に来て、うるさくないの?』
胡蝶蘭の咲き誇る部屋を回っているとき、なんとなく気になった俺が尋ねると、彼女は口角を上げるようにして笑ってみせた。
『あなたは疑うことを知らないの? 私の周りはみんな信じてないよ、こんな話』
『……だけどさっき、花と話してたみたいだったから』
『うん。あの花は結構お喋りだった。……植物ってね、寡黙な子たちが多いの。だからそんなにうるさくない。というか、正確にいうと声が聞こえるわけじゃないから』
『どういうこと?』
俺が訊くと、彼女は手の動きを止めた。視線の先には、ピンクと白の胡蝶蘭が交互に、整列するようにして並んでいる。彼女はやがてゆっくりと、考えながらも手を動かし始めた。
『――声が聞こえるというよりは、言葉が頭に入ってくる感じ。……小説を読んでいるときに近いかもしれない。登場人物の声はわからないけれど、セリフは読めるでしょう? ああいう感じで、声はわからないんだけど言葉はわかるの』
『へえ……。会話もできるんだよね?』
『うん。植物は、人間の言葉や思考が分かるみたい』
怖い話を聞いた。植物が人間の思考を読み取れるだなんて。爽やかな笑顔を作っているその裏で、どろどろの世界があることを理解しているということか?
『――あそこにある黄色の胡蝶蘭が、怖がらなくていいよって』
その言葉に、俺は笑うしかなかった。
彼女の『植物』には独特の定義がある。
まず『植物の数』は茎や花の数ではなく、根でカウントする。たとえば地面から茎が二本伸びていていても、それらが一つの根っこを共有している状態なのだとすれば、それは『二つの植物』ではなく『一つの植物』になるらしい。また、果実や種子の声は聞こえない。たとえば木に成っているリンゴや、たんぽぽの綿毛、舞い散った桜の花びら――そういうものの声は一切聞こえないようだ。まあ、もしもこれらが聞こえてしまったら相当な量になると思うけど。
彼女に聞こえる声は『根が生え』『地中から茎(あるいは幹)が伸びている』『枯れていない植物』に限られる。それ以外は聞こえない。
名前も知らないような花の間を縫うようにして、二人で歩く。当たり前といえば当たり前だが彼女の方が植物について詳しかったので、植物の名前やその生態なんかをいろいろと教えてもらった。
彼女と知り合ったきっかけであるあの銀杏を助けようとしたときは、彼女と仲良くなるつもりなんてなかった。というよりは、知り合いになれるなんて思ってもみなかった。なのに今、こうして二人で歩いて笑っている。こんな日が自分に来るなんて、想像すらできなかった。
そんな事を考えていると、軽く肩を叩かれた。俺が振り返ると、彼女は人差し指を伸ばして自身の顎にあて、軽く首を傾げた。俺も首を傾げる。
『不思議……? 何が』
『あなたとこうして、笑っていられること』
内心で、どきりとした。だってそれはまさに今、俺が考えていたことだからだ。
『私は、人と話したりするのが苦手。だから、あなたとこうして普通に話せることが、とても不思議。どうしてだろう?』
『――俺も、人と話すことが苦手なんだ。だから、君と一緒にいられるのは、不思議だ』
そう返すと、彼女は『質問したのに解決しなかった』と笑顔を見せた。
小さな休憩室があったので、二人でベンチに座った。休憩室には小さな売店も併設されていて、ポストカードや押し花の栞が売ってある。彼女が紅茶を飲んでいる間、俺はお土産コーナーを見て回った。何か買ってあげたら喜ぶかな、なんて思いながら。
ところが振り返ってみると、肝心の彼女がいない。慌てて周りを探すと、彼女は休憩室近くにしゃがみこみ、そこにあった鉢植えをまじまじと見ていた。わざとらしく大きめに足音を立てて近づくと、その音に気付いた彼女は振り仰いだ。
『何してるの?』
尋ねると、彼女は声を出さずに笑った。
『これ』
彼女に促され、目をやる。赤いサルビアが空に向かって背筋を伸ばしていた。けれど、サルビアの鉢植えは他にもいくつか置かれていて、さほど珍しいものでもないのに。
『この赤い花がどうかした?』
『赤? ……ああ、違う。ここだよ、ここ』
言われてもう一度見ると、ぺんぺん草のようなものがサルビアに隠れるようにして、ぽつりと咲いていた。陰にいるせいで、その白い花もよく見えない。
『ええと……これはぺんぺん草?』
『違う。ぺんぺん草ってナズナのことでしょう? これはナズナそっくりだけど、【まめぐんばいなずな】っていう種類の子だよ。実の形が丸いし』
『……へえ』
まめぐんばい、の変換も分からず、とりあえず感嘆した俺に彼女は微笑んだ。サルビアの間に手を伸ばし、ぺんぺん草そっくりのそれが千切れないよう丁寧に引っ張り出す。日光の下で見るそれはやっぱりぺんぺん草そっくりで、けれども何故か道端のぺんぺん草ほど力強く見えなかった。
『この子はね、サルビアを羨ましがってるの』
彼女は白い花を撫でると、俺の方を見た。
『この鉢植えでは、サルビアが主役だからって。真っ赤で、綺麗で、みんなから褒められるのが羨ましいんだ。自分は地味で目立たなくて雑草だから、恥ずかしいって言ってる』
俺は彼女の両手から、白い花へと視線を移した。弱々しいその花は、確かに少し気おくれしているように見える。俺は笑うと、白い花と向かい合った。
『恥ずかしくない。君だって綺麗だよ』
彼女は俺の手話を見て目を細めると、白い花を数回撫でた。それからおもむろに立ち上がると、今度は俺と向かい合う。
『……あなたは』
それは少しだけ躊躇うような、いつもよりも鈍い手話だった。
『あなたは、聴覚障害があるわけじゃないんでしょう? なのにどうして、話そうとしないの?』
――かえで君はお人形の役なんだから、話しちゃだめだよ。何を言っても、僕たちには聞こえないんだからね。
当然ともいえる彼女の質問に、俺は目を伏せた。