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どうして外で話さないの、と母に尋ねられたのは小学二年生の時だった。――今日、家庭訪問だったでしょう。先生に言われたのよ、楓君が教室でお話ししているところを見たことがないんですよって。
なんでもない、話したくないから話してない、そう答えた覚えがある。母の次の質問は、ケンタ君とはお話してるんじゃないの? だった。
『ケンタ君』が俺の作り出した架空の友達であることに、母は気づいていなかったのだ。
そうだね、ケンタ君とはお話しするよ。でもケンタ君とはクラスが違うから、教室でケンタ君と話すことはないんだ。だから先生は、僕が全然話さない子だって思ってるだけだよ。
ケンタ君が実在しない人物であること、そして俺が五歳の頃から『自宅以外では話さない』子供だと気づかれるのに、そう時間はかからなかった。
「……あーあ」
テスト勉強を軽く諦めた俺は、読んでいたものを放り投げた。英語の教科書は鳥のようにバサバサと音を立てながら、無事ベッドの上に着地する。虹の上にいる男の子が、笑顔でこちらに手を振っているのが見えた。そういう話が出てくるわけでもないのに、どうしてこの絵を表紙に採用したのかはよく分からない。
英語の授業は苦手だ。問答無用で全員立たされ、『ハロー、エブリバディ』『ハロー、ミス・ヤマダ』という謎の儀式を繰り返しやらされる。あれが苦痛で仕方ない。口パクといえど、こちらは口すら開けたくないのに。
――話すなって言ったじゃない。気持ち悪い。
嫌なことを思い出した。俺は顔をしかめ、勉強机の電気を消した。椅子から立ち上がり、勉強机の隣にある本棚に手を伸ばす。漫画本を数冊素通りして、ふと手を止めた。
風に揺れる、白のシフォンブラウス。
俺は人差し指をかけ、『ここから始める手話辞典』を引き抜いた。
何か習い事をしないとダメだ。どうしてそう思ったのかはもう覚えていない。ただ、社交的にならなくてはいけないと思った記憶はある。学校で話していないことがバレたのに焦り、名誉挽回を図ろうとしていたのかもしれない。
だが、自宅以外で話せない自分が何を習いに行くのか。自宅ですら、家族以外の人間がいるときは話せなくなるのに。そうなると、家庭教師すら苦痛だ。
そうして話せない俺が選択したのは、
「お母さん。僕、手話教室に行きたい」
口ではなく手で気持ちを伝えることのできる方法だった。
「……教室をやめてから、教科書使うのは久しぶりだな」
自室でひとり呟きながら、教科書であった本をめくっていく。内容は案外覚えているもので、基本的な日常会話なら今でもできるだろう。
結局というか、二年前――小学六年の時に手話教室はやめてしまった。話す話さない関係なく、自分はコミュニケーションが苦手なのだと悟ったからだ。手話自体は好きだったし、覚えがいいと先生に褒められたが、ほかの生徒と絡むことはなかった。淡々と授業だけ受けているのでは、学校と何も変わらない。そう考え、小学校を卒業すると同時に止めてしまった。
それからは、手話を使うこともなく生きてきた。学校で誰かとコミュニケーションを取る気もないし、手話のできる同級生がいるわけでもない。家では普通に話せるので、手話は必要なかった。
教室の外で手話を使ったのは、これが初めてかもしれない。そう考えて、ふと笑った。
「まだ使ってないんだった」
使ってる人を見ただけで、自分はまだ相手に話しかけてすらいないのだ。
彼女と再会したのは、それから二週間後だった。下校途中、もしかしたらまた会えるかもと期待して回り道し続けたのが功を奏したようだ。
彼女は相変わらず、銀杏を見つめていた。ただ、今日は木の下ではなく少し離れた場所にいる。この前と同じ白のシフォンワンピースは、やっぱりよく似合っていた。
……声をかけてみたい。
そう思った自分に驚いた。誰かに話しかけたいなんて、思ったこともなかったのに。
けれど、話しかけられるだろうか。口を開くものの、言葉どころか声も出てこない。家であれだけ話せるのが、不思議なくらいだ。
……いや違う。声が出なくても、手話さえできれば。
その時、彼女が不意に右方向を見て悲しげな顔をした。つられて、俺も同じ方向に目を向ける。作業着のおじさんたちが、銀杏に近づいていた。さらに、クレーン車のような大きな車まで。
作業員らしき人たちは、談笑しながらも銀杏の木を指さした。
「ああ、あれか」
「さほど大きくないですが、鳥の被害が多いとかで近隣の方から苦情が来たそうです。確かに、鳥が巣を作っていますし、木そのものが弱いのか若干枯れ始めています。剪定も検討したそうですが……」
「伐採か。まあ、こっちも仕事だからなあ」
――伐採? 俺は耳を疑った。そう言われてみれば、あの木は少し元気がなさそうに見える。けれど、まだ完全に枯れているわけじゃない。なのに伐採するっていうのか?
彼女へと視線を向けた。耳が不自由なのであれば、今の会話は聞こえていなかったはずだ。なのに彼女は、やたらと寂しそうな顔をしていた。
深く考える前に、俺は走りはじめていた。
どうにかして、作業を止めないと。あの銀杏の木はきっと、彼女にとって特別な存在なんだ。
血相変えて飛び出た俺に、作業員たちはうろたえたようだ。一斉に視線を注がれ、一気に気恥ずかしくなる。作業員だけじゃない。彼女も、俺を凝視していた。だけど、伝えなければならない。
この木は伐らないでください、その一言を。
俺は作業員と銀杏の間に立つと、酸素不足の金魚のようにぱくぱくと口を開いた。苦しそうな顔になったので、本当に酸欠だと思われたかもしれない。しかし、どれだけ頑張っても掠れた息が出るばかりで、声なんて到底出そうにもなかった。
「なんだ? どうした」
作業員の一人が、俺の顔を覗き込んできた。体調不良だと思われたらしい。俺はあいからず、無言に近い掠れた声しか出せない。これならまだ、呻いているゾンビの方が大きな声を出せているだろう。
声を出すのをあきらめた俺は、銀杏を指さし懸命に首を振った。けれどもそんな動作で、気づいてくれるはずもない。作業員は首をかしげるばかりだ。
筆談するしかない――スクール鞄を開きかけた俺の手を制止したのは、彼女の細い指だった。
驚いて顔を上げると、微笑んでいるようにも無表情にも見える顔で彼女は首を振った。俺の手首をきゅっと握り直すと作業員に一礼し、歩き始める。手首をつかまれている俺は、彼女に引きずられるようにしてその場を後にした。
青々とした銀杏の葉が、別れを惜しんで手を振っているように見えた。
彼女はしばらく道なりに歩き、団地の中を突き進んだ。いくつかあった人気のある公園を素通りし、ベンチが備え付けられているだけの花壇に来ると、不意に足を止める。勢い余った俺は、彼女の背中に突進しかけた。内心で悲鳴を上げながら足踏みするようにして、なんとか立ち止まれたけれど。
振り返った彼女は俺の手首を解放すると、両手を動かそうとした。だが、何かを思い出したように手を止めると、俺に向かって頭を下げた。
俺は少しだけ考えて、右手の小指を伸ばした。それから、小指の先を顎に二回あてる。『構いません』『どういたしまして』という手話だ。彼女ははっとしたように、俺の顔を見た。緊張しつつも、俺は手話を続ける。
『前にあの銀杏の木の下にいた君を見たことがあったから、覚えてた。俺もある程度手話はできるんだ』
彼女は俺の手話を見て、ふっと頬を緩ませた。今度こそためらいなく、両手を動かしていく。
『そうだったんだ。ありがとう』
『いいんだ。でも、君はよかったの? あの銀杏……』
『いいの』
彼女の即答に、俺は目を疑った。てっきり、あの木は思い出のものかと思っていたのに。
そんな俺の表情を見て取ったのか、彼女は続けた。
『確かに私は寂しいけれど、あの木は自分の死を受け入れていた。そのうえで、死んでしまう前に話を聞いてほしいって言っていたの。だから、私はあそこにいた。けれどさっき、もういいよって言われたから――』
『……言われたって誰に?』
『銀杏の木に』
訳がわからず首をかしげる俺に、彼女は微笑んだ。信じてくれなくてもいいけど、と前置きをしてから、はっきりとこう宣言した。
『私は、人間の声が聞こえない。その代わりに、植物の声が聞こえるの』