ぼくは、今度こそ
経験したことや出来事は忘れることがなく、ぼくたちの意識の奥の奥にしまいこまれて、思いがけず、あるいは必要に応じて取り出されるという話があるらしい。
ぼくがそれを実感したのは、弟のイブキに部屋を作ってやるため、久しぶりに物置になっていた一室を掃除していて、幼稚園時代の、ピノキオの劇をやった時のブルーレイディスクを見つけた時だった。
ぼくの役はピノキオを作ったおじいさんだった。下手な歌を歌って、ぎこちないダンスをして、ピノキオ役の男の子にキスのまねをして(実際に口づけしたわけじゃないよ)……。
7歳の誕生日のとき、家族とケーキを食べていた時のことだ。母の提案で、ぼくの成長のあかしとして、当時の素晴らしい演技の映像を流したのだけど、恥ずかしくてたまらなかったのを覚えている。ぼくはへそを曲げ、誕生日会は気まずい雰囲気になってしまった。
それ以来、この映像は、この倉庫と化していた部屋の奥へと追いやられた。それはぼくたち家族の頭の中でも同じこと、当時の記憶は、日々の新しい情報に上書きされていった。
「シンちゃんはそうだったんだね。オレの時は、ピノキオがやりたい人はみんなピノキオだった。おじいさんとか誰もやろうとしない役は、先生がやっていたよ」
「そういう役だって大事だよ。おじいさんがいなきゃ、ピノキオも生まれなかった」
「まあ、シンちゃんの言う通りだけど。……オレは何の役だったっけ。忘れちゃったよ」
毎日のようにサッカーに励み、嫌なことがあっても寝たら忘れる、イブキらしい言い方だった。
部屋から出てきたもので、ぼくの気を引いたものがもう一つあった。
それは1体のからくり人形だ。子どもの見た目をしていて、赤い羽織を付けた、お茶出しをするものだった。すでに壊れていて、からくりとしては動かなかったけれど、カビや虫がわいているということもなく、状態は悪くなかった。
それを見た時に、こんなことを口走った。
「これ……直せるかも」
父を驚かせてしまった。確かに、よく考えると変なことだ。
「え?いくらプラモデルが趣味だからって……」
「なんだか、見たことがありそうなんだ」
「それはないだろう、確かそれは、お父さんのお爺さん……慎太から見てひいお爺さんがどこかで手に入れたものだそうだ。詳しいいきさつは、聞いたことがないのだけれど。ひょっとすると受け継がれた記憶なのかも」
「ふうん。……これ、オレの部屋に置いて良いかな」
こうして、ぼくの部屋はゼロ戦や飛行機のプラモデルと一緒に、江戸時代のものらしい人形が飾られるという、不思議なことになった。イブキや母からは笑われたけどね。父は真剣な僕を見て、人形の業者に問い合わせたりしていたらしいけど、そこまでしなくて良いと言っておいた。
いつもの、朝の目覚めがやってきた。頭が重い。
別に、体の調子が悪い訳じゃない。頭痛のタネって言うのかな、「あいつ」が心にずっと引っかかってるんだ。
朝ご飯を食べるので、顔を洗った後、自分の部屋から、1階に下りて行った。すでにイブキが、コーンフレークをしゃくしゃくかきこんでいる。
ぼくはキャベツとプチトマトのサラダに、和風ドレッシングをたくさんかけて食べた。こうでもしないと、ろくに喉を通らないと思ったから。
イブキは鼻息荒い様子で、母と話している途中だった。
「ナガタをやっつけるの!」
ナガタという言葉は昨日の夜も聞いていた。ナガタはイブキの同級生で、ひどいいじめっ子らしく、何人もの生徒を不登校にしている問題児なのだ。イブキの幼なじみがターゲットになり、しばらく学校に来られなくなってしまった。イブキはこれに怒りだしている、という訳だ。
母は、みけんにしわを寄せ、イブキの手を握りながら言った。
「ナガタは確かに、イブキの言うようにひどい奴だと思う。でも、イブキが必要以上にかかわるものじゃないとお母さんは思うな。イブキが殴られたり」
母は、ふう、と一呼吸おいて、さも何か決心するように、続けて言った。
「いじめられたりしたら……悲しいもの」
ぼくは、母の言うことはもっともだと思った。いじめっ子は無視するのが一番効く、みたいなことをテレビのヒョウロンカも言っていたのを思い出す。
「でも、オレはあいつを許せない!母さんは心配しなくていいよ」
そういって、行ってきます!と叫びながら、イブキはカバンをつかみ、家を飛び出すように出て行った。
ぼくは、イブキの絵具セットが、イスに置かれっぱなしになっているのに気付いた。
母のみけんのしわは、一層深くなった。
「もう、あの子ったら……」
ぼくは、行ってきます、と母に声をかけ、絵具セットを持って家を出た。
登校する途中で少しだけ寄り道をして、小学校へ向かった。
ぼくもかつて通っていたところだけれど、久しぶりだから、何だかふわふわした気分だった。小学生はみな私服だったけれど、ぼくは夏用の制服(半そでのワイシャツにスラックスだった)を着ているので、完全に浮いていた。
小学生の中には大柄な子もいて、ぼくと同じくらいの身長の持ち主もあるが、たいていぼくの胸当たり、相当小柄な子だとぼくのへそより少し高い位、という場合もある。ほんの少し前まで、ぼくがその中の一員だったなんて信じられないなあ、と思った。
校門までたどり着いた。ぼくの5年生の時の担任だった大塚先生が立ち、あいさつ運動的なことをやっていた。
先生と目が合った。鳩が豆鉄砲を食ったようっていうんだっけ、あの顔は。
「新木くん?ずいぶん久しぶりだねえ、元気にしていたかい?」
あの頃より少し白髪が増えた気がするけれど、真ん中わけの髪形に、明るそうな声と、丸いフレームのメガネは同じだった。何より驚いたのは、とても大きく見えた先生が、今はそれほどでもなかったことだ。ちょうどまっすぐ立った時のぼくの目線は、彼のあごのあたりに来ている。
「もうお兄さんって感じだね!背も伸びて、制服もばっちり似合っているし」
「お兄さん……ですか?」
「あんまり実感ないかな?」
「はい。……」
「で、今日はどうしたの?中学校はあるでしょう?」
「あ、絵具セットを弟が忘れてしまったので、届けに来たんです」
先生は困ったように笑った。
「またか……そこはタマに傷って感じだね。……イブキ君を探しているなら、きっと校庭でサッカーをやっているはずだよ。誰よりも早くに学校に来て、校庭の一番いい場所を陣取っているから」
ぼくは先生と付き添いで校庭まで行き、イブキを探した。一番いい場所と言えば、ぼくらの代では、2番のサッカーゴールの前のスペースだった。
予想通り、イブキがいた。同学年の子どもたちより小柄ながら、自分より大柄の相手にアグレッシブにドリブルし、キレキレのパスやシュートを量産していく。防御面もぬかりなく、絶妙なスライディングでボールを奪い、相手のテンポを崩す。
度胸も運動神経も、はるかにぼくより上だった。
制服姿のぼくは、小学生たちにはだいぶ目立っていたようで、校庭がざわつくのがわかった。にわかに変わった空気に影響されてか、イブキとも目が合った。
持っていた絵具セットを見るなり、全てを理解したらしく、けらけら笑いながらぼくのもとにやってきた。
「忘れ物、届けにきたよ」
「シンちゃん、ごめん。これで何回目かな?3回目くらい?」
「もっとしてるよ。……とにかく、もう少し忘れ物には気を付けて」
「はーい。ほんとにありがとね」
ふと、ナガタを懲らしめる、という話を思い出した。大塚先生には聞こえないように、少し小声でイブキに話しかけた。
「イブキ、ナガタのことだけど……。本当にやる気なのか」
イブキは即答した。
「うん、仲間と一緒にやっつけるつもりだよ。いつにするか、っていうのはまだ決めてないけどね」
「もう少し、こう……平和な方法はないの?先生に言いつけるとか」
「あいつはケイスケをいじめて学校に行けなくした、とんでもない奴なんだ!シンちゃんやお母さんが何と言おうと、ぼくはやる。大丈夫、みんなで作戦を立てるから、負けないよ」
その顔は、どことなく大人びて見えた。
くれぐれも無茶なことはするなよ。としか言えず、もやもやした気分を抱えて小学校を出た。
昼休みに、トイレで小便をしていると、いきなり尻を小突かれた。
まだ後ろを確認していないけれど、間違いない。あいつ……、1年上の、クロウマだ。本名は本馬というのだけど、色黒で、足が速くガタイが良いので、ぼくらサッカー部の2年生は、彼のことを裏でそう呼んでいた。
恐る恐る振り返ると、案の定だった。大柄の体格に、吊り上がった目が、ぼくを刺す。さらにその後ろには、奴の腰ぎんちゃくが2、3人いた。
用は分かっていた。3日くらい前に、ぼくはクロウマから千円札をもらってお使いを頼まれ、ドラッグストアへ、制汗スプレーとヘアワックスを買いに走らされ、確か1200円ほどだった。物とレシートを渡すときになって、クロウマはお釣りを要求してきた。なんでも、2千円札を渡したはずだから、800円くらいは返ってこなければおかしいと言うのだ。それって、父と母が若い頃に一瞬だけあったお札だそうじゃないか。そんなのが都合よく、あいつの手元にあるものか。あまりにムチャクチャな言い分なので、ぼくは何となくはぐらかしてきたのだが、一昨日、昨日とこうして付きまとわれている。
「すいません、ホンマさん。ぼくは千円を渡されたので、お釣りはないはずです」
「ハハッ。……まだ言うのか。あのな、俺の財布にはな、超貴重な2千円札が、確かに入っていたんだ。あの日お前にお使いを頼んで、そしたらなくなったんだ。俺が間違って渡して、お前は何も考えずにそれを使った」
「あ、あの……間違いじゃ……」
「なんだって?」
奴の目の色が変わった。ビクンと心臓が跳ねた。
食われる。
体が汗びっしょりになり、ぼくは動けなくなった。
「ボーっとしてんじゃねえよ」
クロウマに横っ腹を蹴られた。
倒れこんだぼくは、何も言えない。財布を取り出す。震えが止まらない手で、800円を差し出した。
「また頼むわ、財布野郎」
クロウマはそう言い残して、便所から去った。仲間たちは思いっきり馬鹿にしたような笑みをこぼしながら、後をついて行った。
ぼくはそっと立ち上がると、目から熱いものが噴き出してきた。これは、ヤバい……
急いで空いている個室に閉じこもり、溢れるものをハンカチでふき取った。実際にクロウマと殴り合いの喧嘩なんかしたことないのに、どうしてぼくは、戦えないのだろう……。
悔しくて情けなくて、たまらなかった。
大塚先生の言葉を思い出す。
お兄さん、か。
小学生のころまで、イブキのほうが子どもっぽいか、と聞かれるとそうだと答えていたと思うけれど、最近になってそんな気持ちが揺らぐことが多くなっている。
こんな目に合わされるようになったきっかけは、先々週の、部活の紅白戦でのことだった。ぼくは紅組で、クロウマは白組だった。
クロウマがボールをタッチしたのを狙い、スライディングで奪おうとした、その時だった。一瞬、クロウマと目が合った。ドキリとしたが、恐れるな、突き進め!と自分に言い聞かせ、クロウマの足元に滑り込んだ。
柔らかい感触が足先に伝わって、キーパーのハッシーのもとにボールを蹴り飛ばすことができる……!
急に目の前がゆっくりになった。大きな山のような体がぐらついた。倒れこむ先は僕の伸ばしている足だ。あ、やられた……
球ではありえない重さが脚にのしかかった。クロウマは、ぼくに触れてもいないのに、倒れこんできた。シミュレーションだ。
ホイッスルがけたたましく鳴り響く。クロウマがのたうち、うめいている。汗だくの肌をなでる風が、冷たかった。
良いニュースは、ケガが大して重くないということだった。
打撲だった。クロウマの体重をかけられ、左のすねを蹴られてしまったが、1週間ほどして練習に復帰できた。
クロウマもケガをしていた。突然何もないのに倒れこむという無理をしたせいで、ふくらはぎの肉離れを起こしたのだ。2週間くらいたったころ、再びコートに現れた。
悪いニュースは言うまでもなく、この事件をきっかけとして、クロウマのいじめが始まったことだ。
その日の学校の終わり、部活のない平日、ぼくはまっすぐ家に帰った。こんな日は、あれに限ると思った。
帰ってくるなり、さっそくゼロ戦のプラモデルの仕上げに取り掛かった。一昨日までに機体と主翼といった大まかな部分のペイントや、下地の塗装を済ませているので、今日はコックピットの中を塗ることにした。ボディの日の丸などに比べても、あまり目立たない場所だけれど、こういうところで手を抜くのは良くないと信じている。
やっぱりぼくは、何か目に見えるものを作ったり、丁寧なモノづくりをしていくのが好きだ。
今は、学校であまりプラモデルの話はしない。それはみんなが関心を持つ話題ではないためだ。小学生の4年生あたりまでは、あまり遠慮しないで色々な友だちにプラモデルのことを喋っていたと思う。で、相手も相手で、ぼくにとってあまり興味のない話をしていた。いつからかははっきり言えないけれど、相手に楽しくない話をして、場が白けていくということが怖くなった。
仕上げに取り掛かろうとした、その時だった。
「300年前から、まったく変わらず……。お人形作りに丹精をこめておられますね」
急に、優しそうな子どもの声がしたので、振り向いた。
「うわあっ!」
ぼくは床から転げ落ちた。声の主は、あのからくり人形だった。
「落ち着いてください。久しぶりだから動揺しておられるのですね」
からくり人形が話しかけてくるなんて。
ぼくは立ち上がるも、あっけに取られるしかなかった。そんなぼくを見かねたように、人形は言った。
「覚えていませんか?わたしは300年前、あなたによって作られたのですよ」
「300年前……って、オレは14歳だぞ」
「映像を見れば、きっと、あなたは全てを思い出すはずですから」
「……何を言ってるんだ?」
「今は信じられないかもしれませんが、わたしにお任せを。今晩は、あなたの人生にとって重要な一夜となるはずです」
言われた通り、ぼくは部屋の電気を消し、人形を持って白い壁の前まで立った。
人形の目から、光が出ていた。それを壁に映し出すと、何かの映像だということに気が付いた。
大きな川沿いにある、街の上空を飛んでいる。どうやら、昔の風景のようだ。市場に人が大勢歩いているし、活気があるけれど、建物はみんな同じくらいの高さの瓦ぶきで、トラックではなく、馬や人が荷台を引いている。
通りにたくさんの家が並んでいたが、そのうちの一軒に入った。木彫りの人形の顔に、ニスを塗っているおじさんがいる。多分、40歳くらいだ。おじさんは色々な人形に囲まれていた。あれは全部、彼の作ったものなのだろう。
おじさんのもとに、20歳くらいの若者が駆け込んできて、作りかけの人形を差し出して何か聞いている。彼の言っている言葉は、ぼくには聞き取れなかったけれど、何で悩んでいるかはすぐに分かった。腕の関節を再現するための仕掛け、これがうまく作れないと言っている。初心者ならよくあるつまずきだ。
おじさんのもとには、そのあとも何人か若者が訪れては、自分の作品を見せていた。良く出来たものはあえて細かく注文し、出来の悪いものは具体的にどうしたらいいか言葉をかけていた。
ここで映像が変わった。舞台はおじさんの工房だったが、杖を持って歩いているものの、体格のいい男と、涙ながらに手を取り合っている映像だった。
ぼくは、男に見覚えがあった。顔立ちは全然違うが、雰囲気や目元は、活気にあふれ、燃えるようなエネルギーに満ちていて、いつも顔を合わせている気がしたんだ。
(彼は……イブキのはずだ)
男は傷痍軍人だった。ある作戦で大けがを負い、一命は取り留めたが、引退した。その後、新たな人生の一歩として、妻を連れ、弟と一緒に生きていくことを決めたのだった。
その奥さんに見覚えはなかったけれど、もしかしたらイブキが見たらわかるのかもしれないなと思うと、何だか身震いがした。
場面がまた、がらりと切り替わる。今度は燃えるこの街の映像だった。
隣国から大量の軍隊が送り込まれ、間もなく襲撃されるという情報が流れて、街はパニックになった。追い打ちのように、各地で略奪を行っていた盗賊たちが現れ、夜の街に火を点けたのだ。
奴らのリーダー格の男は、ひときわ大柄で、あばた面だった。その吊り上がった目を見て、ぼくはあの左足のすねにズキりと痛みを覚えた。
(まさか、あいつが……)
ぼくたちは、火の手が迫る前に工房から逃げ出そうとしたが、盗賊たちはすでに部屋に入り込んでいた。ぼくたちは取り囲まれ、地面へ体を押さえ込まれた。
そんな中で、盗賊は軍人の奥さんに注目した。右耳にきれいな耳飾りをしているのに気が付いたのだ。
耳飾りは中々外せなかったので、あばた面の男は言った。
「もういい、耳ごと引きちぎれ!」
そういわれた男は、一瞬ためらったが、さっさとしろ!というあばた面の言葉に怖気づき、彼女の耳に刃物を突き立てた。
「やめろ!」
軍人が叫んだ。だが倒れた彼を、何人もの男がのしかかり、取り押さえる。
おじさんは倒れた兄を助けるため、抵抗しようとしたが、組み付かれていて無駄だった。兄が一人で盗賊に立ち向かっていくのを眺めていることしかできない。
女性は男たちに押さえ込まれていたが、それでも激しく暴れた。それで耳飾りは外れ、男がそれを拾い上げてあばた面に差し出す。
「ヒスイでできているな。売ればそこそこの額になるはずだ」
奴らが部屋を去ると、炎は一層激しくなってきた。火花や燃えカスが天井から落ち、地面をも焦がそうとしていた。
おじさんは左足を刺されていた。みんな、傷だらけになって、燃え盛る工房に残された。
「兄さん、早く逃げよう」
おじさんはうつ伏せで横たわっている男に言った。腹を押さえて、苦しそうにうめいていた。様子がおかしい。取り押さえるのに手を焼いた盗賊たちが、彼を刺したに違いなかった。
「行け」
異様な寒気がして、背筋に、べたべたした汗が流れるのが分かった。
「そ、そんな……兄さんを見捨てるなんて……おれには出来ないよ」
「お前……そんな体で、おれと彼女の2人を抱えて逃げるなんて無理な話だ」
意識を失っている彼女を抱え上げたが、左足に激しい痛みが走り、とても兄まで助け出すのは出来ないと悟った。
兄の顔色が急に真っ青になり、呼吸もますます弱くなっていった。
「彼女の顔を……見せてくれないか」
女性の顔は、煤と泥、鼻血で汚れていた。何発か殴られてしまったのか。かつて、街一番の美女と言われた面影は、そこにはなかった。
「兄さん、よく見えないかもしれないけど、いつも通りきれいだよ!いや、部屋が明るいから、いつも以上に美人かも!」
段々と鼻の奥が痛くなり、涙声になっていくのを抑えられなかった。
「そうだ、そうだよ……兄さんの奥さんなんだから……最後まで……」
ひっく、ひっくとおじさんはしゃくり上げた。
ははは、と兄は霞のようにわらった。
「相変わらず、お前は……。奴らめ、次に会ったときはただじゃ済まさねえ……彼女に付けた傷を……そっくり返してやる……」
がくり、と兄は事切れた。おじさんは兄の肩を何度も揺さぶったが、ダメだった。
天井の梁が炎に屈し、兄の胸のあたりに落ちた。おじさんは女性を抱えて、逃げるように工房から飛び出した。
全てのことから目をそらしていた。人形たちのことも。工房も。兄のことも。
場面が変わった。女性の墓の前に、おじさんは立っていた。昔の写真のように、灰色の映像だった。
医者にこのように言われたのを思い出した。
「お連れ様は、ご自身の血で窒息してしまったのでございます。殴られて鼻血がたくさん出たとのお話でしたが、その時にどなたか、息が止まらないようにお世話をすることが出来れば……」
兄の言葉を思い出した。
「彼女を守ってやってくれ」
ぼくは何の約束も守れなかった。誰も守れなかった。
ブツン、と映像が途絶えた。
ぼくは涙が枯れるくらい泣いていた。呼吸が苦しい。
「あの火事でも、わたしは奇跡的に燃えずに済んだ。街がだいぶん復興したあとに、わたしはとある骨董マニアに買われ、何回か持ち主が変わったのちに、……あなたのもとにやってきたのです」
でも、少しすっきりした感覚もあった。ごちゃごちゃのパズルのピースが一気にあるべき場所に収まる、そんな気分だった。
冷蔵庫にコーヒー牛乳があったので、母とイブキの目を盗み、部屋に持ち込んで飲んだ。顔がぐちゃぐちゃだったので、そういう意味でも気を遣った。わざとらしい甘ったるさが、かえってぼくを落ち着かせた。ふう、と一息ついてからぼくは言った。
「それにしても、イブキに、本当に申し訳ないことをしてしまったな」
「いえ、悪く思う必要はありませんよ。……あなた自身考えてほしいのです。今、悩んでいることがありますよね?」
正直、心当たりしかなかった。
「う……だ、だからと言って、ナガタの問題に首を突っ込みすぎたり、クロウマに真っ向から喧嘩するとかは、ちょっと……」
「そこまでしなくても大丈夫です。肝心なのは『守り切る』という純粋な決意ですよ。それが案外、卑怯者には効くのです」
「うーん……」
そのあと、からくり人形は、満足したように力尽き、言葉を失った。
母が夕食が出来たと呼びに来た。今日のご飯は、イブキの大好物のハンバーグだった。
イブキはご満悦の表情でハンバーグに食らいつく。
「ハンバーグ、もっとお代わりしていい?」
母が困ったように笑いながら言った。
「ごめんねイブキ、今日は一人2つまでね……」
ぼくはすぐに、手元のハンバーグを差し出した。
「オレのもあげるよ」
彼の顔が、太陽のように晴れ渡った。
「ありがとう!シンちゃん!」
ナガタから、君を守らないと……。
「……あれ、やっぱり欲しかった?」
僕の顔を見て、心配そうにイブキは声をかけてきた。
「……いや、大丈夫だよ」
ぼくの心は、確かに燃えていたのだった。
次の日、サッカー部の練習が始まるので、部室のベンチに座り、着替えている時だった。
「ちょっと買い物頼まれてくれねえ?」
肩を叩かれ、振り向くとやはりクロウマだった。仁王立ちでぼくを見据えている。
「誰かさんのせいで、まだ痛い足用の湿布と、アンパンと缶コーヒー、マンガ。500円で足りるよな。行ってこい」
あの吊り上がった目は、やっぱりまだまだ怖かった。
でも、ぼくは昨日までとは違う。……一瞬だけ目をそらした後に、覚悟を決めて、あいつの目をまともに見て言ったんだ。
「……行かない」
「あ?」
「もう、オレはあんたのパシリじゃない。もう何も、奪わせない」
『純粋な決意』は本当に効いた。
ほんのわずか。1秒もない位だけれど、確かにぼくは見た。あいつの顔に、「怯え」が走っているのを。
「へッ。……ガキが、いきりやがって!」
唾を吐き捨ててクロウマは部室から出て行った。
この日の練習は、いつもよりみんなからパスを振ってくれた気がした。
あくる日の朝、母も父も仕事でぼくたちよりも早く出発している日に、ぼくはイブキと二人きりで朝ご飯を食べていた。
彼の右の耳たぶを見ると、何かあざのようなものが見えた。誰かにやられたのか。いや、今まで気づかなかっただけか。
……今度こそ。今度こそは『守り切る』。
ぼくは勇気を出してこう言った。
「イブキ……ナガタのことだけど。……オレが出来ることだったら、協力するよ」
イブキは驚いた顔でこちらを見た。
「お前に傷ついてほしくないんだ。ちょっとお兄ちゃんが頑張らないとな、って思ってさ」
「シンちゃん……急にどうしたの?……なんか、恥ずかしいなぁ……」
急にぼくも顔が熱くなってきた。
「でも……ありがとう。オレ、シンちゃんを悲しませたくないから……、あ、母さんもだけど……、なるべく良い方法を考えてくるよ!」
「何か思いついてるのか?」
「うん。ナガタをぶっ飛ばすっていうより、ケイスケを守るってところを頑張るつもりなんだ。そうしたほうが、優しいあいつも喜ぶし、シンちゃんも良いアイデア出そうだなって」
「……良い。それが良いと思うよ!オレもイブキを守るために頑張るよ!」
「あ、でも、シンちゃん、母さんには内緒ね……なんか知られたくないから」
行ってきます!とイブキはまた跳ねるように家を飛び出していった。その背中を、ぼくは見送った。
あのころに比べると大分小さい体だ。だから、今度は、ぼくが背負っていかなきゃ。
靴の紐をぎゅっと締めて、左足のすねを叩く。もう、何も痛くない。
よし、大丈夫だ。
ぼくは立ち上がり、今日の一歩を踏み出していった。




