見返す女たち-間宮響子-
その動画は、再生した瞬間から“見てはいけないもの”の気配を孕んでいた。
――ザザッ……ザ……。
画面は荒れ、音声は割れ、しかし確かにそこに“誰かの息遣い”があった。
「……見つけた」
低く、湿った声だった。
だが、それは小笠原隼の声ではなかった。
間宮響子のもとを訪れたのは、大学生の青年だった。名を桐谷慎也という。
彼はやつれ切っていた。目の下には濃い隈があり、眠っていないのが明らかだった。
「……あいつ、帰ってきたんです」
震える声で彼は言った。
「でも、違うんです。あれは……もう、あいつじゃない」
桐谷はスマートフォンを差し出した。
そこには問題の動画が表示されていた。
再生回数は、まだ数百。
コメントはほとんどない。
だが、それでも“見た者の数”は、確実に増えている。
響子は再生ボタンを押した。
画面は夜の廃墟――有名なラブホテルだった。
崩れかけたネオン看板が風に揺れ、「LOVE」の文字が「LO」だけを点滅させている。
カメラは手持ちで、不規則に揺れていた。
「……ここ、マジでヤバいっすね」
小笠原隼の声。
だが、どこか遠い。まるで水の中から聞こえてくるようだった。
廊下は長く、異様に長く、奥が暗闇に溶けている。
壁紙は剥がれ、湿ったシミが人の顔のように広がっていた。
そして――
最初の“それ”は、画面の端にいた。
女。
白いワンピース。
だが、顔が――
眼だけが異様に大きく、横長で、黒く濁っている。
ヤギの眼。
横に裂けた瞳孔。
それが、じっとこちらを見ていた。
「……え?」
小笠原の声が震えた。
カメラが揺れる。
もう一人。
また一人。
廊下の左右に、女たちが現れていた。
同じ顔。
同じ眼。
同じ、無表情。
「……やば……これ、やばいって……」
小笠原は後ずさる。
だが廊下は縮まらない。
否――
伸びている。
後ろに下がっているはずなのに、距離が変わらない。
女たちが、一歩、前に出る。
――カツン。
硬い音。
裸足のはずなのに、蹄の音だった。
「……誰か、いるんすか? ちょっと、これ、冗談きついって……」
返事はない。
ただ、全員が同時に口を開いた。
そして、笑った。
音は、なかった。
だが、笑っているのが分かった。
喉が裂けるほど大きく口を開け、声のない笑いを浮かべていた。
カメラが落ちる。
画面が床を映す。
埃と、黒い染み。
その染みが、じわじわと広がっていく。
液体だった。
血ではない。
もっと粘ついた、黒い液体。
それが床を這い、小笠原の手に絡みついた。
「……うわ……うわあああああ!!」
叫び。
だが、その声も途中で途切れる。
画面が持ち上がる。
そして――
そこには、もう小笠原はいなかった。
代わりに、女たちがカメラを囲んでいた。
全員がこちらを見ている。
その眼が、画面越しに“合った”。
その瞬間。
動画は終了した。
「……これが、最後の配信じゃなかったんです」
桐谷は言った。
「そのあと、三日後に……新しい動画が上がったんです」
響子は無言で次の動画を再生した。
最初は暗闇だった。
何も映っていない。
だが、音がある。
――ズル……ズル……。
何かを引きずる音。
重いものを、湿った床の上で引きずっている。
やがて、画面が明るくなる。
そこは、あのラブホテルの一室だった。
ベッド。
崩れた天井。
壁一面の鏡。
そして、その鏡に映っていた。
小笠原隼。
だが――
彼は、床に横たわっていた。
いや、“置かれていた”。
腕も脚も、あり得ない方向に曲がっている。
顔は、笑っていた。
口を裂けるほど開けて。
だが、眼が――
ヤギの眼になっていた。
横に裂けた瞳孔。
黒く濁った光。
そして、その背後に。
無数の女たち。
ぎっしりと。
鏡の中にだけ、存在している。
現実の部屋にはいない。
だが、鏡の中では、彼女たちは確かに動いていた。
ゆっくりと。
小笠原の体に手を伸ばし。
その口に、指を入れ。
さらに裂いた。
音はない。
だが、裂けている。
確実に。
そして。
画面が、ゆっくりとこちらに近づいた。
誰がカメラを持っているのかは分からない。
だが、近づいてくる。
小笠原の顔が、画面いっぱいになる。
そして、彼が――
こちらを見た。
「……見つけた」
それが、最初に聞いた声だった。
動画はそこで終わった。
だが、再生バーはまだ残っている。
終わっていない。
数秒の“空白”。
その間、画面は真っ黒だった。
だが。
最後の一瞬。
ほんの一コマだけ、映った。
それは――
視聴者の部屋だった。
見ている“こちら側”の空間。
暗い部屋。
スマートフォンを持つ手。
そして、その背後に――
立っている女。
ヤギの眼。
無音の笑顔。
「……見てしまったんですね」
響子は静かに言った。
桐谷は頷いた。
「俺だけじゃない……コメント欄、全部消えてるんですけど……一瞬だけ見えたんです。“いる”“後ろにいる”“逃げろ”って……」
響子は目を閉じた。
そして、ゆっくりと首を振った。
「逃げられません」
「……え?」
「もう、繋がってしまっています」
桐谷の呼吸が止まる。
「どういう……」
そのときだった。
部屋の鏡が、わずかに軋んだ。
キィ……。
桐谷が振り向く。
そこに映っていたのは――
自分と、響子。
そして、その間に。
“もう一人”。
白いワンピースの女。
ヤギの眼。
無音の笑顔。
「……あ」
桐谷の喉から、空気の抜けるような音が漏れた。
鏡の中の女が、ゆっくりと手を伸ばす。
現実の桐谷の肩に、その手は――
触れていない。
だが。
同時に。
桐谷の肩が、沈んだ。
まるで、重いものに押さえつけられたように。
「……始まりましたね」
響子は、そう言った。
その声には、わずかな緊張があった。
だが。
恐怖は、なかった。
まるで――
“もう何度も見てきたもの”のように。
「これは、場所ではありません。人でもありません」
鏡の中の女たちが、増えていく。
一人、また一人。
桐谷の背後に、現実にも影が滲み出す。
「“視線”です」
響子は静かに続けた。
「見た者に、見返すもの」
女たちが、一斉に口を開いた。
無音の笑い。
だが、その瞬間。
桐谷の口も、同じ形に裂けた。
「――――ッ!!」
声にならない悲鳴。
血が溢れる。
だが、止まらない。
止まらないまま、笑っている。
響子は目を逸らさなかった。
ただ、見ていた。
最後まで。
数日後。
新しい動画がアップロードされた。
タイトルはない。
サムネイルもない。
再生すると、すぐに映像が始まる。
そこには、間宮響子がいた。
静かにこちらを見ている。
だが、その眼が――
わずかに横に裂けている。
「……あなたも、見ましたね」
優しい声だった。
だが、その背後に。
無数の女たち。
鏡の中だけではない。
もう、現実にもいる。
画面の向こうから、こちらを見ている。
「大丈夫です」
響子は微笑んだ。
その口が、ゆっくりと裂けていく。
「すぐに、慣れますから」
――ザザッ。
動画は終わらない。
画面は暗くならない。
ただ、そこに“いる”。
こちらを見ている。
ずっと。
ずっと。
ずっと。
――(完)――




