馬車の子供たち
馬車の中は、思っていたよりもずっと静かだった。
もっと騒がしいものだと、私は勝手に想像していた。
貴族の子供を何人も詰め込んで、道中ずっと誰かが喋っているか、誰かが泣いているか、あるいは家の格や血筋を誇るような自慢話が飛び交っているか。そんな、落ち着きのない空間を思い描いていたのだ。
けれど、実際には違った。
声はほとんど上がらない。
誰かが咳払いをしたり、座り直すときに布が擦れる音がするくらいで、あとは沈黙が、重たく馬車の中に溜まっている。
馬車は揺れている。
けれど、荷馬車のような乱暴な揺れ方ではない。石畳の継ぎ目を越えるたびに、ゆっくりと身体が持ち上げられ、また戻されるだけだ。床には分厚い絨毯が敷かれていて、靴底越しにもその柔らかさが伝わってくる。壁際には、身体を預けられる程度のクッションが並び、窓には重ねられた布のカーテンが垂れている。
外の音は、ほとんど遮断されていた。
街道を進む車輪の軋む音も、馬の鼻息も、遠くでぼやけた気配としてしか届かない。
それでも。
時々、腹の奥に直接響いてくる振動があった。
――鉄騎だ。
説明されなくても、すぐに分かる。
意識する前に、身体が反応してしまう。
だって、私も貴族の家の娘だから。
鉄騎は、珍しいものじゃない。
英雄譚の中の存在でも、遠い戦場の噂でもない。私にとっては、屋敷の奥にずっと置かれている、「触れてはいけない現実」だ。
実家にも、一機ある。
城塞のような倉庫の、一番奥。厚い扉の向こうに、何重にも布をかけられて鎮座している。
家の代表――つまり父が所有する、たった一機の鉄騎。
代々、受け継がれてきたものだ。
誰が作ったのかも、いつの時代のものかも、正確には分からない。ただ、「この家が貴族である証」として、そこにある。
私は、一度も操縦席に触れたことがない。
触れることすら、許されていない。
けれど、整備の様子なら、何度も見てきた。
鉄と油の匂い。
わずかに焦げたような、鼻の奥に残る匂い。
工具が金属に当たる、乾いた音。
床が、かすかに震える感覚。
整備士たちは、決して大声を出さない。
鉄騎の前では、誰もが自然と声を潜める。
今、馬車の外を走っている鉄騎も、きっと同じだ。
護衛の近衛騎士たちの鉄騎。量産型だとか、旧式だとか、最新型だとか、大人たちは細かく言い分ける。
でも、子供の私たちからすれば、全部同じだ。
――おおきい、鉄の人形。
それ以上でも、それ以下でもない。
ただ……。
「……近いわね」
同じ馬車に乗っている、別の家の娘が、小さく呟いた。
年は私とそう変わらない。声の端に、隠しきれない緊張が滲んでいる。
私は、黙って頷いた。
近い。
やけに近い位置で、鉄騎が走っている。
本来、鉄騎は馬車から距離を取る。
踏み潰したら危ないし、何より馬が怯える。だから街道を進むときは、後方か、横でも十分な間隔を空けるのが常識だ。
護衛なら、なおさら。
でも、今回は違う。
ほとんど、馬車を追いかけているみたいに走っている。
いや、追いかけているんじゃない。
合わせているのだ。
馬車の速度に。
呼吸に。
まるで、こちらの存在を基準に動いているみたいに。
「……護衛の方、少し変じゃない?」
「変、って?」
「鉄騎の動きが……」
そう言われて、私はそっとカーテンの隙間から外を覗いた。
見えたのは、灰色がかった鉄の脚。
太く、頑丈で、地面を強く踏みしめている。それなのに、無駄がない。衝撃が散らされているのが、振動の少なさからも分かる。
速い。
けれど、荒くない。
あれは、実家の鉄騎とは違う。
うちの鉄騎は、もっと「重い」。
一歩ごとに地面を叩きつけ、周囲に力を誇示する。それが貴族の鉄騎であり、権威の在り方だと、私は疑いもしなかった。
なのに、あの鉄騎は――。
「走ってる、というより……歩いている?」
口に出してみて、しっくり来た。
速く動いているのに、落ち着いている。
慌てる理由が、最初から存在しないみたいだ。
そのとき、ふと、思い出した話があった。
近衛騎士になったという男。
名前は、ハイド。
元は平民で、教育も受けていない。
読み書きも、礼儀作法も、まともには知らない。
でも、鉄騎の操縦だけは異様に上手い、と。
「……あれ、たぶんハイドの鉄騎よ」
誰かが言った。
その名前が出た瞬間、馬車の中の空気が変わった。
小さなざわめきが、抑えきれずに広がる。
ハイド。
決闘で貴族を倒した男。
女王に気に入られ、近衛騎士になった平民。
正直に言えば、私は今まで、あまり興味がなかった。
どうせ、大人たちが騒いでいるだけの話だと思っていた。
――例外。
――見世物。
――政治的な采配。
そういう言葉で、簡単に片付けられる存在だと。
でも――。
馬車が、少し大きく揺れた。
次の瞬間、遠くで鉄がぶつかる音がした。
甲高くもなく、派手でもない。
ただ、重く、鈍い音。
「……何?」
誰かが声を上げる前に、馬車が止まった。
急停止ではないが、明らかに意図的な減速。
馬が嘶き、御者の声が飛ぶ。
外が、一気に騒がしくなる。
「鉄騎だ!」
「前方に鉄騎、二機――いや、三機!」
護衛の叫びが、はっきりと聞こえた。
馬車の中の子供たちは、一斉に息を呑んだ。
学園行きを拒み続けていた家の鉄騎。
噂で聞いていた、「力で示すしかない」と考える貴族たち。
「……本当に、来たの…?」
誰かが呟いた。
私は、思わず手を握りしめていた。
指先が、少し震えている。
怖い。
理屈じゃない。
でも、逃げ場はない。
そのときだった。
外で、また別の音がした。
さっきよりも低く、地面に吸い付くような音。
――ドン。
地面が、揺れる。
窓の隙間から見えたのは、一機の鉄騎だった。
騎士のような姿。
細身で、無駄のない装甲。
量産型と同じ系統の腹部形状なのに、全体の印象がまるで違う。
その鉄騎が、前に出た。
敵対する貴族の鉄騎が動こうとした、その瞬間。
デューク――そう呼ばれているらしいその鉄騎は、迷いなく距離を詰めた。
速い。
だが、無理がない。
踏み込みは正確で、脚は滑らない。
地面を掴むように、確実に進む。
武器は、見当たらない。
剣も、槍も、銃もない。
それなのに。
貴族の鉄騎は、あっさりとバランスを崩した。
押されたわけでも、殴られたわけでもない。
ただ、動きを読まれ、進路を塞がれただけ。
「……そんな……」
誰かの声が、震えた。
貴族の鉄騎が、地面に膝をつく。
大きな音を立てながら。
護衛の鉄騎たちが、すぐに周囲を制圧する。
無駄な破壊はない。ただ、動けなくしただけ。
その中心に、ハイドの鉄騎が立っている。
私は、はっきりと思った。
――うちの鉄騎より、ずっと強い。
いや、違う。
鉄騎が強いんじゃない。
操縦している人が、違う。
貴族だから鉄騎を持てる。
貴族だから操縦する。
その「当たり前」が、音を立てて崩れていく。
馬車が、再び動き出した。
何事もなかったかのように、街道を進む。
でも、私の胸の中は、ずっとざわついている。
学園。
貴族の長子を集め、教育する場所。
そこでは、鉄騎の操縦も教えるという。
「……私」
小さく、誰にも聞こえない声で呟く。
「ちゃんと、行ってみたくなった」
誰も、笑わなかった。
馬車の外を走る鉄騎の音が、ずっと聞こえていた。
――守られている、という音が




