手で食べる祝宴
城の中は、いつもより静かだった。
それは単に、音が少ないという意味ではない。
人が歩けば音は立つ。扉が開けば、風は流れる。
それでも――空気そのものが、息を殺しているようだった。
決闘が終わった翌日。
本来であれば、勝者の名は広間に響き、酒場では噂が膨らみ、近衛騎士団は誇らしげに胸を張るはずだった。
だが廊下を行き交う人々は、視線を逸らし、声を潜め、立ち止まることすら躊躇している。
理由は単純だった。
勝ったのが――
「ハイド」だったからだ。
鉱山上がりの少年。
記録にも残らない出自。
鉄騎の操縦理論を学んだ形跡もない。
それが、近衛騎士を倒した。
しかも、観衆の前で。
言い逃れも、処理も、できない形で。
誰もが、彼をどう扱えばいいのか分からない。
称えれば制度が揺らぎ、無視すれば事実が残る。
だから、人々は距離を測っていた。
ハイド自身も、同じだった。
勝った実感はない。
誇りも、達成感も、胸に残っていない。
自分が勝ったことも、
近衛騎士になることも、
学園に入る資格を得たことも――
すべてが、どこか遠い。
まるで、自分とは別の誰かに起きた出来事のようだった。
案内役に従って歩く足取りも、無意識だった。
大理石の床の冷たさだけが、現実感を与えてくれる。
通された部屋は、広かった。
玉座の間ではない。
だが、それに近い格式が、壁と天井に染みついている。
中央に置かれた長い卓。
椅子の数は揃っておらず、配置も曖昧だ。
代わりに、卓の上には――
一瞬、理解が追いつかないほどの食べ物が並んでいた。
焼いた肉。
香草を振りかけた塊。
艶のある果実。
丸いパン。
串に刺さった何か。
油で揚げた、不定形の塊。
匂いが、混ざり合っている。
甘さ、脂、焦げ、塩。
だが――
奇妙なことに。
取り分け用の銀食器が、一切置かれていない。
「……?」
思わず、ハイドは足を止めた。
その背後から、足音。
女王シャルロットだった。
衣装は簡素だが、背筋は揺るがない。
空間そのものが、彼女を中心に整列しているようだった。
「戦勝祝いよ」
淡々とした声。
感情を抑えた、だが冷たくはない声。
「形式ばった宴は、あなたには疲れるでしょう」
ハイドは返事を探したが、見つからなかった。
ただ、卓の上の食べ物を見つめる。
女王は、その様子を見逃さない。
「これは、手で取って食べるの。
好きなものを、好きなだけ」
「……手で?」
「ええ」
彼女はそう言うと、躊躇なく骨付き肉を一つ掴んだ。
そして、そのまま口に運ぶ。
歯が肉を裂く音。
脂が落ちる。
王冠を戴く女王が、素手で肉を食べる。
その光景は、異様だった。
だが、どこか――正直でもあった。
「椅子に座る必要もないわ。
床に座ってもいい」
その言葉を聞いた瞬間、
ハイドの体は、考える前に動いていた。
膝を折り、
床に座る。
炭鉱で、短い休憩の時にそうしていたように。
背を丸め、重心を低く。
女王は、それを止めなかった。
注意もしない。
むしろ、一瞬だけ――
安堵の色が浮かんだ。
「……食べなさい」
促され、ハイドは恐る恐る手を伸ばす。
最初に掴んだのは、果実だった。
指先に、冷たい感触。
噛みつくと、
甘い汁が一気に溢れ、喉を潤した。
思わず、目を閉じる。
炭鉱で与えられていた食事は、
硬いパンと、味の抜けた粥だけ。
甘さというものを、
舌が覚えていなかった。
次に、肉。
熱い。
だが、逃がしたくない。
歯を立てると、
脂と塩が、口いっぱいに広がった。
考える暇はなかった。
ただ、食べる。
噛み、引きちぎり、飲み込む。
作法も、順番もない。
生きるための行為。
気がつくと、
女王が、じっとこちらを見ていた。
評価ではない。
蔑みでもない。
観察だ。
ハイドの手。
無数の傷。
割れた爪。
手首に残る、古い鞭の痕。
そして、食べ方。
皿に手を伸ばし、
口元を汚し、
噛み切れない部分は、力任せに引きちぎる。
――人間が、制度によってどこまで削られるか。
女王は、ゆっくりと息を吐いた。
「……これは」
誰に言うでもなく。
「やり過ぎね」
ハイドは、何を指しているのか分からず、手を止めた。
「教育格差。
そして、奴隷制」
声は低く、硬い。
「ここまで人を壊す必要は、なかった」
ハイドは俯く。
壊れている、という自覚はない。
ただ、こうして生きてきただけだ。
女王は、卓から離れ、窓辺へ向かう。
外には、城下が広がっている。
人々の生活。
王国の重さ。
「私は、決めたわ」
背を向けたまま、言う。
「貴族のための学園を、新設する」
ハイドは顔を上げた。
「長子だけを集める。
王国を背負う者たちを」
振り返り、続ける。
「机の上の知識だけではなく、
鉄騎の操縦も学ばせる」
理解できない部分は多い。
だが、一つの名前が残った。
「量産型鉄騎……サクス型も?」
「ええ」
女王は頷く。
「マスタースレイブ式。
射撃時の腕部は自動制御。
パイロットは判断に集中する」
ハイドは思い出す。
四本の腕。
倒した、あの機体。
「……難しそうだ」
女王は、ほんの少し微笑んだ。
「だからこそ、学ぶのよ」
そして、真っ直ぐに見る。
「あなたも、その学園に入る」
「……俺が?」
「教える側ではない。
学ぶ側として」
女王の声は、断定だった。
「あなたは、特別だ。
だが、何も知らない」
否定ではない。
期待でもない。
事実の提示だった。
「ここで食べなさい。
手で。
床で」
卓を示す。
「あなたが、あなたのままでいられる場所を、
私は作る」
ハイドは、しばらく黙っていた。
そして、また肉を掴む。
口に運びながら、
小さく呟く。
「……うまい」
女王は、その一言に、確かに笑った。
祝宴は、豪華でも、静粛でもなかった。
ただ、
手で食べる食事が、
新しい世界の、最初の味だった。
以降
月、水、金曜日
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