ひっくり返る掌
――静かだ。
操縦席の中で、ハイドはそう思った。
外では歓声が渦巻き、ざわめきが広がり、金属が軋む音が混ざる。
戦場というほどではないにせよ、ここは人と鉄騎が共存する演習場だ。
どこかで、サクス型鉄騎の足が石畳を叩く音が響き、
金属が擦れる音が微妙に遅れて耳に届く。
だが、コクピットの内側だけは、まるで別の世界だった。
音は反響するが、振動は伝わらない。
外界は存在するのに、存在感が届かない。
空気は重いのに、指先は軽く、身体は自由だった。
両手でレバーを握る。
左右に一本ずつ、太く握りやすい操縦桿。
指先に伝わるのは、ただの冷たさとわずかな振動。
レバーを動かす力に応じて、鉄騎は反応する。
難しい操作はない。
倒せば、動く。
踏み込めば、応える。
それだけだ。
「……」
言葉は出なかった。
何かを宣言する必要も、気合を入れる必要も、感じない。
炭鉱で、ずっとそうだった。
手を動かせば岩は割れ、
踏み出せば地面は沈んだ。
無理に力を入れる必要はなく、ただ身体を通じて力を伝えれば、それで道は開ける。
この鉄騎も、同じだった。
操作を複雑に考える必要はない。
判断のタイミングさえ間違えなければ、鉄騎は言うことを聞く。
ハイドは左のレバーを、わずかに前へ倒した。
デュークが、動く。
歩行ではない。
まるで生き物のように体重移動を伴う。
右足が前に出る。
足裏が地面を噛む感触が、操縦席にまで伝わってくる。
微細な振動が座席を通じて腰に伝わり、膝裏を押す。
身体が自然に反応する。
(……滑らない)
はっきりと分かった。
工房での修理――いや、リペイトの際に新調された足部。
滑り止めは、単なる溝ではない。
岩場でも、金属床でも、地面の形を捉える構造になっている。
足裏の微細な凹凸が、わずかな地面の傾斜も逃さず伝える。
城の石畳など、造作もない。
一歩ごとに鉄騎が確実に地面を捉え、無駄な滑りは一切ない。
「できる」
ハイドは、相手の鉄騎――サクス型を見る。
正面から来る。
重心が高く、動きは直線的で、訓練の跡が見える。
体幹がしっかりしており、腕の振りは迷いがない。
悪くない。だが――
(重い)
踏み込みが遅い。
一歩一歩が、地面に預け過ぎている。
全てを確実に踏みしめようとしているのが、動きの鈍さとして現れていた。
ハイドは右のレバーをわずかに倒す。
デュークが横に流れる。
足裏が滑らず、しっかりと地面に噛みつく感触がある。
身体が持っていかれない。
炭鉱で崩れた足場を渡るときの感覚と同じだ。
目の前の機体は敵なのに、恐怖も焦りもない。
ただ、目の前の“物理”を読み取るだけだ。
「……」
サクス型が、腕を振るう。
武装は簡素だ。
刃付きの近接用装備。
力任せに振れば、並の機体なら致命傷になる。
だが、当たらない。
ハイドは、踏み込まない。
跳ばない。
無駄に距離を詰めない。
相手が動いた瞬間だけ、鉄騎の重心を移動させる。
左レバーを引く。
同時に右をわずかに倒す。
デュークが半身になり、攻撃をやり過ごす。
風圧が装甲を掠める。
振動が腕に伝わる。
(……遅い)
それが正直な感想だった。
相手の鉄騎は、訓練された動きだ。
だが、訓練は決まった形の中でしか行われていない。
一つの攻撃の型を繰り返すだけで、応用はできない。
ハイドには、型がない。
あるのは――
(倒せばいい)
それだけ。
デュークの右足が、深く地面を踏む。
足裏が石畳に噛み付く。
滑り止めが、逃げ場を作らない。
そのまま、腰を回す。
デュークの腕が、横殴りに振られる。
鈍い衝撃。
サクス型の腹部装甲――
胸から突き出した、あの“腹”に直撃する。
「――っ!」
相手の機体が、よろめく。
重心が前にある分、崩れやすい。
ハイドは、追わない。
焦らない。
倒れる方向を見て、次にどこに足を置くかを見る。
炭鉱で学んだことだ。
敵を見るな。
地面を見ろ。
サクス型が体勢を立て直そうとする。
その瞬間――
ハイドは、レバーを深く倒した。
前へ。
デュークが、踏み込む。
足裏が石を踏み砕き、一気に距離を詰める。
近い。
近すぎる。
だが、ここが――
(終わり)
デュークの肘が、サクス型の胸部にぶつかる。
突き飛ばすのではない。
押し潰す。
腹部装甲が、歪む。
重心が完全に崩れ、サクス型が後ろへ倒れ込む。
地面が揺れる。
観測席から声が上がる。
だが、ハイドには聞こえない。
彼は、レバーを戻した。
デュークが止まる。
倒れた相手を見下ろしながら、ハイドは思った。
(……これでいい)
教わったことはない。
学んだこともない。
だが、地面と、重さと、力のかけ方は知っている。
それだけで、十分だった。
デュークの足裏は、今日も一度も滑らなかった。
音が、遅れてやってきた。
金属が地面に沈み込む鈍い衝撃。
石畳が割れる音。
観客席から湧き上がるざわめき。
ハイドは、操縦桿から手を離さなかった。
終わった、という実感がない。
炭鉱で岩を割った後と同じだ。
崩れた岩の向こうに、次の作業がある気がしてしまう。
「……おわった…?」
小さく呟くと、デュークは完全に静止した。
倒れた量産型鉄騎――サクス型は、仰向けになったまま動かない。
腹のように突き出た胸部装甲が歪み、四本の腕のうち二本は地面に投げ出されている。
殺してはいない。
壊してもいない。
ただ、倒した。
それだけだ。
しばらくして、相手の機体の腹部が、ぎしりと音を立てた。
量産型鉄騎のコクピットは吊り下げ式だ。
胸部装甲の下から、まるで内臓のように格納されている。
固定具が外れ、鎖とレールに支えられた操縦席が、ゆっくりと降りてくる。
中から現れたのは、金色の装飾を施した鎧を身につけた男――アルベルトだった。
顔色は悪い。
だが、目だけは異様に冴えている。
戦いの余韻が残る中、呼吸を整え、身体を動かす精密さは、ただの人間ではないように見えた。
彼は地面に足をつけ、一度、自分の機体を見上げた。
そして、デュークを見た。
「……はは」
乾いた笑い。
緊張と安堵が混ざった、抑制された声。
「なるほどな」
アルベルトは、鎧越しに胸を押さえ、息を整えながら言った。
「これは……無理だ」
観客席がざわつく。
貴族や軍人たちの表情が、緊張と興奮で揺れる。
「訓練の差でも、経験の差でもない。
技量の問題ですらない」
彼は、ハイドをまっすぐに見た。
敵意も、侮蔑も、過去の疑念もない。
あるのは――理解だけだった。
「君は、戦っていない」
アルベルトはそう言った。
「“動かしている”だけだ。
地面と、重さと、力を」
ハイドは、何も答えなかった。
何を言えばいいのか、分からない。
炭鉱で生きるのに、言葉は要らなかった。
必要なのは、倒れないこと、折れないことだけだ。
アルベルトは、ふう、と息を吐いた。
「……この鉄騎に、これで勝てる人間はいない」
その言葉が、はっきりと響いた。
そして次の瞬間、
彼は、笑った。
さっきまでの張り詰めた顔ではない。
社交の場で使う、完璧な笑顔だ。
「いや、素晴らしい!
まさか、これほどとは思わなかった!」
ざわめきが、一段階上がる。
「女王陛下の慧眼、恐れ入ります。
炭鉱から掘り出したのが、ただの奴隷ではなかったとは!」
数刻前まで、
「近衛騎士など認められぬ」と言っていた男だ。
「いやあ、これはむしろ、
我々が支える側に回るべきでしょう!」
アルベルトは両手を広げる。
「この若者こそ、
王国の未来そのものだ!」
ハイドは困った。
褒められているのは分かる。
だがその声色は、炭鉱で聞いたものと重なる。
監督官が、気まぐれに優しくなるときの声。
「……」
何も言えず、ただデュークの操縦席に座ったまま、
彼はアルベルトを見下ろしていた。
女王シャルロットが前に出る。
「決闘の結果は、明らかですね」
静かな声。
しかし、場の空気は瞬時に凍る。
「アルベルト卿。
あなたは、約定を覚えていますか?」
アルベルトは即座に膝を折った。
「もちろんですとも!」
あまりにも早い動きに、周囲の貴族が一瞬、言葉を失う。
「この勝利をもって、
ハイド殿は女王陛下の近衛騎士となり、
学園への入学資格を得る」
シャルロットは、ハイドを見る。
「異論は?」
アルベルトは顔を上げ、にこやかに言った。
「あるはずがありません。
むしろ、誇らしい限りです」
その言葉を聞きながら、
ハイドは胸の奥に奇妙な重さを感じていた。
勝った。
だが、何かが終わった気がしない。
炭鉱の時と同じだ。
岩を割っても次の岩がある。
敵を倒しても、次の何かが待っている。
デュークは、静かに立っていた。
その足裏は今日も地面を、しっかりと掴んでいる。
――だが、この場所では、
地面そのものが動くのだと、
ハイドはまだ知らなかった。




