急な決定
その日の終わりは、静かに、しかし確実に訪れようとしていた。
学園設立の公表が終わり、城内には微妙な緊張感が残ったまま、夕刻の光が大きな窓から差し込んでいた。
白い壁は柔らかい光を反射しているのに、空気は冷たく、重く、何かが押し付けるように感じられる。廊下を歩く人々の足音はいつもより静かで、誰もが言葉を選びながら、ある種の沈黙のルールに従っているようだった。
ハイドは自室にいた。小さな木の机の前に腰を下ろし、紙と筆を手に、文字の練習を続けていた。
線はまだゆがんでいる。まっすぐとは程遠く、何度も筆を置き、書き直すたびに手が震えた。
だが、最初に比べれば、確かに進歩していた。文字の形が紙の上で、わずかに意味を持ち始めている。
「……これ、字なんだよな」
小さな独り言が口から漏れる。自分でも、あまり意味のない言葉だと思った。
しかし、その声は、自室の静けさの中で、確かに響いた。
「はい」
返事は即座だった。声の主は、イーリス。
今日もいつもの場所に、静かに立っている。姿勢を崩さず、視線だけをこちらに向け、無言の圧を感じさせる。
彼女の存在は、もはや背後の空気の一部のようであり、しかし目の前にある現実の鋭さを示していた。
その瞬間、扉がノックされた。
軽く、だがためらいのない、確信を持った音。
ハイドの胸が一瞬、跳ねる。
「ハイド」
女王シャルロットの声だった。
いつも穏やかさや威厳の混ざった声とは違い、どこか鋭い響きがあった。
胸が、きゅっと縮む。
呼吸が、一瞬止まった気がした。
「……はい」
自然と返事が出る。無意識のうちに背筋が伸びる。
そして、扉が静かに開かれ、女王が一人で入ってきた。
護衛は、いない。
この城で、女王が単身で部屋に入ることは異例中の異例だった。それだけで、ただ事ではないということが、ハイドには理解できた。
「急で悪いのだけれど」
女王は、淡々と、しかしはっきりと言った。
「今日中に、あなたの立場を決めます」
その言葉の重さに、ハイドは言葉を失った。
「……たちば?」
「ええ」
女王は、迷いなく続ける。
「あなたを、私の近衛騎士とするかどうか」
騎士。
剣を持つ者。命じる側の人間。
炭鉱で、頭を下げるしかなかった自分とは、まったく逆の存在だ。
「……俺、無理だと思う」
正直な言葉が、口から漏れた。
剣の持ち方も知らない。礼儀もわからない。文字すら、まだ完全には読めない。
そんな自分に、騎士になる資格などあるはずがなかった。
女王は、その返答を予想していたかのように、表情を変えなかった。
彼女の目は、冷静に、しかし確実にハイドを見据えていた。
「ええ。普通に考えれば、無理でしょう」
否定ではなく、ただ事実を述べるだけ。
だが、その言葉は、不思議と重く、胸にのしかかった。
「だからこそ、反対する者がいます」
女王は窓の外に視線を移す。
夕暮れの光が、彼女の横顔を淡く照らしていた。
「保守派の貴族たちです。
彼らは、あなたが近衛騎士になることにも、学園に関わることにも、強く反対しています」
「……俺のせい?」
「いいえ」
即答された。言葉には迷いも、含みもない。
「彼らが守りたいのは、身分と既得権です」
女王は、淡々と告げる。
その声の中に、怒りや苛立ちはない。ただ、確かな事実としての説明があるだけだった。
「ですが、彼らの言い分も形式上は正しい。
あなたは、身分も教育も、騎士に相応しくない」
胸が、きゅうっと痛む。
分かっていたことだ。
分かっていたことを、改めて口にされただけなのだ。
「……じゃあ、どうするの」
女王は、ここで初めて、わずかに笑った。
その笑みは、楽しげでも、優しげでもない。
どこか冷たく、鋭く、しかし計算された印象を伴っていた。
「決闘です」
その一言で、空気が変わった。
部屋の中の空気が、重く、そして鋭く、静かに波立つ。
「……けっとう?」
「ええ」
女王は、さらりと答える。
言葉の端々に、迷いはない。
「保守派の代表が一人、あなたの近衛騎士化に反対しています」
「その者と、あなたが決闘を行います」
ハイドの思考が、完全に停止した。
「……俺が?」
「はい」
「……剣とか、無理だって」
「安心なさい」
女王は、驚くほどあっさりと言った。
「剣ではありません。
鉄騎同士の決闘です」
その瞬間、心臓が大きく鳴り、喉が乾いた。
炭鉱から逃げたあの日、量産型に追われたあの谷で捕まった時、感じた恐怖が、体の奥から蘇る。
「……勝てない」
「勝てばよいのです」
女王は、条件を告げた。
「あなたが勝てば、正式に私の近衛騎士となり、学園への入学資格を得ます」
「負ければ?」
「あなたは、城を去ることになります」
逃げ場は、存在しない。
「……今日?」
「今日です」
女王の目が、静かに、しかし鋭く、ハイドを射抜く。
「反対派が動き出す前に、既成事実を作ります」
ハイドは、思わず床を見つめる。
逃げたい気持ちはある。しかし、炭鉱に戻る選択肢も、もはや存在しない。
「……俺、操縦とか、分かんない」
女王は、ゆっくりと、しかしはっきりと言った。
「あなたは、すでに一度、鉄騎を動かしています」
「……勝手に動いた」
「それでも、生き延びたのです」
女王の目には、迷いはなく、ただ事実としての評価があるだけだった。
「それは、才能です」
才能――そんな言葉が、口に出されるのは初めてだった。
誰も、炭鉱で、教えてくれなかった言葉。
「……相手は?」
「量産型鉄騎の正規操縦者です。貴族の嫡男。訓練経験もあります」
完全に不利な条件。
ハイドの喉が渇き、手のひらに汗が滲む。
「……俺、やらされてる?」
「はい」
女王は嘘をつかない。
「ですが――」
一拍置いた。
「あなたが拒否するなら、私は別の方法を取ります」
その意味は、聞かなくても分かる。
もっと血なまぐさい、容赦のない方法だ。
ハイドは、深く息を吸った。
炭鉱では選択肢はなかった。ここでも、ない。
だが、違うのは――少なくとも、理由を説明されていることだ。
「……分かった」
小さな声。震えながらも、自分で選んだ意思のように出た言葉。
女王は、満足そうにうなずいた。
「では、今から準備に入ります」
立ち上がり、扉に向かう。
その前に、振り返った。
「ハイド」
「……なに?」
「あなたは、私の賭けです」
それだけ言って、女王は部屋を出た。
残されたのは、夕暮れの光だけが差し込む静かな空間。
ハイドはベッドに座り込んだ。手が、少し震えている。
どうしよう、どうしたらいいのか、わからない。
心臓の音だけが、部屋に響いていた。
「……どうしよう」
イーリスがすぐ横に立つ。
無表情で、しかし存在感は圧倒的だ。
「決闘に向け、必要な情報を提供しますか」
「……助けてくれる?」
イーリスは、一瞬だけ間を置いた。
そして、ゆっくりと答える。
「私は、あなたの道具です。
あなたが望むなら、勝利の確率を最大化します」
ハイドは、窓の外を見る。
沈みかけた夕陽が、城の白い壁を赤く染めていた。
今日のうちに、自分の人生がまた変わる。
逃げ場はない。だが、今度は選ばれる側だ。
「……勝ちたい」
小さく、しかし強く、言葉を絞り出す。
イーリスは、静かにうなずいた。
「了解しました」
決闘は、今夜。
逃げる場所は、もうない。
ただ、鉄騎の上で、選択をするだけだ。




