建物
「一名様、ご案内」
ここはどこだろう。気が付くと、私は建物の中にいた。あたりはうす暗い。前に立っている男はそう声を上げ、前方を見ている。こちらからはその小柄な背中しか見えない。
男の声に反応して、建物の奥からはどこからともなく応答の声が聞こえた。
それは大半が、野太い男の声であった。
「さ、どうぞこちらへ」
体をややこちらに向けながら、男が私を促す。彼は声や落ち着きのわりには、かなり若い見た目をしているようだった。
私はまだ事情を飲み込めないでいる。
「ここは、どこですか」
やっと口から出てきた言葉がそれだった。不思議と汗はかいていない。自分でも珍しいと感じるくらい、その時の私は落ち着いていた。
「ここですか」
目の前の男は、決して全身をこちらへ向けようとしない。
「ここは、どこでしょうかな」
そう言うなり、男はまた前を向いてしまった。そうしてそのまま、すたすたと歩きだした。
男が離れていくにつれ、私は言い知れぬ不安が心に生じていくのを感じた。いまあの男についていかなければ、悪いことが起こる気がする――――。
そう思った私は、しぶしぶ男についていった。さきほどの男の声に応じて聞こえてきた声たちは、いまはもう聞こえなくなっていた。
無言で歩く時間が続く。
私はずいぶんと軽装だった。手に持っているものも、肩にかける荷物もない。あるのはただこの身ひとつと、身にまとっている薄着だけだった。
目の前の男は、かっちりとした服装をしている。手に何か灯りを持っているのか、男の前方はぼんやりと光っていた。
あたりは無音だが、どことなく空気が騒がしいようにも感じる。私たちの足音は、それほどあたりに響かなかった。
私は男に何事かを聞いてみたい気持ちにもかられたが、黙々と進む男の態度は有無を言わせない空気を感じさせるのだった。
不意に、足元を何かが通り抜けていった。はじめは気のせいかと思い、そのまま歩み続ける。しかし二度、三度、そのに何かは私の足元を通り過ぎていった。
「なんだろう、これは」
恐らくもう一回、来るに違いない。そう予測を立てた私は、男の灯りの下のあたりに注目していた。そこであれば、地面も多少はよく見える。
「そら、どうだ」
すばやく手を伸ばし、通り抜けようとしたものを捕まえる。
それは小柄なねずみだった。
ねずみは、私の手の中で、キーキーともがいている。
「あまりいじめないでください」
前方の男は、その時ひさしぶりに口を開いた。
「私どもの友人なのですから」
このねずみを見る。男の言葉につられてゆるめた手の中から、ねずみが必死に逃げだす。あっというまに、私の体を伝って下へすり抜けてしまった。
「善行を積みましたね」
男はやはり、こちらを振り向かずにつぶやく。
その言葉には、従来通りの落ち着きが感じられた。
「不衛生じゃないのか」
私はよくよく考えると、ねずみがこの体の上を走っていったという事実にいまさらながら不快感を示し、そう言った。
「なあに、慣れればかわいいものですよ」
男はどこ吹く風だ。
私はまだぶつぶつと文句を言いながら、男についていった。
「おや、着きました」
男はあるドアの前で歩みを止めた。それは建物の雰囲気とよく合ったドアで、ドアノブの下には鍵穴がついていた。
「ええと、どの鍵だったか……」
男がふところから鍵の束を取り出す。こんなものを隠し持っていたのか。音はしなかったはずなのに。
「ああ、これこれ」
目当ての鍵をやっと探り当てたらしい男は、そっとその鍵を鍵穴にさし込んだ。
ガチャリ、という金属質な音がする。男がドアノブをひねると、ドアは音を立てながら開いた。
「さあ、どうぞ」
男は中に入るようにうながす。私は気乗りしなかったが、言う通りにしたがった。
私が入った後、男も中に入ってきた。そうして背後からは、ガチャリと鍵のかかる音が聞こえてきた。




