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胡蝶の夢

 さて。突然だが胡蝶の夢をご存知だろうか。

 戦乱に明け暮れる古代中国において、荘子が老荘思想の無為自然として示した比喩だ。


 夢の中で胡蝶になってひらひらと飛んでいた所、目が覚めた。

 果たして自分は蝶になった夢を見ていたのか、それとも実は夢でみた蝶こそが本来の自分であるのか。

 その真実は分からないという寓話である。


 この寓話で興味深い点は、目が覚めた今、直前まで見ていた夢が錯覚の世界だと知っていても、自分の本質がまるで夢の世界であるように錯覚できることだ。

 少々唯物論的だが。


 とはいえ、錯覚とは不思議な体験だ。

 精神分析学者のスラヴォイ・ジジェク曰く、錯覚こそが現実世界を動かしている。

 核心となるのは、現実世界は論理性に縛られているが、夢の世界は論理性からの解放が可能だ。

 夢の世界の出来事には、脈絡がないのだから。


 例えば、あなたの夢の世界では、片想いの子と恋人だ。

 でもその時、私たちはなぜ彼女と恋人になれているんだろうと疑問は挟まない。 

 原因と結果の関係性は捨象し、いま彼女と恋人であるという結果のみを楽しむわけである。

 

 このように、夢の世界では論理性がない原因について無視できるが、現実世界では違和感を覚える。

 なんで高嶺の花が自分の彼女になってくれるんだ?ドッキリなのか?と。



 ―――さて。本題に戻ろう。

 胡蝶の寓話を持ち出したのは、この現実に向き合うためだ。

 突発的で全くの論理性の欠片もない出来事。

 現実で発生する確率は稀有だが、ゼロではない。

 たまには理解不能な事態にも直面することはあるのだが――。


 どうやら俺は俗に言う異世界転生を果たしたようだ。

 胡蝶の夢、真っ最中である。



****



 物心が芽生えた幼子時代、記憶の混濁が始まった。

 キッカケは、周囲が見新しく映り、未知なる世界への憧憬という幼心と、朧気に脳裏に浮かんでくる現代世界知識とのズレを感じ取ったことだった。


 そして、童子に成長した頃、この世界は剣と魔法のファンタジー世界であることを知った。

 驚愕だが今世では魔法があり、概要はこうだ。


 一つ、魔法の源である魔力は生命力たる血液を通じて循環されること。

 二つ、血縁が近いほど魔力は引継がれること。

 三つ、魔法とは飽くなき原理探求であること。


 また何の巡り合わせか、俺は随分な特権階級に生を授かったようだ。

 この世界では封建制が残る近世であり、その中でも我が家は貴族に分類される辺境伯らしい。 

 辺境伯といえば、国境重要地に配置される防衛の要を任され、地位も相応に高い。

 朧気な前世の記憶では、学生時代に経済・哲学徒だった知識が残っているが、かつての自分が批評した地位の恩恵を受けていると思うと、妙な歯切れの悪さを感じる。

 

 しかし、いまでは特権階級の後ろめたさは微塵も感じなくなった。

 どの世界、時代においても格差は常に存在するからだ。

 キリスト教における原罪と贖罪としてのプロテスタンティズム職業倫理の関係にも近いかもしれない。


 あと我が家特有かもしれないが、貴族教育というのは格式と教養の他にも、武闘指南があった。

 緻密なタイムスケジュールに基づいた教育は熾烈であったが、苦痛ではなかった。

 この世界特有の宗教、一般常識、政治経済情勢に関しては特に学習意欲を惹かれたし、武闘に関しても剣術の才能はなかったが、魔法センスが良いらしい。


 俺は特段魔法適正があると思わないが、魔法出力時に原子特性や分子構造を何となくイメージする。

 その結果、たまたま上手く魔法を現象化できているだけなのだ。

 そんな毎日を繰り返していたら、俺の保有魔力総量は順調に鍛えられ、指南役からひどく感嘆された。

 比較対象がないので実感は湧かないのだけれど。



****


 

 しかし、齢10歳の誕生日を迎えた頃。

 日常の閉塞感と退屈さを拭うことはできなくなってきた。

 家庭教師レベルでの学習は限界を迎え、魔法鍛錬についてはとうの昔から独学化していた。


 また我が家の環境も宜しくない。

 当主の父親は、国家中枢の内政に駆り出され、屋敷を離れて忙殺中と聞き及ぶ。

 貴族夫人の母親は、意外にも一般家庭のような温かさを以って俺に接してくれる。しかし、封建貴族の価値観を律儀に内面化しており、当家の存続を至上命題と考える節があるのだ。

 そのほか執事や使用人たちも、次期当主である俺の言動に厳格な視線を光らせている。

 正直気が滅入る毎日であった。

 

 家督至上の小世界に嫌気が差して家出を決意したとき、唯一の気掛かりは、歳の近い妹であった。

 彼女は俺よりも聡明で可憐で、何より剣術才能に恵まれた。

 次期当主は俺でなく、妹のほうが立派に務まる思う程には大きな器だったのだ。

 ただ時折見せる年相応の兄妹じゃれつきが俺の癒しだっただけに、責務を投げ渡す罪悪感はあった。

 それが心残りだった。


 しかし、綿密な計画策定のうえ、決行日は俺の社交界初陣日に定めた。

 本当は穏便に済ませたいが、事前協議で家出を打診しようものなら軟禁必至だ。

 それならば、いっそ家督面子に関わる重要日に失踪し、勘当を受けるほうが後腐れもないだろうと。


 ところが計画は最終局面にて頓挫危機に見舞われた。

 幾度もの警備体制をすり抜け、広大な屋敷の敷地外へ出る寸前だった。

 脱走その瞬間を、妹に目撃されたのである。


 一瞬、妹は呆気にとられて唖然していたが、持ち前の切れる頭で俺の算段を即座に見抜いたようだ。

 彼女は叫ぶ。俺を引き留めようと懸命な声音で叫び続ける。

 それが周囲の警備兵を寄せ、計画がご破算になりかけるが、俺には知識と魔法がある。


 実際に外地を練り歩いたことはないが、周辺地理を頭に叩き込み、念入りな旅順手配も済んでいる。

 たとえ、今回の目撃で事前の旅順計画が破断になったとて、脱走さえ成功すれば修正可能だ。


 目的地はただ一つ。

 家督に恥をかかせ、自主逃亡した息子など勘当されるに決まっているが、いかに実家が金と権力に物を言わせようとも、簡単に手出しができない場所。


 赤い砂漠へ―――。 



現代思想まで至る現象学は、個人的にヘーゲルが源流だと思います。

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