風が吹いたら冷え切った仲の婚約者が溺愛してくるようになった
侯爵令嬢のエリザべスは溺愛系小説が大好きな十六歳。
艶やかな黒髪、夜空の色の瞳がチャームポイントの令嬢である。
しかし、自分の婚約者であるマイケル第二王子は子供っぽくて、エリザベスのことを溺愛どころか冷遇していた。
彼は、エリザベスを口説くどころか、彼女が嫌がるようなことばかりしてくるのだ。年は同じで、見た目だけは金髪碧眼の美青年、物語に出てきそうな姿なのに、やることなすことが幼稚で無配慮なのである。
実際、彼とはと顔を合わせる度に喧嘩ばかりで、エリザベスは辟易していた。
「いつも可愛げがないんだよ、少しは媚びてみろよ!」
「なんでわたしが貴方に媚びなきゃいけないのよ! 貴方こそまともに口説いてみなさいよ!」
「お前がそんなだから口説く気も起きないって言ってるんだよ!」
「そんな子どもみたいな人に媚なんか売るわけないでしょ! なんの得も無いのに!」
「お前は誰にだって媚は売らないだろ! やり方も知らないくせに適当なことを言うな!」
それもそうかと真顔になるエリザベスに、マイケルが苦虫を噛み潰したような顔をしていたのは、つい先日のことだ。
(もう、面倒くさいことこの上ないわね)
エリザベスは、冷えた仲の婚約者のことを思い、ため息をつく。
元々、エリザベスとマイケルは幼馴染だ。
エリザベスは冬の社交シーズン、兄が第一王子との勉強会に行く際、一緒に王宮の子ども部屋に上がることが多かった。そこで、マイケルとも接触があったのである。
その頃から、マイケルは令嬢達にチヤホヤされていた。
そして、それを喜んでいる様子も見受けられた。
エリザベスはそれをまあその、……冷めた目で見ていただけだ。
なのに、蓋を開けたら、王家の肝煎りでエリザベスはマイケルの婚約者になっていた。
一体なんだというのだ。
(そんなにチヤホヤされたいなら、他の令嬢にしなさいよ! 候補は沢山いたでしょうに)
面倒くさすぎて、最近のエリザベスの脳裏には、婚約解消の文字ばかりが思い浮かぶ。
「誰か素敵な男性がわたしを攫ってくれないかしら」
侯爵家の王都別邸でそう呟くと、兄エイベルが紅茶でむせてゲホゲホ咳き込んでいた。
「何を言い出すんだ、エリー」
「だって、わたしも幸せな恋がしたいもの」
「マイケル殿下とすればいいじゃないか」
「殿下はわたしのこと、好きじゃないし」
「……殿下が好きになってくれさえすれば問題ない?」
ニヤッと嫌な笑い方をする兄エイベルに、エリザベスは思案する。
マイケルがエリザベスを好きになって、彼と恋をする。
この七年間、意地悪しかしてこなかった、あのマイケルと?
……。
「無しだわ。わたし、あの王子のこと好きじゃない」
真顔でそう答えると、兄はこの世の終わりのような顔で青ざめている。
エリザベスは首を傾げながら、まあいいかと、砂糖とミルクでふんだんに甘くした珈琲を口に含んだ。窓の外の晴れ渡った空を見ながら、エリザベスは思う。
九歳の時に婚約して七年。
ここまで相性が悪いのだ、もうそろそろ潮時だ。
特に、最近はマイケルのことを考えるだけで嫌な気持ちになってしまう。色々と、限界なのだ。
(お父様に、婚約解消の申し出をしなきゃね)
そんなふうに考えているうちに、事件は起きた。
王都の往来、ペット用品店の前の広場にて、エリザベスはマイケルと大喧嘩を始めてしまったのだ。
「何故そんなものを買うんだ! ポッティは俺とフリスビーをしたがっているんだ!」
文句をつけてくるマイケルに、エリザベスは怒髪天で応戦する。
「フリスビーならもう買ったじゃないの! ポッティは私と玉遊びをしたがっているのよ!」
「玉だって別のサイズのやつが既に沢山あるじゃないか! これ以上要らないだろう!」
「サイズや跳ね方が違うのよ、ポッティのことを分かっていないくせに口を出さないで」
「ポッティは俺の犬だ!」
「横取りした人が偉そうに! 元々わたしがもらいたかった犬です! 一番仲が良いのはわたしよ!」
「仲が良いのは飼い主の俺に決まっているだろう!」
「冬の社交シーズンの間、二日に一回散歩に行ってるのはわたくし!!」
「俺も二日に一回散歩に行ってる!!!」
「貴方は勝手にわたしとポッティについてきてるだけでしょう!」
息を切らした二人は、両者引くことなく睨みあう。
◇◆◇◆
実は、ポッティは元々、エリザベスの家が引き取る予定の犬だったのだ。
エリザベスが十歳のとき、子犬を飼いたいと侯爵である父に強請ったところ、父侯爵はとある伯爵家から子犬をもらう約束を取り付けて来た。
そして、これが全ての原因なのだが、親達の計らいで、子犬の引き渡しの際に、王宮の子ども部屋で他の子ども達にも、子犬を見せてやろうという話になったのである。
子ども部屋にて、十歳のエリザベスは子犬を抱きかかえ、「うちが引き取るの! 今から家に連れて帰るの!」と自慢げに喜んだ。そして、なんやかんやの末、当時十歳だったマイケル第二王子が「この子犬は俺が引き取る!」と横槍を入れてきたのである。
第二王子にそう言われてしまうと、大人達は反対できない。
泣いて抵抗するエリザベスを横目に、ポッティは王家のものになってしまった。
気を使ったブリーダーの伯爵家の者達は、エリザベスに他の犬を譲ると申し出たが、エリザベスはポッティが良かったので首を横に振る。父侯爵に泣きついているエリザベスに、きまり悪そうにしたマイケルは、「婚約者なんだし、散歩をしに王宮に会いにくればいい! 毎日な! 毎日うちに来いよ!!」と威丈高に叫んだ。
そんなマイケルに、エリザベスがビンタと「大嫌い!」をお見舞いし、「今シーズンは二度と会いたくない!」と叫んで彼を泣かせた事件の記憶は、関係者一同の記憶から一生消えないだろう。
なお、エリザベスは翌日からポッティの散歩のため王宮に現れたけれども、マイケルはそのシーズン、彼の父である国王により、エリザベスに近寄らせてもらえないという罰を受けた。マイケルは毎日泣いていたが、エリザベスはそのことを知らない。
◇◆◇◆
というわけで、因縁の犬ポッティの件は、二人の間で何かと火種になりがちだったのだが、今日はまさにその火種が着火し、業火となってしまった。
エリザベスがポッティのおもちゃを買いに行こうとしたら、マイケルが「婚約者だからついて行く!」と勝手についてきた挙句、エリザベスの買おうとしたおもちゃに文句をつけ始めたのである。
「今日という今日はもう我慢ならないわ!」
「それはこっちのセリフだ! お前はいつも自分のことしか見えてない!」
「何よ、それはそっちでしょう!? 大体、フリスビーなんて嫌なのよ、わたしは上手く投げられないんだから!」
「俺が投げるからいいんだよ!」
「そうしたら、毎回貴方にいてもらう必要があるじゃないの! 面倒くさい!」
エリザベスがそう叫ぶと、ぐっとマイケルが怯んだ。
心なしか、マイケルは涙目になっているようにも見える。
侍従侍女や護衛達は、ただただ痛ましいものを見るような顔で側に佇んでいる。
広場で二人に注目する観衆は察した。
目の前の高貴な金髪碧眼の令息の、不器用な想いに気がついた。
そして、頼むから察してあげてくれと、黒髪美女を見つめた。
しかし、エリザベスはそんな視線には気づかない。
夜空色の瞳で、目の前の憎きマイケルを渾身の力で睨んでいるからだ。
ポッティとの間を引き裂く敵。
エリザベスに興味なんてないくせに、勝手に婚約を結んできて、彼女の心を弄ぶ因縁の相手!
「そういうところが自分勝手だって言うんだ! 誰が好き好んでこんな面倒な女……っ!」
「なんですってぇ!?」
顔を真っ赤にして悔しそうに叫ぶマイケルに、エリザベスは目尻を吊り上げる。
その光景に、観客はギョッと目を剥いた。
待て待て落ち着けボーイ、そこから先は言ってはならない。
誰もがそう思って息を呑んだところで、エリザベスが叫ぶ。
「そんなに言うなら、こんな婚約――」
解消よ!!!!
とエリザベスが言おうとしたところで、風が吹いた。
暴風で女性陣のスカートが翻り、目を凝らした男性陣の目に砂が入り、その中に居た巨漢がよたつき、お尻で果物屋台の荷車にぶつかり、荷車が坂を転げ落ち、根元が腐って倒れそうだった神木にぶつかり、神木が大きく揺れて根元で本を読んでいた魔術師の頭に当たり、魔術師の持っていた魔石が複数転がり、二人の近くにそびえたつ女神の像を取り囲むように落ちた。
像が光り輝き、周囲の者が唖然としたのもつかの間、視界が真っ白に染まる。
結果、ドガーンと雷が落ちたような音と共に、女神像は爆発した。
粉微塵になった気の毒な女神像のかけらは、周囲の観衆には当たることなく、だがしかし、エリザベスとマイケルの頭にクリティカルヒットした。
倒れ伏す二人。
沈黙の護衛達と観衆。
三十秒ばかり固まっていた彼らは、ぴくりとも動かない二人に、ようやく我に帰って助けを呼びに走ろうと動き出す。
動き出したところで、むくりと起き上がったのはマイケルだった。
マイケルはぼんやりと辺りを見渡した後、ハッと何かに気がついたようなそぶりで辺りを見渡し、気絶したエリザベスを発見する。
唖然としたような顔をした後、彼は慌ててエリザベスに駆け寄り、駆け寄ったマイケルに声をかけられたエリザベスはようやく目を覚ました。
「エリー、大丈夫か!」
「えっ? ええ、大丈夫……」
エリザベスは、ゆっくりと意識を浮上させながら、目をぱちぱちと瞬く。
なんだか、誰かに抱えられている気がする。
誰かというか、マイケルだ。
なんだマイケルか。
げんなりした気持ちでしっかりと目を開けると、そこには心配そうにこちらを見つめる碧い瞳があった。
「よかった、エリー! 愛しい君が倒れていたから、息が止まるかと思ったよ」
「ええ」
……。
「……ええ?」
「まだ意識がはっきりしないのかい、エリー」
「…………マイケル?」
「そうだよ。マイクと愛称で呼んでほしいな」
「え?」
「君にマイケルと呼ばれるのは、他人行儀に感じて辛いんだ」
「……え?」
「可愛いエリー、それよりも痛いところはないかい? 何かおかしなところは?」
「わたしは大丈夫だけれども……おかしなところがあるのは貴方ではなくて?」
「俺はいつでも君への愛でおかしくなりそうだけど」
「どういう返事なの!?」
「今は君が傍に居るから大丈夫だよ」
「お医者様を呼びましょう!」
「そうだね、君は急にこんなことになって動転しているようだし、医者を呼ぼう」
「動転しているのはわたしかしら!? 貴方ではなくて!?」
「とりあえず、王宮に戻ろうか。俺だけのお姫様」
そう言うと、マイケルはエリザベスを横抱きにして、ベンチに座らせる。
ざわつく侍女や護衛、観衆達の心は、エリザベスの心と共にあった。
なんだ、一体何がどうしたというのだ。
先ほどまでのシャイボーイはどこへ行った?
エリザベス達が動揺の余り固まっている間に、マイケルは護衛たちに指示し、馬車を呼びつけて二人で乗り込んでしまった。
その馬車の乗り方も普通ではなかった。
馬車の中では、何故かマイケルがエリザベスを横抱きにしたまま、膝に座らせているのだ。
あまりの展開に、エリザベスが抵抗するのを忘れて固まってしまったが故の事態である。
「おかしいわ……」
「うん?」
「おかしいの……絶対おかしいと思うの……」
「可愛いエリー、どうしたの」
「耳元でこしょこしょ喋るの、やめてくれるかしら!?」
「だって、エリーは耳が弱いから」
「確信犯! いえ、なんで知ってるの!?」
「愛しのエリーのことはなんでも調べたからね」
「どう調べたら耳が弱いことが分かるっていうのよ!!!!」
くすくす笑っているマイケルに、エリザベスは涙目になる。
マイケルがおかしい。
あからさまにおかしい。
エリザベスの知っているマイケルは、こう、子どもっぽくて、エリザベスに興味がない男だったはずだ。
こんなふうに、エリザベスのことを愛称で呼んできたり、睦言を囁いたり、膝に載せたりする男ではない。
大体、こんなのは、エリザベスの大好きな溺愛系小説の中でしか起こり得ない出来事のはずだ!!
エリザベスが顔を真っ赤にしてわなわな震えていると、マイケルがとうとう声を上げて笑い出した。
「何がおかしいの!!」
「いや、やっぱりエリーは可愛いなと思って」
「心にも思わないことを言うのはやめてちょうだい!!!」
「いつもいつでも、心から思っているよ。俺のエリーは最高に可愛い」
エリザベスは、マイケルの慈しむような視線を受け止めることができない。
マイケルの顔は、なんだか大人びていて、エリザベスの知っているマイケルとは違って見えるのだ。
動揺しすぎて頭をショートさせているエリザベスに、マイケルはようやく秘密を打ち明けた。
「実はさ。俺は十五年後の未来から来たマイケルなんだよね」
目を丸くするエリザベス。
マイケルの様子がおかしいとは思っていたが、とうとうここまでおかしくなってしまったのか。
「俺の奥さん曰く、四十八時間ぐらいで戻れるらしいんだ。だから、それまでよろしくね。愛しい婚約者さん」
そう言うと、マイケルはエリザベスの頬にキスを落とした。
エリザベスは気絶した。
―✿―✿―✿―
「やあ、エリー。今日も一段と美しいよ。流石は俺の未来の奥さんだ」
翌日。
マイケルは朝からエリザベスを迎えに来た。
エリザベスは昨日、気絶したまま、マイケルの手によって侯爵家王都別邸に送り届けられた。
だから、彼女が彼に会うのは、頬にキスをされて以降、初めてのことだ。
さてはて、侯爵家王都別邸にやってきたマイケルは、昨日と様子が変わっていなかった。
いや、キラキラしい笑顔に加えて、真っ赤な薔薇の花束を持っているあたりは、昨日よりもある意味、迫力が増しているといえる。
そのあまりのまばゆさに、居間にいたエリザベスは目を丸くして固まった。
ついでに、侯爵家の一同は、いつもと明らかに様子が違う未来の婿に、顎が落ちんばかりに口を開いて唖然とした。
そんな彼女達に構わず、マイケルはニコニコ満面の笑みである。
この状況下でいち早く我に返ったのは、エリザベスの父であった。
「で、殿下。ご機嫌麗しゅう……」
「ああ、侯爵。早くからすまないな」
「いえ、私共はまあ、なんの問題もなく……」
「麗しい我が未来の花嫁が他のツバメに攫われないよう、射止めに来たんだ。エリザベスを連れて行ってもいいかな?」
マイケルの言葉に目が飛び出さんばかりに驚いて、慌ててエリザベスを見る父侯爵に、エリザベスは無性に恥ずかしくなり、顔を覆って「もうやめて!」と叫ぶ。
「ああ、エリー。そうだね、君以外の人間とばかり話をしてすまない」
「そこではなく!」
「嫉妬する君も可愛いよ。大丈夫、今から丸二日、君のためだけの時間の幕開けだ!」
「『プレゼントは僕』みたいな発言やめてくれるかしら!?」
「君の一番喜ぶことを考えた結果だ……」
「自己評価が高すぎる」
「冗談だよ。俺が君と一緒に過ごしたいんだ。一緒に来ていただけませんか、婚約者殿」
紳士の礼でそう言われてしまっては、さしものエリザベスも断ることができない。
ふわりと大人びた笑いを浮かべるマイケルに、動揺に震えるエリザベスは攫われるようにして侯爵家を出た。
背後で、「ツバメ……」と呟く父侯爵の言葉が聞こえた気がするが、エリザベスは自分の心を守るために、耳を物理的に塞ぎ、ついでに心の耳も塞ぐ。
馬車に乗り込んでどういうことか詰め寄ろうとしたところで、エリザベスはマイケルに先手を打たれた。
「本当は、君と離れるのが不安で仕方がないんだ」
膝には乗せられなかったものの、奥の座席に座ったエリザベスは、手を握られ、壁に手を突かれ、詰め寄られながらそう告げられ、目を白黒させる。
「な、な、な、な」
「未来の自分とはいえ、十五年前のことを詳細には覚えていないからね」
「ならわたしのことも」
「ただし、君のことはなんでも記憶している」
「何故よ!」
「愛が故だ……」
「あ!? あっ、あの、えっ、あの!?」
「ぶっちゃけると君と出会って以降、毎日エリザベス日記をつけて毎週読み返している」
「そんなものは燃やしてしまいなさい!!」
「愛するエリーの幼少期からのハイライトシーンが書かれているんだ」
「曇りなき眼で本人に向かって言うことですか!」
ジリジリ寄ってくるマイケルから逃げようと抵抗しながら、エリザベスは涙目で叫ぶ。
ふと、マイケルが愛おしそうな目でエリザベスを見つめた後、エリザベスに向かって尋ねた。
「エリーは溺愛系小説が好きだろう? こういうのに憧れてたんじゃないのかな。何故逃げるんだ?」
はたと我に返ったエリザベス。
言われてみればそうだ。
愛されたい、幸せな恋がしたいと思っていた。
目の前の婚約者を、エリザベスはまじまじと見つめる。
目の前には金髪碧眼の若い王子。
よく知っているはずの婚約者は、いつもと違う表情で、自分を好きだと言い、口説きにかかっている……。
ブワッと赤くなったエリザベスに、マイケルは嬉しそうに笑っている。
「違うの。これは、ただちょっとびっくりして!」
苦しい言い訳は、今のマイケルには通じなかった。
エリザベスが本気で嫌がっていないことを察した彼は、にこにこと笑顔を浮かべたまま、エリザベスの手を取り、勝手に恋人繋ぎにしてしまう。
そして彼はその日一日、愛の言葉を囁き、口説き、からかい続けてきたので、日が暮れる頃には、エリザベスはくたくたに疲れ果ててしまった。
「ほら、エリー。侯爵家についたよ」
「本当……?」
「可愛いエリー。馬車の中でそんなふうに無防備にくったりしていたら、悪い男に襲われてしまうよ」
「そんな狼みたいな目をして言うことかしら!?」
「言うだけ親切だと思わないかな?」
そう言うマイケルは、笑顔だけれども、目が笑っていない。
エリザベスは気がついた。
目の前の男は、どうやら今日、本気でエリザベスを口説いていたらしい。
そして今、一日愛を囁いた報酬を求めているのだ。
「ほら、可愛いエリー。こちらを向いて」
頬に手を添え、微笑むマイケルに、動揺しながらも断る理由が思いつかず、エリザベスは息を呑む。
そう、今エリザベスに迫っている目の前の男は、なんといっても、マイケルなのだ。彼女の婚約者で、この国の第二王子。
マイケルとエリザベスの仲に問題がないのであれば、相手は最高権力者の息子なのだから、婚姻まで一直線なわけで、邪魔することができる者などいない。口付けの一つや二つしたところで、なんの問題もない。
とはいえ、今の彼は、彼女の知る彼ではない。
果たして、これは浮気ではないのだろうか?
そもそも、エリザベスはマイケルとこういうことができるのだろうか。
婚約を解消したいとばかり思っていたので、彼女はこういった異性交友について深く考えたことがなかった。
(だって、殿下は)
目の前のマイケルは、優しく、大切なものを見る目でエリザベスを見ている。
だけど、きっと、マイケルはエリザベスにこんなことはしない。
あの人は、エリザベスの嫌がることをするばかりで、こんなふうに愛おしそうな顔を向けてきたことなんて、一度だって――。
「ごめん、調子に乗った」
ハンカチで頬を拭われ、エリザベスはようやく、自分が泣いていることに気がついた。
ハッとしたエリザベスは、「違うの」と呟くも、信じてもらえない。
目の前の彼は、悲しそうな顔で自嘲している。
「悪かったよ。俺が性急すぎた」
「……いえ」
「……そんなに嫌?」
遠慮がちにそう問われて、エリザベスは真っ赤になって俯く。
「嫌じゃないわ」
「……そう」
「……だけど、その」
エリザベスが絞り出すようにして呟いたのは、「貴方は殿下じゃないから」という言葉だった。
それを聞いたマイケルは、目を見開いて固まったあと、顔を手で覆い、はぁーーーとため息を吐いた。
「な、何?」
「いや。君がいじらしすぎて、悶えてる」
「え!?」
「……あと、自分の馬鹿さにほとほと呆れてる……」
肩をすくめるマイケルに、エリザベスはどう反応したらいいのか分からない。
ただ、女神像で頭を打ってからというもの、ずっと余裕の笑みを浮かべていたマイケルが、照れたように赤くなって目を合わせないようにしていて、それがなんだかくすぐったくて、彼から目を離すことができなかった。
「馬車を降りようか。使用人達も待っているし」
「えっ」
「……今から俺の部屋に行く?」
「今日はありがとうございました!!!!!」
「うん。こちらこそありがとう。また明日も迎えにくるね」
マイケルはくすくす笑いながら、エリザベスをエスコートし、馬車から下ろすと、紳士の礼をして帰っていってしまった。
エリザベスは、彼の乗った馬車の後ろ姿を、何故か不満を感じながら、ぼんやりと眺めていた。
(結局、何もしないの)
そう思い、すぐさま(何よそれ。何かして欲しかったみたいじゃないの!)と慌てふためく。感情の乱高下にどんどん体温を上げ、百面相を続け、ばちーんと自分の両頬を叩いた。
そしてエリザベスは、「お嬢様なんてことを!!!」と、周囲の侍女達に烈火のことく叱られたのである。
―✿―✿―✿―
「……ご機嫌よう、可愛いエリー。迎えにきたよ」
次の日の朝も、マイケルはエリザベスを迎えにきた。
ただし、昨日とは違い、目を丸くして驚いていた。
侯爵家王都別邸の玄関前に、めちゃくちゃお洒落をしたエリザベスが佇んで待っていたからだ。
あからさまにマイケルを待っていた様子の彼女は、マイケルを見ると、パッと華やぐような笑みを浮かべたあと、慌てて咳払いをして、そっけない態度を取り繕った。
「もしかして、待ってくれてた?」
「違うわ。ちょっと、近場に出かけようかとか思っていたの」
「用事があるの?」
「そうよ。だから、貴方を待っていたわけじゃなくて」
「そっか。じゃあ用事が済むまで待ってるよ」
「べ! 別に、貴方がどうしてもって言うなら、貴方を優先してあげてもいいわ」
「もし約束してる人がいるなら、その人を優先してあげてほしいな」
「相手はいないわ! ちょっと、そう、出かけようと思っただけなの。だから別に!」
涙目になったエリザベスに、マイケルは声を上げて笑い始めてしまった。
ただひたすら立ちすくむエリザベスに、お腹を抱えて笑いながら、マイケルはなんとか謝罪する。
「ご、ごめん。悪かったよ」
「意地悪!」
「可愛いエリー、機嫌を直して」
「貴方が悪くしたの!」
「いや、本当だよね。俺が悪かったよ。こんなにツンデレ可愛いエリーを見られるとは思わなくて、驚いたんだ」
「ツンデレって言わないで!」
エリザベスがそっぽを向いたところで、マイケルは後ろから彼女を抱きしめてきた。
驚きでエリザベスが真っ白になっているところに、マイケルは「俺のためにお洒落をしてくれてありがとう。エリー、本当に綺麗だ」と小声で囁く。
羞恥に耐えられなくなったエリザベスは、必死にマイケルを睨みつけた。
「……わたし、今日貴方とずっと一緒にいる自信がないわ!」
「それは困った。じゃあ、美しい姫君を、一方的に攫ってしまうとしよう」
「口説くのをやめようとは思わないの!?」
「あと一日もないからね」
ぎくりと身をこわばらせるエリザベスに、マイケルは苦笑する。
エリザベスを馬車に誘い、自身も馬車に乗り込むと、マイケルは大人びた顔で微笑んだ。
「今日はね、君が、今日戻ってくる予定の俺とも上手くやっていけるように、ツアーを組んだんだ」
「戻ってくる……」
「うん。君と同じ年、十六歳の俺」
「……そんなの、無理よ」
「そんなことないと思うけどなぁ。まあ、分かった。今日の残り数時間で、俺は君の気持ちを変えてみせよう」
「ええ……?」
「もっと信用してくれてもいいんだよ!?」
「分かったわ」
意外にも素直な返事に、マイケルはきょとんとした。
そんな彼に、エリザベスはふわりと微笑む。
「わたし、殿下のことは信じてないの。だけど、貴方のことは信じてみたい」
マイケルは顔を覆った。
エリザベスは首を傾げて「どうしたの」と尋ねたけれども、マイケルは彼女の疑問には答えてくれない。
その代わり、彼はただ一言、「エリーはずるい」と呟いた。
―✿―✿―✿―
こうして、十五年後のマイケルによるツアーが開始された。
「その名も『十六歳の大馬鹿野郎の黒歴史ツアー』だ」
「え?」
「まずはこちらをどうぞ」
マイケルの私室に案内されたエリザベスは、その奥にある書斎に通された。
とある一角の書棚は木の扉がついており、マイケルはそれを持っていた鍵で空ける。
そこには、ニ十冊にも及ぶ本が並んでいた。背表紙には、一から二十までの数字が書かれている。
「これは?」
「大馬鹿野郎の日記です」
「えっ。見ていいの?」
「見てはいけませんが、見せます。今日だけですよ」
「……」
「本当に、今日だけだからね?」
今からでも辞めたそうにしているその姿に、エリザベスは急いで日記を手に取る。
そして、中身を読んで、凍り付いた。
▽~~~~▽
○月2日
今日はマイハニーが俺に会いに来てくれた。
ハニーは相変わらず妖艶で、彼女に見られるだけで、俺は緊張してしまう。
もっと気の利いたことを言えと、兄にも弟にも姉にも妹にも母にも父にも毎日説教されているというのに、彼女を目の前にすると上手く気持ちを伝えることができない。
いや、俺は悪くない。
美しすぎる彼女がいけないんだ。
彼女の夜空のような瞳の前では、俺のような存在はチリの如く消え去ってしま(続きが血で汚れている
△~~~~△
エリザベスは青ざめた。
「……あいつ、浮気してる……!」
「どうしてそうなるんだよ!? ここに書かれているのは君のことだよ!!」
「いえ、でも、このマイハニー様がわたしである可能性は、天地がひっくりかえる可能性よりも低いわ……」
「どれだけ自己評価が低いんだ!? 君のことだってば!!! ほら、続きを読んでごらんよ!」
マイケルに促され、エリザベスは仕方なく続きを読むべく、日記に目を落とす。
▽~~~~▽
○月3日
昨日は大変だった。
「俺は悪くない」「彼女がいけないんだ」と声に出しながら日記に書いたところを長兄に見つかり、「いいかげんに目を覚ませ」「お前がそんな態度じゃエリザベスが可哀そうだろうが!」と有形力を行使されてしまったのだ。
気持ちは分からないでもないが落ち着いてほしい。
俺ごときが天から舞い降りた彼女の前で上手く立ち回れるわけないだろうが!!!
ところで、今日はマイハニーが勉強のために王宮の教師のところの来る日だ。
マイハニーが俺の行動圏内にいると思うだけで力がみなぎってくる。今日は最高にいい日だ。彼女の顔を見ることができたら、もっと最高の一日になるだろう。
そう思って、彼女のことを覗きに行ったんだ。
そうしたら、彼女は何と、教師にクッキーを渡していたんだ!!!!!!
俺は彼女のクッキーを食べたことがないのに! 男の教師なんかに!!!!!!!
だから、俺はその場に乱入して、「甘いものが食べたかったんだ、気が利くな!」と言ってクッキーに手を出した。そして慌てて咀嚼して、味わう間もなく飲み込み、教師の方を見てやった。
そうしたら、彼女は「ととと突然現れて勝手に取らないでよ!」と怒り出したので、「なんだよ、こんな男にはクッキーを贈るのに、俺が食べたら悪いっていうのか!」と叫んでしまった。違うんだ。マイハニーにはこう、優しい言葉をかけたいと思ってるんだ。しかし、このときは(このときも?)つい、叫んでしまった。
そうしたら今度は、「おやおや、『こんな男』とは……私も……若者扱い……されたものですな……」と、教師が震えながら笑い出したんだ!!!
しかも、エリザベスは涙目になり、「もう、ばか! ばか!! 知らないんだからね!!!」と言って、慌てたように走り去っていってしまった。
なんだ。
いったいなんなんだ。
とりあえず、「今後必要以上にエリザベスに近づくな!」と教師には伝えておいた。
教師は、「……授業はいいんですよね? 殿下の御父上からのご依頼ですしね」と、ぷるぷる震えながら聞いてきた。それは俺にも防ぎようがないと思い、「頼むから授業のときも十メートルは離れてほしい」と頭を下げてしおらしくお願いした。教師は爆笑していた。あれは本当に酷い大人だと思う。
ちなみに、何故か夕方、父上と母上が医者を連れて、心配そうに俺の様子を窺いにきた。
健康診断だと言っていたけれど、一体なんだったのだろう。
△~~~~△
「わたしが作ったクッキーを横取りしたあの日の!!!!」
「その節は本当にごめんね……」
「いえ。どちらかというと、わたしが謝るべきかもしれないわ」
「え?」
「あれ、六十歳記念に犬を飼い始めた教師のために作った、犬用クッキーだったの」
「ゲッホゲホゲホゲホ」
「人体に悪いものは入っていないけど、薄味だったと思うし、不安だったから、国王陛下と王妃様に伝えに行ったのよ」
「それで親父とお袋が様子を見に来ていたのか!!!!」
頭を抱えるマイケルに、エリザベスは痛ましいものをみるような顔をした後、日記に目を落とす。
確かに、ここでいう『マイハニー』はエリザベスのことのようだ。
だが、しかし……。
「なるほど殿下は創作系小説の執筆にハマって」
「どうしてそうなるんだよ!!!」
「いえ、でも、だって。殿下はわたしのこと、好きじゃないでしょ?」
「好きだよ!! 出会った時から、俺はエリーに惚れてるんだから!」
しーんと静まり返った室内に、マイケルが居心地悪そうにつぶやく。
「君には、全然伝えてなかったけどさ……」
エリザベスは、真顔になっていた。
だって、突然この面白日記が、マイケルがエリザべスへの愛をつづったものだと聞いて、信じられようか。いや、無理。
「無理だと思うから、色々用意したんだよ」
「あら。心の声が口から出てました?」
「そうだね……」
疲れ果てた様子のマイケルは、次の観光地(?)へとエリザべスを案内した。
そこは、マイケルの隣の部屋のクローゼットだった。
マイケルが開けていいと言うので、エリザベスがクローゼットの扉を開くと、その中には彼女が目を疑うような品々が入っていた。
華やかな衣装の、女性服、女性用の鞄、女性用のお飾り。
薄水色地に金の刺繍が入っているなど、全てマイケルの色で染まっているのが異様な光景である。
エリザベスは絶句した後、呟いた。
「……あいつ、浮気してる……!!」
「だからなんでだよ!!? 全部君へのプレゼントだよ!!」
「いえ、でも、この洋服が全て私あての品である可能性は、王宮に隕石が落ちる可能性よりも低いわ……」
「どれだけ自己評価が低いんだ!? 君のものだってば!!」
「でも、ほとんどの品のサイズが、わたしとは違うもの。それに、わたし用に作ったなら、なんでわたしに渡さないのよ?」
眉根をよせるエリザベスに、マイケルは目を彷徨わせながら、もごもごと言い訳をする。
「ずっと渡したかったんだけど」
「うん?」
「独占欲丸出しすぎて、なんか恥ずかしくなってきて、渡したいなーと思いながらずっと悩んでいたら、君が成長してしまって」
「え?」
「だから、その。君と出会ってから、毎年、毎シーズン、作ってたから」
顔を真っ赤にしているマイケルに、漸くエリザベスはまじまじとクローゼットの中の服を見る。
言われてみれば、小さなものほど、大分前の流行の意匠のものとなっている。
「なんで言わないの」
「日記に書いてあるけど見る?」
「いえ、いいわ」
真顔のエリザベスに、マイケルは涙目で俯いた。
この後も、マイケル主導の恐ろしいツアーは続けられた。
マイケルがエリザベスに贈りたかったポッティ用のボール、フリスビーが上手くなるための指南書、『簡単に言える誉め言葉集』という謎の本、エリザベスに贈るために美しい紙につづられ、封筒に入ったポエム集……。
「しにたい」
「自分で案内しておいてなんなのよ……」
全てのツアーを終えた二人は、王宮の南の塔の上、見晴らしのいい展望室で、王都を眺めながら、二人で話をしていた。
「仮に殿下がわたしのことを好きだったとしてよ?」
「好きなんだってば……」
「なんでわたしからポッティを奪ったのよ」
「君が、ポッティの世話のために、今シーズンは王宮に来ないって言いだしたから」
エリザベスは目を瞬く。
そういえば、そんなことを言ったかもしれない。
そもそも、エリザベスが王宮の子ども部屋に通っていたのは、兄エイベルの付き合いに過ぎなかったのだ。
だから、他所で用事があるなら、エリザベスは王宮には来ない。
「俺に会いにくるっていう用事はそもそもなかったみたいだしさ……」
「会いに来てくれたらよかったのに」
「え?」
「皆の居る前で、殿下だけうちに誘ったら、『ずるいずるい』って大変なことになっちゃうでしょう? だから、後で二人になったときに、『殿下の方からポッティとわたしに会いに来て』って言おうと思っていたのよ」
くすくす笑っているエリザベスに、マイケルは涙目になった後、はあーーーとため息を吐いた。
「どうしたの?」
「いや。もう、本当、自分が情けないよ」
「ふふ。昨日はずっと余裕だったのに、今日はそんな姿ばっかりね」
「惚れた弱みだよ。昨日は取り繕っていたけれど、俺は君の前ではいつもこうだ」
マイケルはがっくりと肩を落とした後、展望室のソファの背もたれにぐったりとよりかかった。
憔悴した様子のマイケルに、エリザベスは微笑むと、窓の外、晴れ渡った空や王都の美しさに目をやる。
いつも見ているはずの光景は、なんだか美しくて、穏やかな気持ちで、エリザベスはマイケルに話をすることができた。
「わたしね、本当は九歳で婚約したときから、殿下が好きだったの」
ガバっと起き上がったマイケルの方を、エリザベスは見ない。
「わたし、こんな髪でしょう?」
「綺麗だよね。なめらかなビロードみたいだ」
「……子ども部屋では最初、暗い色だってからかわれてたでしょ?」
「覚えてるよ。見る目がないにもほどがある」
「殿下がそう言ってくれたから、なんだか自分に自信が持てたの」
宝物を見せるような、どこか嬉しそうな顔で、エリザベスは思い出を語る。
九歳のあの日、王宮の庭で泣いていたエリザベスを慰めてくれたのは、マイケル第二王子だった。
「黒いのはだめ?」と泣きながら尋ねたエリザベスに、彼は「すごく綺麗だ」と一言だけ言って、走り去った。
本当に、そのたった一言だけ。
けれども、エリザベスには、それがとても嬉しい事だったのだ。
それを言った時のマイケルが、なんだか照れたような素振りで、本当に心から思ったことを言ってくれていると感じたせいでもあるのだろう。
だけど、マイケルの周りには、いつだって可愛い令嬢達が沢山いて、エリザベスの入る隙なんて少しもなかった。
「だからね、皆に嫌がられる黒髪の自分は、殿下の邪魔にならないように、遠くで見ているだけにしようって思っていたの」
そうしたら、ある日突然、エリザベスはマイケルの婚約者に選ばれてしまった。
驚いて、でも嬉しくて、親に連れられてマイケルに会いに行った。けれども、マイケルはまだ令嬢たちに囲まれていて、そのときふと、見たこともないくらい優しい顔をしたのだ。
「金髪でね、若草色の瞳の、可愛い女の子だったの。ちっちゃくて、お人形みたいで」
エリザベスは、そのとき、動けなかった。
だって、エリザベスは黒髪で、背がそんなに小さくもなくて、マイケルの目の前にいるような可愛らしい令嬢にはなれない。
しかも、マイケルはエリザベスを見た瞬間、カッと顔を赤らめたあと、目を逸らしたのだ。
エリザベスは、その場から走り去った。
父侯爵に、今日は帰りたいと泣いて訴えて、顔合わせは別日程に変えてもらった。
そうして、エリザベスは心の準備をして、マイケルと向き合うことにしたのだ。
婚約を聞いて嬉しかった心に蓋をして、冷たいそぶりのマイケルを見ても傷つかないよう、『元々嫌われているんだから』と自分の気持ちに魔法をかけた。
『もしかしたら、好きになってもらえるかも』『政略結婚なのだから、簡単には婚約解消なんてできない』という魔法の盾を手に入れて、婚約解消を先延ばしにした。溺愛小説を読んで、自分の恋は諦めることにした。
でも、最近はマイケルのことを思うだけで嫌な気持ちになるばかりで、エリザベスは本当に限界だったのだ。
「殿下が望んだ婚約じゃないって、最初から分かっちゃったの。だからね、わたしがあんまり、好きになっちゃいけないんだろうなって思って、殿下のことはあんまり考えないようにしてたの。だから七年間、意地悪ばっかりされても平気だったのよ」
「ごめん」
「なのに、こんなふうに、優しくされて。もしかしたら、殿下はわたしのこと、好きかもしれないって思わされて。そんなの、わたしも辛いよ」
「ごめん、エリー。ごめん」
「……殿下と、仲良くなんてできない。わたし、殿下のこと、好きじゃない……」
ぽろぽろと涙をこぼして、肩を震わせるエリザベスを、マイケルは抱き寄せる。
「その金髪の子のことは、ごめん、覚えてない」
「……そう」
「でも、そのとき何を話したのかは、覚えてるんだ」
マイケルは、涙の止まらないエリザベスをしっかりと抱きしめる腕に力を入れる。
「『いいことがあったの?』って聞かれたから、『欲しくて仕方がなかったものが手に入ったんだ』って答えた。エリーとの婚約のことだよ」
「嘘つき」
「嘘じゃない。俺は出会った時から、ずっと、エリザベスのことしか見てない」
「そんなの、信じられない」
「じゃあ、直接聞いてみるといい」
腕を緩めて、マイケルはエリザベスの顔を見ながら、そう伝えた。
「帰ってきた俺に、ちゃんと言わせてやれ。本当の気持ちを話せって、殴ってやればいい」
「殴って無理やり言わせるのね?」
「いや待て、そうじゃない。まあ、それでもいいけど。殴らなくても、俺は勝手に話し始めると思うけどさ」
「勝手に話すの?」
「うん。今、十六歳の俺は、三十一歳の俺の体の中にいるから。未来の君に、こてんぱんにされてるよ」
ぱちくりと目を瞬くエリザベスに、マイケルは笑う。
エリザベスはここで漸く気が付いた。
戻ってくる予定のマイケルは、戻ってくるまではどこかにいるのだ。
どこかとは、目の前のマイケル曰く、未来。十五年後の、未来……。
「わたし、酷いやつね。十六歳のマイケルの心配、全然してなかったわ」
「まあ、いいんじゃないかな。いいお灸だ」
「自分のことなのに、冷たいのね?」
「君に辛い思いをさせる奴は、天誅を食らって当然だからね」
「厳しい人だわ」
くすくすと笑うエリザベスに、マイケルはようやく安心したように笑みをこぼす。
「そろそろ時間だ」
びくりと肩を震わせるエリザベスに、マイケルは肩を竦めた。
「どうしたの、可愛いエリー。最初は俺の登場に戸惑っていたくせに、いなくなると思うと寂しくなった?」
「うん」
「……素直だな」
「わたしはいつでも素直でしょ」
「……ああ、うん、そうだよね!」
「どうしても行っちゃうの?」
縋るような瞳で見つめてくる婚約者に、マイケルは大人びた顔で、微笑む。
「俺が消えないと、奴が返ってこれない」
そう言うと、マイケルはエリザベスの頬に手を当てた。
「十六歳のエリザベス。君は今でも素敵な女性だけど、これから十五年、沢山のことを経験して、ますます素敵な女性になるよ」
「……そうなの?」
「そう。エリーは、俺の自慢の奥さんになる。俺の知るかぎり、最高の女性だ。俺のことは信じてくれるんだろう?」
エリザベスは、彼の言葉に頷くことができた。
彼の言葉は、すとんとエリザベスの心に入ってきた。
きっと、目の前の彼は、心からそう思ってくれている。
そう思えたからだ。
「だからさ、俺は君と結婚した未来を守りたいんだ。どうかエリー、頼むから俺を見捨てないで」
「最後が情けないわ」
「言っただろう? エリー相手だと、いつもこうなってしまうんだ」
マイケルは、エリザベスの頬にキスを落とした。
エリザベスは、今度は気絶しなかった。
ふたりでくすくす笑いながら、手を繋いで、お互いだけを瞳に映す。
「エリー。世界で一番愛してるよ」
それだけ言うと、彼は目を閉じた。
ふわりと、虹色の光が彼を包んで、そしてそのまま、光は霧散してしまう。
そうして、ゆっくりと目を開けたのは、彼ではない。
エリザベスが目の前の彼を見つめていると、マイケルはふと口を開いた。
「……エリザベス?」
その言い方に、その表情に、エリザベスは心からの笑みを浮かべる。
「おかえりなさい、殿下」
マイケルは、くしゃりと顔を歪めて、泣きそうな顔で、小さく呟く。
「君が好きなんだ」
「……聞いたわ」
「先に聞いてしまったのか」
「でも、貴方から聞きたかったの」
顔を上げるマイケルに、エリザベスはぽろりと涙をこぼす。
「ずっと、貴方から聞きたかったの」
ぽろぽろと涙をこぼし続けるエリザベスを、マイケルはしっかりと抱きしめる。
「今までずっと、ごめん」
そう言ったマイケルの声も、涙にぬれていた。
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「おかえりなさい! 心配したのよ、ダーリン!」
「やっと帰ってきたよ! 待たせたねハニー!」
十五年前の過去から生還を果たしたマイケルは、妻エリザベス(三十一歳)を抱き上げ、そのままくるくると回転していた。
マイケルとの再会に喜んでくれている妻は、いつ見てもどう見ても美しく愛らしい。
ちなみに、久々に会った十五年前の妻も、めちゃくちゃ可愛かった。
今の妖艶美女な妻と違い、幼さが垣間見えるところが非常に愛らしい。男慣れしていないせいで、何をしても初心な反応が返ってくるのもまたよし。というか、あれを目の前に口説き文句の一つも言わない婚約者は、脳に致命的な怪我でも負っていたんじゃないだろうか。
ついでに、子ども部屋で彼女が黒髪を悪く言われたのは、彼女が嫌われ者だからじゃない。逆だ。
美しくて、幼くして魅力に溢れた彼女に構われたくて、悪ガキ達が悪さをしただけなのだ。
彼女はその辺りのことに気がついていないようなので、後でしっかり、妻にそのことを伝えなければならない。
そんなふうにここ数日の出来事に想いを馳せていると、可愛い妻がはしゃいだ様子で報告してきた。
「あのね。十六歳のマイクもね、すっごく可愛かったのよ~! もうね、大好き大好きって毎日頬ずりしちゃった!」
「俺以外の男にそんなことを!!!」
「やだもー、十六歳のマイクもマイクじゃない! それに、マイクだって、十六歳のわたしに悪さしたくせに」
そう言って頬に手を当てる妻に、マイケルは頭が上がらない。
「俺だって、君にしかそんなことはしないさ。十六歳のエリーだって、エリーだろう?」
「そうだけど、そうじゃないもの」
「俺だって、そうだけど、そうじゃない」
「なら、どうしたらいいの?」
挑戦的な言葉で誘いをかけてくる妻は、最高に魅力的な笑顔でマイケルを煽ってくる。
「俺の一番は君だってことを、証明して見せよう」
「それは楽しみね」
こうして、冷え切った仲だったエリザベスとマイケルの二人は、過去でも未来でも、溺愛カップルとして幸せに過ごしたのでした。
終わり
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