依頼の真実
街全体がオレンジ色の光に包まれる頃、くたくたになった私たちは店へ戻ってきた。日頃の運動量の違いなのか、倒れ込む寸前の私と違って、ノア王子の方は意外と元気そうだ。それでも節々に疲れは滲んで見えて、今から町内を一周しましょうと言おうものなら笑顔で断固拒否するだろう。
「おや。お客さんがいるね」
彼女の存在に先に気づいたのはノア王子だった。
つられて彼の視線を辿ってみると、不安そうな顔をした少女が店の前でそわそわと立ち尽くしている。彼女の顔の左右にはきっちりと結ばれた三つ編みがそよそよと風に揺れていて、私と目が合った瞬間、小走りでこちらに駆け寄ってきた。
「あっ、あの!先程はすみませんでした。私、ついカッとなっちゃって……本当に、ごめんなさい」
顔を青くしながら謝る彼女を、私は責められなかった。代わりに「とりあえず、話をしましょう。中へどうぞ」と声をかけると、彼女は少し安堵したように顔を緩ませて「はい」とだけ答えた。店に入る途中、ノア王子がこっそりと「本当に彼女を許してしまっていいのかい?」と耳打ちしてきたけれど、私はにこりと微笑むだけで言葉にはしなかった。彼はちょっと肩をすくめて、困ったように笑っていた。
◯
「アリアさんについて調べてきました」
少女に紅茶を出して、私は彼女の向かいの椅子に座る。ノア王子は近くのソファに腰をかけて、ひっそりと耳を澄ませているようだった。
私が“アリア“と口にした途端、彼女はどきりとした顔で肩を跳ね上げたあと、すべてを察した顔つきで「……そうですか」とだけ言った。
「あなたは、アリアさんの体調をご存知でしたか?」
「はい。彼女が教えてくれました」
「では、彼女が引っ越す直前に体をひどく壊してしまったことも?」
「……はい。だってあれは、私のせいですから」
彼女の頬にまつ毛の影が落ちている。
神の前で懺悔するような顔つきで、彼女はその薄い唇を開いた。
「……雨の日でした。引っ越すことが決まったと、アリアは教えてくれました。一週間後にこの街を立つのだと。体が弱いことを教えてくれたのも、その時です。最初は信じられませんでした。だってあのアリアなんですもの。たとえ滝に突き落とされたって、精神力だけで生きて帰ってきそうなほどタフなんです、あの子」
呆れたように、困ったように笑いながらも、彼女の瞳は愛しさで溢れていた。遠い誰かの面影をなぞるような、淋しさと温もりを帯びた柔らかな瞳。私はこの瞳を知っている。魔女の木の枝に水をやる時のおばあさんの瞳と、今の彼女の瞳は、よく似ていた。
「けれど彼女の体は貴方が思っている以上に弱かった。雨に打たれただけで寝込んでしまうほどに」
私の質問に、彼女は黙って頷いた。
「調べたんですね、その日のこと」
「気に障ったのでしたら謝ります」
「いいえ、構いません。……すべてを打ち明けてもらったあの日、彼女は私に、自分はきっともうすぐ死ぬのだと言いました。彼女の弱音を聞いたのは、それが初めてです。私はとても動揺して、そんなことはないと怒鳴りました。死んだら許さない、と。そして彼女の胸を押してしまった。ほんの少し力を入れただけだったのに、彼女はあっさりと後ろに倒れ込んでしまって、その時、“あぁ、この子は本当に死んでしまうんだわ“と思いました。そしたら途端に怖くなってしまって……」
逃げ出してしまった。
最後の言葉は聞かなくても分かった。雨でずぶ濡れになったアリアさんを置いて、彼女は逃げ出した。彼女が引っ越す直前に体を壊したのは、この時に雨に打たれて体を冷やしてしまったせいだろう。
「確認したいことがあります。貴方は彼女を突き飛ばしたあと、同じ場所で鈴を拾いませんでしたか?」
「え、えぇ。拾いました。私たちはいつも教会の裏で待ち合わせしていたのですが、次の日、謝ろうとそこへ向かったら鈴が落ちていたんです。あの日、彼女がずっと手の中で転がしていたので、それがアリアのものだとすぐに分かりました」
私は、「そうですか」と答えた。彼女は不思議そうな顔しながら、黙って私を見つめている。
「彼女に関するものがあるかと聞いたとき、私に渡したものはその時の鈴ですね?……他の魔女に依頼した時に渡したものも」
私の言葉に、彼女は目を丸くした。鈴の話より、他の魔女の話が出てきたことに驚いている様子だった。だけど決して、私は他の魔女にも依頼したことを怒っているわけではない。このややこしい依頼を円満に解決するために、この話がとても大事だったのだ。
「誰かを呪うとき、大抵の魔女は相手の一部か、私物が必要になります。だけど普通、呪いたいほど憎い相手の物を持ち歩いている人は少ないでしょう?だけど貴方は持っていた。だから魔女に依頼をしたのは二回目だったんだろうと思ったんです」
思えば、彼女の態度は色んなところが少しずつおかしかった。
たとえば、初めて魔女と話すにしては、彼女はやけに落ち着いていた。堂々としていて、気持ちがいいくらいすっきりとした態度だった。年齢でいえば13、14歳くらい。そう考えると、彼女は随分と大人びていると思う。そんな彼女が、呪いは失敗したと伝えた途端、癇癪を起こしたように怒鳴ったのだ。年相応だと思えばそうなのだけど、どうしても違和感のような何かが残っていた。今考えると、余裕がなかったのだろうと思う。一度引いては大きな波になって返ってくる冬の海のように、彼女の心は激しく揺れていた。
「──話の間に入ってすまないが、どうか教えてほしい。彼女はアリアのことを大切に思っていたようだが、それに対して二回も呪おうとしている。これはどういうことかな?」
今まで黙って聞いていたノア王子だったけれど、どうにも納得がいかなかったらしい。推理小説でも読んでいたみたいに、難しい顔をしながらこちらを見ている。少女は彼を私の友人か何かだと思っている様子で、美しい顔立ちにほんのりと頬を染めていたけれど、ついに彼がこの国の王子だとは気付いていないようだった。
「証明したかったんですよ。彼女が生きていることを。呪いが成功するということは、相手が生きている証明でもあるから」
「でも、呪いだろう?それこそ死んでしまうじゃないか」
「彼女は、私が“ちょっとした不幸をもたらすくらいしかできない“と言ったとき、それでもいいと言いました。最初から、その程度の呪いしかかけるつもりはなかったんです。それに、さっき彼女も言っていたでしょう?滝に落ちても生きて帰ってきそうなほどタフだって。アリアさんの生命力を、彼女は誰よりも信じていたんですよ」
それはまた、複雑な愛だなぁ、とノア王子は笑っていた。すべてを黙って聞いていた少女は次第に顔を俯かせていったけれど、耳の赤さは隠しきれなかったみたいだ。最後には、「お恥ずかしい限りです」と独り言のように呟いていた。
「……アリアさんが引っ越す少し前、飼っていた猫が天寿を全うしたようです。そしてあの日、アリアさんが持っていた鈴はその猫の首輪についていた物です」
「……?」
「この場合、呪いに使った物と縁が強い方が優先されます。今回は、猫だったみたいですね。……もしくは、猫が飼い主を守ったのかも。こればっかりは分かりませんね」
彼女は、「猫に悪いことをしましたね」と眉尻を下げて心細い笑顔を見せたあと、しばらくしてハッとしたように顔をあげた。「……じゃあ、アリアは?」と呟くのを聞いて、私はローブの内側にしまっていた一つの手紙をテーブルの上に出した。彼女は意味ありげに置かれた手紙を見つめたあと、不思議そうな顔つきで私を見つめた。
「アリアさんから、貴方に宛てた手紙です」
「……アリア、から?」
「アリアさんは生きていますよ。貴方の話を聞いて、大笑いするくらいには元気です」
「ふっ…、あはは。そうですか。えぇ、えぇ。あの子らしいわ」
もう泣いているのか、笑っているのか分からないくらいに彼女の頬は濡れて、そして幸せに満ちていた。
「この街からは離れていますが、半日ほど歩けば彼女の街に着きますよ。住所は、その手紙に」
「えぇ。ちゃんと書いてあるわ。……私ったら空回りばかりしてたみたいね。恥ずかしい」
「いいえ。貴方が空回りしてこの店を訪ねなければ、私たちはアリアさんに辿り着けませんでした。私は、貴方が諦めないでいてくれて、よかったと思います」
私がそう言うと、彼女は目尻に涙を滲ませながら微笑んだ。私も笑った。
そしてしばらくの間、彼女はアリアさんとの時間を思い返すようにじっくりと手紙を眺めていたけれど、ひと通り読み終わると頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。私は、貴方に会えてよかった」
その言葉に、じんわりと目頭が熱くなる。ここで泣いてしまうのは恥ずかしいし、魔女として未熟な気がして、私は手の甲を力一杯ひねった。泣きそうになったとき、私はいつもこうやって気を紛らわせていたのだ。おばあさんにはよく、やめなさいと叱られていたけれど。
それから少しの間、私と、ときどきノア王子も交えて他愛のない話をしたあと、彼女はオレンジ色の街の中へ帰っていった。不安や悩み事から解放された時のような晴れやかな笑顔だった。
「彼女、また来ますと言っていたね」
「人間はいつも何かに追われて、急いでいます。期待して待っていても、誰も来てくれませんでした。どうせ今回だって忘れられます」
「……そうか。じゃあ、僕は忘れないよ。君のこと、絶対に忘れない」
嘘つき。どうせ貴方も忘れるくせに。
そう思いながら、どうしても期待せずにはいられなくて、「そうですか」とだけ答えた。恥ずかしくて顔は見られなかったけれど、少しだけ彼の顔を見てみたいなと思った。きっとお月様のように優しい顔をしているに違いない。