ゆめ
いつもは気怠いだけの朝も、今日ばかりは清々しいほどに明るく、爽やかだった。ベッドの上でぐーっと背伸びをしてから、光が漏れる薄いカーテンを開けた。待ちに待った朝だ。お祭りの日の朝。浮き足立っているのは私だけではない。街全体がいつもよりほんの少しだけ、ソワソワと落ち着かないようだった。
私はベッドから降りて身支度を始めた。いつもより丁寧に顔を洗って、髪には普段つけない髪飾りを。今日はローブはクローゼットの中で休んでもらうことにして、代わりにあまり出番のないワンピースを引っ張り出した。普段とは少し違う朝は忙しく、何より大変だけど、そんな疲れは些細なことだと思えるくらい、私の胸は高鳴っていた。
待ち合わせは、お昼の鐘が鳴る頃に、広場で。だというのに支度はすっかり終えて、私は自分がおかしくてたまらなかった。
「(私、本当に楽しみで仕方ないのね。……でも、友だちとお祭りに行くなんて、まるで夢みたい)」
こんなことを誰かに言えば、小さな夢だと笑われてしまうかもしれない。自分だって思うくらいだもの、当然だ。だけど私はこんなちっぽけな夢を叶えるために、たくさんの遠回りをした。
人と共にあることを望んで、嫌われて、歩み寄られて、怖くなって逃げ出して、それを何度も繰り返した。その中には喜びもあったし、悲しみもあった。慣れないことで恥をかくことだって、もちろんあった。
「(諦めなくてよかった)」
心から、そう思う。
誰かと関わることを諦めなくてよかった。この店を開いて、よかった。これが今までのことに対するご褒美なら、神に感謝を。こんな美しい日々をくれて、どうもありがとう。
◯
「お待たせ!急いできたつもりだけど、待たせちゃったかな」
お昼の鐘が鳴って程なく、リロイさんは広場へやって来た。言葉の通り走ってやって来た彼は肩で息をして、汗のせいで前髪がおでこに張り付いている。鞄からハンカチを取り出して、彼に「どうぞ」と渡してから、
「そんなに待っていませんよ。それより、走ってきてくれてありがとうございました」
と言った。彼は一瞬目を丸くしてから、そっと目を細めて微笑んだ。
「うん。エマも待っててくれてありがとう。今日は会えてうれし、──って、あれ?エマ、目の色が……」
彼は躊躇うように私の瞳を見つめた。それもそのはずで、今日、私の目の色は魔女の色をしていない。なぜなら、昨晩作っておいた目の色を変える目薬をさしているからだ。おかげで今の私の瞳の色は、誰がどう見たって平凡で、誰の目も引かないダークブラウンをしている。
もちろん迷った。魔女としてのプライドはある。だけど「そうしなければいけない時」に、駄々をこねるほど子供ではないのだ。こんなに大勢の人が集まるお祭りで、不本意なトラブルは極力避けたい。
「やっぱり変でしょうか」
変だよ、と返されても困るのだけど、やっぱり気になってしまうものだ。なんとなく視線を外して、指の先で髪をいじる。
「変なんかじゃないよ。どんな君も素敵だ」
裏表なくあんまりにもストレートに褒めてくれるものだから、私はちょっと……いやかなり顔が赤くなった。そんな私の反応に釣られてか、リロイさんもほんのり頬を染めて視線をずらす。
「……あっ。そ、そうだ。ハンカチ、洗って返すよ」
二人の間に流れる微妙な空気を壊すように、慌てた口調でリロイさんは話題を変えた。
「い、いえ。そのままで大丈夫ですよ」
「え?でもこの返すのは忍びないなぁ……あっ。じゃあさ、ちょっとだけこのハンカチ、預かっててもいいかな。いいことを思いついたんだ」
「それは構いませんが、いいことって?」
「まだ秘密だよ。それよりエマ、ご飯は食べてきた?せっかくこんなに沢山の出店が並んでるんだし、何か食べようよ。遅れてきたお詫びに奢るしさ」
少年のあどけなさが残る笑みを浮かべながら、リロイさんは屋台の方を指差す。自分の分くらい自分で出します、と言いたいところだけど、それは時間を無駄にするだけだろうと悟った。私は感謝を伝えてから、「では……」とずらりと並ぶ屋台を見渡した。どれも美味しそうではあるものの、どうしても見慣れない光景に戸惑ってしまう。
「おすすめはありますか?」
「そうだなぁ。肉の串焼きもいいし、他所の国から持ってきた珍しい果物もあるみたいだ。あとは焼きたてのパイ……」
そう言いながら、リロイさんがちらりと私の顔をのぞく。
「決まりだね。パイが気になるって顔してるよ」
「えっ」
おかしそうに笑うリロイさんに、私は顔を赤くした。食い意地の張った子だと思われただろうか。だとしたらちょっとショックだ。
そんな乙女心を気にもしないそぶりで、リロイさんはちょっと待っててねと言って屋台の方へ駆けて行った。それからパイを二つ持ってきて、
「チェリーパイとアップルパイがあったんだ。どっちがいい?」
と尋ねた。
「ではアップルパイで」
「はい、どうぞ。あぁ、でもそこのベンチに座って食べようか。エマは食べ歩きに慣れてなさそうだ」
そんなに良いところのお嬢さんではない。だけど食べ歩くという経験がほとんどないというのも事実だった。屋台に行くことなんてあまりないし、家の中で立って何かを食べるということもない。そんなことをしようものなら、お行儀に厳しいおばあさんに叱られてしまうからだ。
そう考えると、彼の提案はとても正しく思えた。慣れないことをして誰かにぶつかったり、転んだりすることを考えると、ベンチに座って落ち着いて食べた方がいい。私はリロイさんの提案に頷いて、私たちは近くのベンチに腰掛けた。
「せっかくだしさ、何か話をしようよ。たとえば……」
「たとえば?」
「うーん。たとえば、君があの店を始めた理由とか?」
尋ねられて、ふむ、と考える。
誰かに聞いてもらうような大それた話ではないし、何より自分のことを話すのはやっぱり少し恥ずかしい。だけどこういう機会ってあんまりないのかもしれない。だとしたら場の雰囲気に酔うふりをして、普段話さないことを話してみるのもきっと楽しいだろう。
「人と、仲良くなりたかったんです。できたら、友だちになりたかった」
「友だちに?」
「はい……」
単純すぎただろうか。そんなことで店を開くなんて、と思われただろうか。
そんなことを言う人ではないと思いながら、言葉にした途端、じわじわと後悔が押し寄せてくる。だけど彼はカラッと笑って、
「素敵な理由だね」
と言った。
嬉しかった。別に誰かに認められようと思ってなんていなかったのに、本当は少し思っていたのかもしれない。
君が選んだ道は正しかったよ。
君が開いた店は素敵だよ。
……と。
「ありがとうございます」
目頭がじんわりと熱くなり、こぼれるように言葉を漏らした。突拍子もないことを言って戸惑わせてしまっただろうかと心配したけれど、彼は優しく微笑んで、
「うん」
とだけ言った。広場の賑やかさも、人々の声も、今だけは遠く、私たちの間には静かな風だけが通り抜けていった。




