アリア
「呪ってほしい人がいるんです」
席に着いた途端、その人ははっきりとした口調でそう言った。あんまりにもハキハキと話すものだから、私は彼女の口から出た言葉がかなり陰湿に偏ったものだということを、一瞬、信じられなかった。恐る恐る「呪いですか?」聞き返すと、彼女はやっぱりはっきりと「はい。そうです」と答えた。そこで私はもう、こんなにも真っ直ぐな瞳の彼女が、誰かを呪おうとしている真実に向き合わなければならなくなった。
「すみませんが、呪いは得意ではないんです。できるのはちょっとした不幸をもたらすくらいです」
「分かりました。それでもいいので、呪ってください」
この少し困った依頼に私はどうしたものかと悩んだけれど、彼女の瞳の内側から燃えるような感情が覗くのを見て、私は仕方なく頷いた。「分かりました。やってみましょう」と答えたとき、彼女はパッと顔を明るくしたかと思うと、次の瞬間、きっちり結ばれたふたつの三つ編みを揺らして顔を下に向けた。後ろめたさがあるのかもしれない。それでも、やっぱりやめましょうか?とは聞けなかった。なんとなく、聞いてもやめない気がした。こういうときの魔女の勘は当たるのだ。
「ではまず、その人の髪や爪、もしくは私物をご用意していただきたいのですが」
「それでしたら、これを…」
◯
「嘘つき!あの人を呪ってくれるって言ったじゃない!やっぱり魔女なんて信用するんじゃなかった!魔女なんて大嫌い!」
三つ編みの少女は言いたいことを言いたいだけ言ってから、怒りのままに扉を開いて店を出て行ってしまった。残された私が小さくため息をついてから、開きっぱなしの扉を閉めに行こうと扉に向かったとき、最近よく見る人が優雅に片手を上げながら登場してきた。
「やぁ。お転婆なレディだったね。僕が扉の近くに立っていたことにも気づいてなかったみたいだ」
「私も知りませんでした」
「それは失礼」
扉を閉めて、我が家のように入ってくるノア王子にはそろそろ慣れていた。この人は、魔女の呪いについて何の進展がなくてもこの店を訪れるのだ。前に、どうしてよくこの店に来るんですかと尋ねたら、彼はこの店の雰囲気が好きだからだと教えてくれた。
まず本がたくさんあるのがいい。僕は図書館の雰囲気が好きでね、静かで、厳かで、ゆったりしているあの空気感が好きなんだ。この店の空気と少し似ている。あとはこの大きな窓もいいね。日差しがたっぷり入ってきて気持ちがいいし、この席に座って紅茶を飲みながら過ごす午後は格別だろうね。
そう言われると、悪い気はしなかった。けれど素直に嬉しい、とはうまく言葉にできなくて、代わりに彼がいつ店を訪ねてもいいように紅茶と茶菓子は多めに用意するようになった。
「さっき店を出ていった彼女はお客さんかい?」
彼の言葉に私は頷いた。深く聞いてもいいのか迷っているような微妙な笑みを浮かべていたので、私は彼に紅茶を出してから言葉を続けた。
「呪ってほしい相手がいたようです。でも、私にはできませんでした」
「へぇ。相手に同情でもした?」
「いいえ。そもそも私は呪いが得意ではありません。それでもいいとおっしゃったので、必要なものを用意して呪いの準備をしたのですが…」
ついさっきの出来事を思い出して、私は一度言葉を詰まらせた。不思議そうな顔をするノア王子に、「何でもありません」と答えてから私はもう一度口を開いた。
「相手はこの街よりずっと遠いところにいるみたいなんです。呪いをかけようとしても、手応えがなくて…。なので、呪いを専門とする魔女なら、ある程度離れたところにいる相手でも呪えるかもしれません、と答えたら怒って帰ってしまいました」
黙って話を聞いていたノア王子は、「ふぅん」と気のない返事をしてから淹れたての紅茶を口にした。頬杖をついて、ぼんやりと窓の外を眺めている。最初に来た時は背筋もピンと伸びて、自分のこともちゃんと「私」と言っていたくせに、最近はちょっとだらしない感じだ。王子を相手にしているという実感が薄れて、私としては悪いことばかりではないけれど。
「それで?君はこのまま終わりにしないんだろう?面白そうだし、僕も協力するよ」
私は目を丸くした。こんなに考えが透けて見られることってあるんだろうかと、彼の真っ直ぐなまなざしを見て思った。私は少し考えてみたけれど、きっとこの人に隠し事はできないわと悟って、観念したように口を開いた。
「少し、調べてみようと思います。せめて相手がどこにいるのか分かれば、手の施しようはありますし」
「よし分かった。でも、何か手がかりがほしいな」
「手がかり…。ないわけではないのですが…」
◯
「君が言いづらかった訳が分かったよ。確かに魔女は、教会とは相性が悪いだろうね」
三つ編みの彼女は、相手とは教会で出会ったと言っていた。日曜日の朝、いつものように家族と教会へ向かったら、そこに相手と、その両親がいたのだと。はじめて見る顔だったので、彼女は相手が引っ越してきたばかりなのだと気づいて声をかけた。それがはじまりだったそうだ。
だけど私では教会に話を聞きに行けなかった。実際に、入り口に立ってた神父見習いのような人に声をかけただけで、「すみませんが、貴方とはお話しすることができません。お帰りください」と丁寧に、はっきりと拒絶されてしまった。見かねたノア王子が間に入って話を聞いてくれなければ、私はこの時点で諦めて帰ってしまっただろう。
「とりあえず分かったことは、どうやら呪いたい相手はアリアという名前の少女らしい。三つ編みの少女と仲良くしている姿をよく見かけたと言っていたから、まず間違いないだろう」
「アリアですか。家は、さすがに分かりませんよね?」
「そうだね。というよりも元の家は教会のすぐそばにあったから知っていたよ。だけど彼女は引っ越してしまったらしい。君の言うとおり、すでにこの街にはいないそうだ」
だとしたら、やっぱり私では難しい依頼かもしれない。顔を顰める私を見て、ノア王子はさらに気の毒そうな顔で言葉を続けた。
「もう一つ分かったことがある。アリアという少女はとても病弱だったそうだ。この街へも、有名な医者にかかるために越してきたらしいが、結局、病状が良くなることはなかった。引っ越す前にひどく体を壊したと聞いたから、もしかすると彼女はもう…」
「そのことを、依頼人の少女は知っていたんでしょうか」
「どうだろうね。でも病弱というわりにアリアはけっこういい性格をしていたようだよ。犬を追いかけ回したり、自分のことを冷やかした男の子を教会で殴ったりしていたそうだ。君だったら、そんな女の子がもうじき死ぬと言わたら信じるかい?」
私は苦笑いをした。「信じませんね」と言うと、彼も笑って「僕もだよ」と言った。
私はその破天荒な少女を頭のなかで思い描いてみた。死に近い場所に立っていながら、誰よりも生命の力にみなぎっているであろう少女。そんな彼女の近くにいたのなら、たとえ少女の体の事情を知っていたとしても、なかなか信じることは難しいだろう。
さて、もし彼女がまた店を訪ねてきたら、私は何と答えるべきだろう。アリアはもうこの街にはいません。もしかすると、もっと遠いところへ旅立ったかもしれません。
私は迷っている。真実を知ることだけが幸せなんだろうか。それとも、優しい嘘で心を守ることこそ私のするべきことなんだろうか。こういう時、おばあさんならどうするだろう。そう思ったところで、何でも教えてくれた優しいおばあさんはもう、私の心にひっそりと影を残すだけだ。
「もう少し、アリアについて調べてみましょう」
ノア王子は頷いた。おばあさんならどうしたのかは分からない。だからせめて、私は私が納得する形でこの依頼を終わらせたい。