新しいお客さん
「やぁ、こんにちは。君がこの店の店主かい?」
雨がしとしとと降る午後に、その人はやって来た。
外套からはぽたぽたと雫が落ちて、店の前の敷石に黒い染みを広げている。顔を隠すように深く被られているフードからは、優しく歪む口元だけがひっそりと覗いていた。
外はうす暗い。分厚い雲が空を覆って、この世界のあらゆる音を閉じ込めているみたいだった。パラパラと、地面や、屋根の上に雫が跳ねる音が耳に心地よく響く。目の前の人の声がいつもよりぐっと間近に聞こえて、そのほかの音は雨に掻き消されるか、ずっと遠くの方からぼんやりと聞こえてくる。きっと内緒話をするなら、こういう日がいい。すべての音を、雨が隠してくれるにちがいない。
「エマといいます。どうぞ中へ。上着はお預かりしますね」
「あぁ、助かるよ。ありがとう」
恐ろしい人なのかもしれない、とほんの少し身構えていたものの、意外にも彼は礼儀正しい人だった。ぐっしょりと濡れた外套を渡す時でさえ、「重いだろう。すまないね」と気遣うような素振りを見せる。私の警戒心をゆっくり、ひとつずつ解きほぐすように、彼は柔らかな笑みを湛えたまま、私が案内した席に腰を下ろした。
フードの下に隠れていたのは、雪のように白い髪と、蜂蜜の色をした瞳。そして、女性的な柔らかさと、男性的な凛々しさを兼ねた備えた中性的な美しい顔立ち。フードで隠していなければ、間違いなく目立つ顔立ちをしているし、そうでなくてもご婦人たちが放っておかないだろう。なるほど、と腑に落ちた私は、さっそく上着を掛けて、お茶を用意して、いつも通りに向かい席に着席した。彼の目が、私の目を真っ直ぐに見つめる。私の目を見て、わずかな動揺さえ見せない人はいつぶりだろう。
「では、ご依頼を聞かせていただけますか」
「あぁ。そのためにはまず、私の身分を明かさないといけない。けれど、決して口外しないと約束できるかい?」
とても勿体ぶった言い方をする人だと思った。そして同時に、彼の目が本気だということも分かった。人の良さそうな笑顔はそのままで、その実、私がどういう人間…もとい魔女なのかを注意深く観察している。そんな感じがした。私の答える言葉には、重要な意味がある。そんな予感をひしひしと感じながら、私は静かに首を縦に振った。
彼は「そうか」と一言だけ呟いた。私の返事や態度が、彼にどんな感想を抱かせたのかは分からなかった。このまま帰ってしまうかも、とそんな心配をよそに、彼は一度目を閉じてから一呼吸おき、再び目を開いたときには真面目な話をするときの顔つきに変わっていた。
「私の名前は、ノア。この国の王子だ」
びっくりした。
驚きすぎて、紅茶をソーサーの上にじょろじょろと溢している私を見て、目の前の彼──自分のことを王子だと名乗った彼はたいそうおかしそうに笑った。
王子?彼が?
何かの冗談を疑いつつも、改めて見直してみると王子のようにも見えてくるから不思議だ。煌びやかな衣装ではないものの、彼が身に纏っているシャツやベストは汚れひとつない上等なもの。紅茶を飲む所作だって、背筋をピンと伸ばして、優雅に足を組む仕草なんてけっこうサマになっているように思う。
「信じられないのであれば、従者を連れて来ようか。通りの向こうで待機させてるから」
「い、いいえ。結構です」
「はは。それはよかった」
彼は心底、愉快そうだった。いたずらを仕掛ける子供のような無垢さとはまた別の、たちの悪い意地の悪さを感じる。正直、私は少しムッとしていた。この人は、人を揶揄うのが好きなタイプの人間だ。私とは相性がいいタイプだとはまったく思えなかった。
「さて、話を戻そう。依頼についてだけど、実は王位継承に関わっていてね」
「王位…無理です。お断りします。お帰りください」
「まぁ、そう言わずに。王位と言っても重く考える必要はない」
そんなこと言われても無理なものは無理だ。王族の彼からすると、その言葉は日常を飾るありふれた言葉なのかもしれないけれど、こんな大通りから外れた小さな店で店主をやっている魔女からしてみれば、とんでもない重みを秘めた言葉だ。私は全力でNOと意思表示を試みるけれど、彼はそんなことお構いなしに話を進めた。
「べつに謀反を起こそうとか、そんな物騒な話をしに来たわけじゃないんだ。ただ、君には呪いを解く手助けをしてほしいんだよ」
「…呪い?」
「そう、呪いだ。魔女が、王家にかけた呪い」
ひっそりとした声のわりに、彼の言葉はうす暗い部屋の中ではっきりと聞こえた。…呪い。それも、魔女がかけた呪い。
かなりヘビーな話をしているわりに、彼の態度はとても穏やかだった。両方の腕をテーブルに置いて、蜂蜜色の瞳で私の瞳をじっと見つめている。一瞬、私は試されているのかもしれないと思った。同じ魔女である私が、魔女に呪いをかけられた王家の人間に対して、なんと答えるのか、どういった反応をするのか、一言一句、一挙一動、私は人間にとってよき魔女なのかを試験されている気分だった。
それは違うと分かったのは、彼の瞳からは一切の憎しみや、悲しみが感じられないと気付いたからだ。彼の目はあまりにも静かだった。まるで夜の海のように凪いでいて、かと思えば、晴れた日の昼の空のようにどこまでも澄んでいるようだった。
「呪いって、具体的にはどのようなものなんですか」
「あぁ、やっぱり気になるかい?」
「それは、まぁ」
「そうだろうね。では言うが、どうか驚かないでほしい」
どうやら、彼は話を勿体ぶるのが好きらしい。にっこりと笑顔を見せてから、彼はゆっくりと口を開いた。王家にかけられた呪いだなんてよっぽど恐ろしいものにちがいない、と私はきゅっと手に力を込めて彼の言葉を待った。
「何も起きていないんだ。呪いらしいことは、何も」
「…え?」
思わず肩の力ががくりと抜ける。緊張した分だけ、損をした気分だった。私の恨めしい視線なんて構いっこないと言ったように、彼は変わらず飄々とした態度で話を続けた。こういう人を揶揄う性格は、魔女より魔女らしく感じる。
「まぁとりあえず、説明させてほしい。まずは王位継承についての話だが、我が王家では代々、王位を継ぐ人物にとある試練が与えられるんだ。それが…」
「『王家にかけられた呪いを解くこと』?」
「そのとおり」
満足げな笑みを前にしても、心の内にあるモヤモヤはまだ晴れてこない。
「…でも、実際に呪いによる被害は何もないのですよね?」
私の言葉に、彼は首を縦に振った。分かっているじゃないか、と言いたげな表情だった。
「難しく受け止めないでくれと言ったのはそのためだ。試練はあくまでも形式的なもので、本当に呪いを解く必要はない。実際、歴代の王は誰ひとり呪いを解いてはいないし、本当のところ呪いなんてものがかけられているのかも分からない」
「…呪いがかけられているか分からない?」
「あぁ。…この国の魔女がどうして嫌われ者なのか、君も知っているね?」
彼の言葉に、私は黙って頷いた。
誰もが知っている事実だと言うのに、改めて他人の口から伝えられる真実というのは、どうしてこんなに残酷に聞こえるのだろう。とっくに慣れたつもりでいたのに、『嫌われ者』と改めて言葉にされると、いまだに胸を痛めている自分に驚いた。
──それは、ずっと昔の話。
まだ魔女が、魔法と呼ばれる奇跡を当然のように使いこなし、百年も二百年も生き続けていた頃の話。一人の魔女が大罪を犯した。
とある魔女が国を呪い、病を招いたのだ。それはあっという間に広まって、多くの人が病に倒れ、死んでいった。当時の王はその魔女を捕え、処刑すると宣言したけれど、魔女は牢から逃げ出し、今もまだ見つかってはいない。
これはこの国で生まれて育った者なら誰だって知っている話だ。当時から魔女は嫌われ者だったかは分からないけれど、この事件をきっかけに、魔女は明確に嫌われ者になる。
「…魔女の復讐を恐れてか、当時の王はひどく魔女を恐れて早々に体を壊してしまった。次の王は長生きしたが、死の淵で魔女の亡霊を恐れていたそうだ。…確かに恐ろしい話だけど、その後はこれといって被害がないんだ。だけど、王というのは、きっと孤高すぎるんだね。次は自分の番じゃないかと思うと怖くなる。だから後継者に呪いを解くように命じて、それが恒例化されたんだよ」
ねぇ、君はこれを呪いだと考えるかい?
彼は最後にそう問いかけた。
私は、何も言えなかった。魔女の呪いにせよ、呪いじゃないにせよ、どちらにしても何かが引っかかっているような気がした。…いい加減なデタラメを口にするのは悪い魔女のすることよ。そう思って私が何も話さないでいると、彼は続けて口を開いた。
「私は、違うと思っているんだ」
彼は目を細くして、そう言った。自信がありげに眉を上げて、目はきらきらと輝く石のように純粋な光で満ちていた。どうしてですか、と私は答えた気がする。私がなんて答えたかなんてどうでもよかった。ただ、彼の話すことがだんだんと、冒険の伝記をめくっているような気分にさせてくれた。
「調べた限り、魔女がもたらした病というのは風邪のようなもので、簡単に死に至るようなものではなかった。それなのに多数の死者が出たのだから、なんだか怪しい感じがするだろう?…僕は真実が知りたい。君はどうだい?」
冒険者のような顔つきに、私はうっかり首を縦に振ってしまった。気分はすっかり、勇者と旅をする魔法使いの気分だった。
「…分かりました。ご依頼、引き受けましょう」
私の言葉に、彼は満足そうに笑っていた。