真実の薬
「真実の薬…」
思いがけない言葉に、私は目をぱちぱちとさせた。…真実の薬。私はその名前を、つい最近口にしたばかりだった。不意打ちを食らったように固まる私をよそに、ウィリアムさんは深刻そうに目を伏せながら再び口を開いた。
「その薬を飲んだ人は、嘘や隠し事ができなくなると聞きました。僕はどうしても、その薬がほしいんです」
細かい傷が目立つ指先でカップの持ち手を強く握りながら、躊躇いがちに彼は言った。苦々しく表情を歪めて、背中を小さくする。叱られる前の子供のような格好をしながらも、力強い声からは固い意志が感じ取れた。
「それは、恋の悩みですか?」
「……どうしてそれを」
「魔女ですからね。真実の薬なんてなくても、大抵のことはお見通しです。……でも、できることなら貴方の口から聞いてみたい」
私は微笑んだ。
ウィリアムさんはちょっと面食らったような顔をしていたけれど、しばらくすると気が抜けたようにフッと小さく笑った。目に見えない、かたい空気のようなものが少しだけ和らいだのを肌の表面で感じる。それは、お互いがお互いのことを信頼する前の、くすぐったいような、もどかしいような、不思議な胸の高鳴りに似ている気がした。
「少し長くなりますが、お話ししましょう。
──僕はとあるお屋敷で、庭師の見習いをしています。先代であり、師でもある父が、子どもの頃からよくお屋敷に連れてきてくれたおかげで、僕は彼女……ソフィアと幼なじみとして育ちました。もうお分かりでしょうが、僕の想い人というのは、お屋敷のお嬢様であるソフィアのことです」
熱に浮かされたように瞼を半分だけ開いて、ウィリアムさんはこの場にいない想い人の面影をなぞる。その熱いまなざしが、彼の思いを雄弁に語っている気がした。
「僕らは幼い頃の時間を共に過ごしたあと、自然に離れていきました。色んなことを意識し始めるころです。周りの何気ないからかいが、ひどく恥ずかしく感じました。彼女が好きなおままごとが、退屈に思えました。そうやって、お互いに別の友達をつくったりして、溝は少しずつ広く、深くなっていきました。──最近のことです。彼女が結婚することになったと聞きました。……溝を埋めようと必死になるには、もう何もかもが遅すぎた」
自嘲めいた、かなしい笑顔だった。
それはきっと、どうしようもない理由で広がった溝だ。お互いに心地いい場所を求めた結果、自然な形で離れていった距離。決して、誰も悪くはない。だけど彼は後悔しているのだろう。自分がもっと我慢していれば、その絆は解けなかったかもしれない。自分さえ変わらなければ、と。
だけどそれは、いつまでも窮屈な服を着ているのと一緒だ。苦しくなって、いずれ綻びがでてくる。息が詰まって、嫌になって、相手に八つ当たりをする。それは溝が広がるよりよっほど、辛いことのように思えた。
「でも、それなら惚れ薬のほうがいいのでは?」
「いいえ、魔女様。僕は、偽りの愛をもらうくらいなら、いっそ彼女の手でトドメを刺してほしいのです。最初から、愛してなんていなかったと。たとえ愛していたとしても、それは遠い過去のものなのだと。……自分の手で終わらせるには、この恋は大きく育ちすぎました。僕は昔から、何をするにも遅すぎる。そんな僕に、彼女はいつも腹を立てていたっけ」
私はちょっと戸惑った。
人間の気持ちというのは、どうしてこうも複雑なんだろう。愛していると言いながら、愛してないと言ってほしいと言う。愛の大きさを語るのに、この恋を終わらせることを願っている。この依頼は、まるで偉い学者さんが語る哲学のように、私の頭を悩ませた。
「……分かりました。ご依頼をお受けします。ただし、必要なものを揃えてもらわなければいけません」
「は、はい。僕に持って来られるものなら、何でも」
「そうですか。では……」
◯
次の日、ウィリアムさんは再びやって来た。
テーブルの上に花の飾りが付いたバレッタを置いて、彼は少し元気のない様子で微笑む。バレッタは美しいものだったけれど、ところどころ欠けたり、細かな傷があったりして、それがずいぶん昔に作られたものだということが分かった。
「お約束していた“相手が触れたもの“です」
そう言われてからバレッタを手に取って、改めて眺めているけれど、良家のお嬢さんが付けるバレッタにしては少し安っぽい作りのように思えた。疑問が顔に出ていたのか、それとも誰かに話を聞いてほしかったのか、ウィリアムさんは独り言のようにポツリと「それは昔、僕が贈ったものです」と呟くように言った。
「子供の時の話です。家の手伝いをして貯めたお小遣いで、露店に行って買いました。彼女は、それを今も付けてくれていたんですが、庭に落としてしまったところを僕が拾ったんです」
「持って来てよかったんですか?」
「えぇ、いいんです。…それより聞いてください。彼女が落とし物に気がついて庭へ戻ってきたとき、久しぶりに少し話すことができました」
彼は顔を綻ばせながら、その時の会話を話してくれた。何でもない、ふつうの世間話だった。
こんにちは、今日はいい天気ね。
部屋に飾ってあった花は貴方が育てたと聞いたわ。ありがとう。
ありふれた会話だというのに、幼なじみの会話とは思えない不自然さに私は少し笑ってしまった。
「でも、本当に何でもよかったんですか?それだと薬の材料にならないんじゃ……」
「いいえ、これでいいんです。ですが、あなたに確認したいことがあります」
私は努めて穏やかな口調で言った。ウィリアムさんは、不思議そうな顔をして、私を見つめている。
「まだ、真実の薬はお求めですか?」
ウィリアムさんは困ったように笑いながら、首を縦に振った。
◯
その次の日、ウィリアムさんは再び店を訪ねていた。
次にテーブルに置いたものは、白くて、小さな花がいくつも集まってできた可愛らしい花だった。それを受け取ってそっと顔を近づけると、甘い香りがふわりと鼻先をくすぐって、私はなんだかもう胸がいっぱいになった気分だった。
「二つ目もクリアですね」
私の言葉に、ウィリアムさんは表情をうんと柔らかくさせて「えぇ、今回は簡単でした」と笑った。その笑顔のなかに、誇らしさのようなものがきらりと光る。今回、彼に頼んだものは『相手の好きなもの』。幼馴染の、それも恋する相手の好きなものとなれば、これは彼にとって簡単すぎる頼みだったかもしれない。
「魔女様のおかげで、どうして僕が彼女を好きなのか思い出すことができました」
「え?」
「その花は、僕と彼女にとって思い出の花なんです」
目を伏せて、思い出に浸るように彼がぽつりと呟いた。
「この花は、庭師だった父に連れられてお屋敷に初めて行った日、僕が彼女に贈った花です。お屋敷には僕と同い年の女の子がいると聞いて、友達になりたくて家のものを摘んで持って行きました。まだ花の扱いさえ知らなかった小さな子供だった僕は、ポケットに入れて、すっかりくたくたになった花を彼女に渡してしまったんです。…彼女は、笑って受け取ってくれました。ありがとう、でも庭師の息子なら花は大切にしなくてはね、と。忘れてしまっていたけれど、僕はこのときに彼女に恋をしたんです」
かつての美しい思い出を、彼の唇がなぞる。
それは、まだ先の長い人生のちょっとした出来事にすぎないのかもしれない。これから先、彼が営んでいく生活のなかで、いずれ掠れて、ぼやけて、見えなくなるかもしれない。
それでも、その美しい思い出が彼の背中をそっと撫でてくれるような日がきっとくるはずだ。
「後から聞いたのですが、彼女はべつに花が好きな人ではなかったんです。だけど、この花だけは特別だと言って、二人で小さな花壇を作りました。彼女と世話をするうちに、僕もこの花が大好きになったんですよ」
春に咲く花のような笑顔で、彼は私の手の中の花を見つめていた。あたたかい眼差しだった。私と言葉を交わしていながら、全く別の誰かと話しているような、薄い膜を通しながらぼんやりと会話をしているような、なにやら不思議な感覚がした。
「──では、もう一度確認します。……まだ、真実の薬をお求めですか?」
彼は少し悩んだ様子だったけれど、それでも最後にやっぱり首を縦に振った。