魔女の店
静かな朝だ。
水色を薄く伸ばしたような空が頭の上に広がって、店先に飾ってある緑に、昨夜の雨が瑞々しく残っている。私は大きく伸びをして、深く息を吸い込んだ。まだ何にも汚されていない透明な空気が、ゆっくりと肺の中を満たしていく感じがした。
一息ついてから、私は「さて」と、気合を入れた。
まずは店の中から小さな立て看板を取り出す。
『お困りごとがあればお気軽にどうぞ』
ほんの些細な困りごとでも、お茶を飲みに来るような気軽さで…と思って書いたものだったけれど、残念ながらこれはあまり役に立っていない感じがする。今ではほとんど店先を飾るオプジェのひとつという感じで、宣伝の目的はだいぶ薄れてしまった。
次に…といっても次で最後なのだけど、私は薄ぼけた茶色の扉にぶら下がっているドアプレートをひっくり返した。『open』の文字が表にでて、この店の始まりを知らせる。夜の間眠っていた時間が、この瞬間から再び動きだす。私はこの時間を、とても愛していた。
ここは、魔女の店。
嫌われ者の魔女が、人のために開いた店。
大通りの方から聞こえてくる人々が交わす挨拶や、他愛のないお喋り、鼻先をくすぐる焼きたてのパンのいい匂い。少しずつ広がっていく朝の気配を、薄い膜のこちら側で感じとる。耳や、鼻や、肌がひりつくような、そわそわするような不思議な感覚を引きずりながら、私は店の中へ入っていく。私は魔女だ。友人を絶賛募集中の嫌われ者の魔女。
◯
それは眠たくなるような午後のことだった。
控えめなノックが店に響いて、本日、二人目の来客を知らせてくれた。私はコホンとひとつ咳払いをしてから、羽織っていたローブを整える。金の刺繍があしらわれた魔女らしいこのローブは、以前、一緒に暮らしていたおばあさんが繕ってくれたものだった。
『よい魔女とは、身だしなみに気をつけるものよ』
おばあさんの言葉を頭の中で反芻させて、時間をかけながら自分の言葉にしていく。大丈夫。私はよい魔女よ。身だしなみはビシッと、格好よく決めなくてわね。
「こんにちは。魔女様はいらっしゃいますか?」
扉の向こう側から聞こえる声に、私は「いま出ます」と答えてドアノブに手をかけた。「よし」と小さく気合を入れてから、扉を開く。その瞬間、足元を“それ“が通り過ぎていった。
細くて長い耳。飛び跳ねる小さな体。真っ白な毛並みは光を浴びて、波打つようにつやつやと輝いている。──それは、白いうさぎだった。
「うわぁっ」
店先に立っていたその人は、急に足元に飛び出してきた何かに一瞬、体をこわばらせけれど、それがうさぎだと分かると今度は呆気にとられた様子だった。彼はそのまま飛び跳ねるうさぎの背中を呆然と見送っていたけれど、やがてうさぎの姿が大通りのなかへ消えていくと、我に返ったようにゆっくりと振り返った。
口の端を無理に引き上げているせいで、顔全体に変な力が入っている。こちらが気を遣ってしまうほど、彼の笑顔はぎこちなく、不自然だった。
「あ、あの、魔女様はご在宅で……」
そこまで言ってから、彼は言葉を切った。私の目の色を、彼はしっかりと確認してしまったのだ。
魔女の目は、緑と決まっている。それは言葉より重い、魔女の証だった。たとえ両親の瞳の色がちがっていても、親族に誰ひとり緑の瞳を持つ人がいなくても、魔女は緑の瞳を持って生まれてくる。それはもう、呪いとおなじだった。
そうやって魔女は生まれてすぐに捨てられるか、隠して育てられるか、だいたいこの二つに分けられる。私は前者のほうだった。それだけ緑は不吉な色なのだ。その反面、この国で緑は祝福の色でもあるので、とても皮肉がきいていると思う。
「どうぞ、中へ」
笑顔を絶やさないことこそ、よい魔女の秘訣だ。
私は、彼を店の中へと案内した。最初の一歩こそ躊躇いがちだったものの、体がすっかり店の中に入ってしまうと、彼はやっと覚悟が決まったように落ち着きを取り戻した。
◯
案内したのは、日当たりのいい窓際のテーブルだ。
大きい窓がどんと構えていて、そこからは店先の様子がよく見える。今は薄いカーテンが引かれているけれど、カーテン越しでも店先であくびをしている猫がよく見えた。
そして木製のテーブル。ところどころデコボコしていて、少しざらざらとしている手触りがなんとなく好きで、子供のころは気がつくとよくテーブルを撫でていた。おばあさんと一緒に暮らしていたころは、木の色を鮮やかに映していたように思えたけれど、今ではすっかり褪せて見えるので、私はそれが少しだけ淋しい感じがした。
「……あの、僕の前に誰か来ていたんでしょうか」
いつの間にか思い出に浸っていたのが、彼の声で我に返った。そこで気づいたのだけど、テーブルの上には二つのティーカップと数枚のクッキーが載った大皿が残っている。私は慌てて二つのティーカップを手に取って、背中の後ろに隠したけれど、今さら意味はないことに気づいて白状するように口を開いた。
「実は、先ほどまでお茶会をしていたんです」
「あぁ、なるほど。友人の方ですか?」
「いえ。その、……うさぎと」
「………うさぎ」
絶句、という言葉がよく似合う顔だった。
彼はしばらく言葉が出ない様子だったけれど、そのうちに
「……いいと思いますよ。楽しそうで」
なんて苦し紛れに言葉を続けるものだから、私は頬が熱くなった。
きっと一緒にお茶をする友人もいないんだなと思われたのだろうけど、わりと痛いところをつかれているので、私はぐにゃぐにゃとした微妙な笑みを浮かべながら、さっさとカップとクッキーを下げて新しいものを用意し直した。新しいお茶を用意して戻ってきた頃には、彼はきちんと背筋を伸ばしながら座っていて、穏やかな表情で窓から見える店先を眺めていた。
「この店は大通りから少し外れたところにあるのに、日当たりもよくて、素敵なところですね」
「…えぇ。とても気に入っています」
自分の大切な場所を、誰かに褒めてもらうことは初めてで、嬉しかった。店主とお客さま、という関係の枠さえなければ、本当ならもっと話したいところだ。たとえば、このテーブルで本を読む時の幸福感、寒い日に見る暖炉の火の美しさ、古いけれど丁寧に扱われた家具はもともとはおばあさんが使っていたものだ。お気に入りの玩具を見せる子供のように口が滑らかになってしまいそうなところをぐっと堪えて、私は彼の向かいに座った。
「自己紹介が遅れました。店主のエマです」
「ウィリアムです。…あの、何でも願いを叶えてくれる店、と言うのは本当でしょうか?」
「何でも…とはいきませんが、精一杯のことはします。ご用件をお伺いしても?」
その一言で、ついさっきまで穏やかだった眼差しは影に隠れて、わずかな沈黙が流れた。寄せられた眉間の皺からは、彼の苦悩が見てとれる。
この店を訪ねる人は、誰もが切実だ。
人を騙して遊ぶのが大好きな魔女。気に入られた人間は頭から食べられるし、気に入らない人間は呪い殺される。恐ろしさと、理不尽さと、ちょっとしたいたずら心を煮詰めて出来上がったものが魔女。少なくとも、人間のなかで魔女とはそういう存在だ。そんな魔女を頼りにして彼らは店にやって来る。そこには必ず、切実な思いがあるはずだ。
「魔女様、どうかお願いします」
慈悲を乞うような真っ直ぐな瞳と、さっきまでの怯えた瞳が重なる。瞬間的に湧いてくる嫌な感情を抑えて、優しいおばあさんの微笑みだけを、ひたすらに思い出した。
『お前には、理不尽に怒る権利がある。…だけどね、もしよい魔女になりたいなら、悪意と、それ以外を見分ける目を持ちなさい。悪意なら、そんなつまらないことに心を砕く必要はない。でも、それ以外なら、ほんの少しでいいから分かってあげなさい。許さなくていい。ただ、言葉や行動にはその人なりの理由があるものよ』
そう、私は分かりたい。言葉に隠された意味を、行動に埋もれた理由を、ちゃんと分かってあげたい。たとえ理解なんてできなくても、歩み寄ることは無駄ではないと信じたい。
私はウィリアムさんの瞳を見つめ返した。今朝の空のように、薄い青の瞳だった。
きっとこの青年には、恐ろしい魔女を相手にしてでも叶えたい望みがって、そして望みを叶える手段を必要としている。私はその切実さに応えたい。……それに、きっと彼は悪い人ではない。根拠はたった一つだけだけど、それは川底に紛れる砂金のようにきらりと光って、私の胸にある動力を確かに動かしていた。
「僕に、真実の薬をお与えください」