第8話
ソファに悠然と座る広貴さんと、その前に立つ着崩した制服姿の妹。
真っ先に見えたのはそんな二人のいつもの姿だ。
だが二人の間にあるものはいつもの空気じゃない。それは体感覚として如実にわかる。
敵対に似た気配。それも、長年の仇敵を相手にするような気配がそこには漂っている。
妹は、制服の袖でぐしぐしと目元を拭って、口を開いた。
「……言ったじゃん。今度は違うって。本当だって」
独白のような訴え。見上げる広貴さんの表情は冷然としている。
「私に、謝ってくれたよね。つらい思いさせてごめんって。もう二度とこんな思いさせないって。優以のこと、ちゃんとしあわせにするからって」
ねえ、と念を押した妹が広貴さんの顔を直視する。
この位置から妹の表情は窺えない。けれど泣き顔に近いことは、声の感じからいってわかる。
妹がずっと我慢して、心の底で押し留めて、自分だけで抱えていようと思っていたモノを、広貴さんにぶつけようとしているのも――。
「ねえ、答えてよパパ……じゃないと、騒いでる私バカみたいじゃん!」
鼻を啜って続けた妹を下方から見据えて、広貴さんは冷静に応えた。
「……ああ、言った。僕は優以にたしかにそう言ったよ」
「だったら、なんで」
「僕はいつだって優以のことを思ってる」
妹が言下に言わんとすることには答えない。
広貴さんは自分のペースを崩さない。人に合わせることだってしない。
――自分の答えたくない質問には、答えない。
「優以のしあわせを一番に願っている。だから、常にベストの選択を取ろうとしている」
「ナニソレ? これも私のためってこと?」
「当然だ。僕は君の立派な父親だからね。娘のためになることならなんだってするさ」
妹が心の裡を晒して、一度は溶けかけた空気の氷塊。
それが再び、広貴さんの凍えた言葉によって凝固してゆく。
揺れる妹の心の内側で、容易に困惑へと転化した。
「それ、おかしいよ……パパと董さんが別れることが、なんで私のためになるの?」
利用された過去がある。方便にされた記憶がある。
だからいつだって俺たちは身構えてしまう。そんなことを言われたら――。
どうか信じさせてほしい……そんな一縷の望みを断ち切るように、広貴さんは盛大な溜息をこぼした。
「今の君らを取り巻く環境がよくないことくらい、少し考えればわかるだろ」
「待って。それ、今の話となにも関係ないでしょ……」
「あるさ。というか、話の腰を折らないでほしいな」
「折ろうとしてるの、どっちだよ!」
不快な声で喚かれたと言わんばかりに、広貴さんは耳を片手で押さえた。
「そりゃ優以の方だ……だがまあ聞け。董さんとも話し合ったことだ。僕らはね、ひとつ屋根の下に、異性のきょうだいを置いておくのは互いのためにならないと、そう結論を出した」
ビクッ、と妹の身体が固まる。
それは、思ってもみなかった方向からの攻撃。
「君らはまだ高二で、これから受験も控える身だ。同年代の異性が近くにいれば悪影響が出る。勉強への集中力を欠いたり、気になったり、最悪恋慕の情を抱いたりな。そうなる前に手を打っておくのは、デキた親としての務めだろう?」
なあ、そうだろう? と納得を強要する表情が妹に注がれた。
「――なに、言ってるの」
じり、と一歩後ずさる。
あからさまに妹はショックを受けていた。
そんなバカげたことを、実の父親が面と向かって言ってきたことに。
「幸か不幸か、優以も、正斗くんも親に似て容姿が整ってるからな。不安の芽は、実際に事故が起きる前に摘んでおいた方がいい」
「ちょっと! やめてよ!!」
嫌悪感も露わに、それでも親を信じたいという心が妹を留めた。
「ねえ……お願いだから話戻してよ……私、パパとそんなことを話したかったわけじゃない」
「何故だ? 優以は僕に話を聞いてほしかった。だから僕はお願い通り優以の話を聞いてあげた。務めならちゃんと果たしている」
そう、義務は果たしている。広貴さんの中ではそうなっている。
だから妹と擦れ違う。遥か高みから見下しているから。
「その上から目線やめて! 話を聞くってそういうことを言うんじゃないから!」
涙声で叫び、妹はもう一度目元を袖で拭った。
本気の激情すら、広貴さんは冷めた視線で見送って――。
「まったく、いつまでたっても子どもだな……少しくらい大人になれないのか」
呆れ混じりの言葉で、とうとう実の娘を切り捨てた。
「さっきからどうも理解していないようだから言ってやるがな……いいか、僕は貴重な仕事の時間を割いて君の話を聞いてあげた! ワザワザ子どものわがままに付き合ってやったんだぞ! 毎夜毎夜部屋から音楽を垂れ流す迷惑行為にだってずっと目を瞑ってあげている! 扶養されてる分際で、これほど献身的な親の愛に、君は文句を付けるっていうのか! なあ優以! 答えてみろっ!!」
本当に怖いのは、親に恫喝されたことじゃない。
本当に悲しいのは、親に自分を否定されたことじゃない。
……割って入るべきだった。俺が、この時点で。
広貴さんは妹の領分を侵害している。不当に貶め、穢している。
なのに動けなかったのは、俺もまた至らない存在でしかなかったからか――。
「うっ……ううっ……」
鼻を啜ってしゃくり上げながら、何度も袖で涙を拭きながら、それでも妹は対話をやめない。父親を、諦めようとしない。
「……パパ、約束したよね……董さんのこと愛してるって、今度こそ絶対最後まで添い遂げるって……」
それは誓いだ。プロポーズの言葉。
妹と俺が居合わせたその場所で、広貴さんは母さんに求婚した。
「……あれも、嘘にするの……」
妹が突きつけたのは、広貴さん自身の言葉。
それを肯定することはつまり、自分が責を負うということ。
分水嶺だった。答えを違えれば、すべての潮目が変わってしまう。
「話を逸らすな」
容易に、冷徹に広貴さんはそれを渡った。
娘を見る視線に、親が子に向けるものではない侮蔑的な敵意が混じる。
凍える温度の溜息のあと、広貴さんはためらいの枷を外す。
「加減してやろうと思っていたが、言ってやった方がいいようだな」
「……なに、を……?」
「君は、正斗くんを誘惑してる」
「――――!!」
妹が眼を見開く。広貴さんの口元に嗜虐的な笑みが浮かぶ。
「毎日あられもない恰好でリビングを占拠しておいて、まさか僕が気づいていないとでも思っていたか? だとしたら、随分とおめでたい」
「ち、違うよ、あれは……」
抗弁のための主張が、途中で止まる。
ダメだ、そこで口ごもってしまったら――。
広貴さんは急所を突いた手応えから、饒舌な説明を加えた。
「教えてあげるよ。君にはやましいことがある。だからすぐに反論できないんだ。まったく……いらぬ世話ばかり焼かせてくれるよ。この家に来てからずっとそうだ。誰もが僕を頼って、労力と金ばかり出させて、その癖自分は勝手する」
ブルブルと、なにも言えず黙した妹の肩が震え続けている。
それはきっとこれまでとは違う、純粋な恐怖によるもの。
実の父親を信じたくて、どうにか思いをわかってほしくて対話の手がかりを探っていたのに、そのやり取りが反転して、自分を責め苛む裁判と化している。
それでも妹は必死に、自分に言い聞かせるように言葉を発する。
「違う……本当に、違うんだよ……!!」
「なにが違う? 僕個人の主観的な意見だからか? だったら……本人にたしかめてみたらどうだ」
ギロリ、と広貴さんの眼が俺に注がれた。妹はその所作だけですべてを理解した。弾けたような速度でこちらに顔を向ける。
「……お兄、いつから?」
「優以が僕に怒鳴った辺りからだ。立ち聞きとはなんとも性格が悪い」
イニシアチブを回復した広貴さんは、ソファにさらに深く腰かけると悠然と足を組んだ。
「率直なところを教えてくれ。君の眼に娘の迷惑行為はどう映ったか。ああ、別に気なんて遣う必要はない。血の繋がった実の親である僕が許可しよう。どんな結論でも構わない。もっとも、優以がリビングを占拠してる間、夕食も食べられなかった君なら口にするまでもないだろうが――」
まるで娘を嘲弄するようなそれが、最後の限度線だった。
「――――っ!!」
妹の身体が反転したかと思いきや、文字通り脱兎の如く駆け出して俺の脇を抜けた。
一拍置いて巻き起こる風を肌に感じる間もなく、妹は室内から、そしてこの家から姿を消した。
俺はただ立ち呆けて、頭の中が真っ白になっていた。
また間違ってしまった――それを理解したのも、情けないことに広貴さんの声がかかってからだ。
「……外に董さんがいたろ。止められなかったのか」
冷たい瞳がこちらを向く。君は間違ってくれるなと暗に言っている。
求められている反応ならわかる。
この数年間、俺たちは家族をやってきたのだから。
「少し失望した。優以と違って、君は絶対に間違わないと思っていた」
黙していると、身勝手な失望の対象にされていた。
「だが、まあいい。これで説明する手間が省けた」
「説明って、なんのですか」
「察してくれよ。さっき言った娘の迷惑行為についてだ。君は被害者だろう?」
被害者――誰が、誰のだ?
「娘に色目を使われて、さぞかし君も困っただろう。けどわかったはずだ。これは苦渋の決断だと。董さんと二人で何度も相談して、僕たちはこれをベストの選択だと信じた。結果は見ての通りだったようだがね」
今、この人はなにを言ったのだろう?
俺はこの人と同じ言語を解さない。理解のしようがない。
唯一脳裏によぎるのは、今すぐにでもこの人が執行すべき義務だけだ。
一歩、広貴さんに歩み寄る。ここからならわかる。死角にあった左眼の上に真新しい青痣ができている。入室する前、母さんに目立った怪我はなかった。やり返さなかったのだ。男として、それだけは認める。それだけは――。
俺がどんな眼をしていたか、広貴さんは眉根を寄せて不快感を示した。
「なんだ? さっきから人の顔をジロジロ見て、気持ち悪いな」
「……広貴さん」
「うん?」
「今しがたの言葉、本気で言っていましたか」
素朴な疑問は、気分を害するようなものじゃない。それは事実の再確認にすぎない。子から親への悪意ない質問でしかない。
なのに苛立ちを見せるのは――心にやましいことがあるからだ。
「……優等生だと思っていた。君は、君なら親を試すようなマネはしないと」
「答えてください。優以くんが俺を誘惑してるだなんて、本気で思っていたんですか」
「くどいなッ!! ……ああ、そういうことか」
広貴さんの口元が裂け、赤い月のような笑みを形作る。
「君も、まんざらじゃなかったと。となると、やはり君たちを引き離す決断は正解ということになるな」
「あなた、なにを言って……!!」
抗弁しようとした矢先、カチャリと柔らかくドアノブが捻られた。
姿を見せたのは母さんだ。先程よりもやや落ち着いた様子で俺を諫めた。
「正斗、やめて。広貴さんに立てついたりしてはダメよ。広貴さんも、子どもの言うことなんですから真正面から取り合ったりしないでください」
幼子の間違いを正すよう、母さんは言って聞かせてくる。
無力な我が子を庇護する言葉は、彼女の実際の在りようと天と地ほどの開きがある。
手を胸に当てての宣言も、薄ら寒さが先にくる。
「安心して。私は正斗の味方。優以ちゃんがああいう子だったのと、あなたとはまったく関係ないわ。これからは私と二人でもう一度家族をやり直しましょう」
歯の浮くセリフを、横から広貴さんが面白くなさそうに鼻で笑う。
「正斗くんも、見た目ほどには褒められた子ではなかったようだけどね……だがまあ、そういうことだ。君たちに危険な兆候が見てとれた以上、僕たちは親として最善の行動をとる」
最善、だと――今この人はそう言ったのか。
握りしめたまま震える俺の右拳を、傍に寄った母さんの両手が包み込んだ。
「怖がらなくていいのよ。今までみたいな贅沢はできなくなるかもしれないけど、母さん、お仕事がんばるから。正斗はなにも心配しなくていいの。あなたは母さんの宝物で、母さんが思うように育てあげた自慢の息子なんだから」
ぞわり、と背中に鳥肌が立つ。
俺と母さんの認識の齟齬は、埋めがたいレベルで隔絶していると理解した。
悪夢のようだった。これだけ言葉を尽くされているのになにも伝わってこない。上滑りする。肉の上で剥かれた皮がそうであるように――。
ただ一言、もっとも大事な言葉だけが、今この場面に存在しない。
俺がもっとも聞きたい言葉だけが、二人の心に欠落している。
「……違うだろ」
心の中が口から漏れた。溢れでるものが留められなくなる。
二人が今やるべきことは、俺に理由を言って聞かせることじゃない。
身勝手な未来の青写真の説明でも、健気な母親ぶることでもない。
俯いた俺の腹の底でなにかが煮えた。ドス黒いエネルギー。長い間、それはずっと俺の中にあったものだ。見て見ぬふりをして、隠して、溜め込んでいたそれが渦を巻いてせり上がってくる。自分の力では、止められなくなる。
「……どうして、こんな簡単なことが……」
眼圧が高まる。フローリングの床がたわんで見える。拳が固く握り込まれる。
最後の留め金だけは外してはいけない――わかっているのに、緩まる。
熱く燃えた心臓が放つ、放熱のような呼気。
自制の最後を振り搾って、俺はどうにか二人に告げた。
「やるべきことは、他にあるはずです。広貴さんも、母さんも、どうか思い当たってください。今、あなたたちがすべきことはこんなことじゃない。自分のわがままを、その顛末を、俺たちに押しつけることじゃない……」
願いとともに、見上げた。父と母を。
そうであってほしい人たちを――。
二人の演技ぶった笑顔にぶつかったとき、俺は心底から落胆した。
「随分と辛辣だな、わがままとは……けれど今の君にはそう見えるのかもな。未熟で、大人でもない、社会に出たこともない子どもらしい理解だ。だが許してあげよう。だって僕は、いつだって君たちのことを第一に考えている」
信じるに値する、もはや自分だけがそう信じている言葉だった。
広貴さんは嘘を吐きすぎた。もう己の言葉の真偽にすら鈍感になっている。
「そうよ、広貴さんの言う通り。私はなにより正斗のことが大事。本当よ。だからどうか言うことを聞いて、ちゃんと理解してちょうだい。母さん、あなたのためを思って言ってあげているのよ」
仲は冷えて険悪なのに波長が合うのは、本質的に似た者同士だからだ。
母さんの子どもに対する態度は、俺が幼児の頃から一度だってアップデートされていない。
――次の瞬間、家が揺れた。
局所的な地震のような激しい揺れは大音を伴い、しかしすぐに収まる。
何故ならそれは自然現象なんかじゃない。俺が壁をぶん殴った音だったからだ。
ひしゃげた壁は見ていない。俺は彼らの顔を見ている。
驚き、眼を剝いて、意外そうな顔をしている彼らの顔を見ている。
きっと初めて気づいたのだ。俺はこんなことをするような子どもではないと、親に反抗的な態度をとる息子ではないとずっと思っていた。部活に熱心で、規律を尊び、勉学に精をだす従順な優等生だと決めつけていた。
けれどそれは違う。俺が空手部主将なのも、風紀委員なのも、優等生をやっているのも、全部が全部、この人たちのためなんかじゃない。
俺がたゆまぬ努力の末に今の俺を形作ったのは、たったひとりの、血の繋がらない妹のためだったのだから――。
息を整え、俺は、この人たちが言うべきだった言葉をその場に残した。
「優以を、探しに行ってきます……必ず連れ帰ります」
呆然とした二人を残し、俺は夜の闇に向かって駆けた。